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第1話

 やたらと着るのに面倒臭い制服に腕を通し、自室を出る。  無駄に長い螺旋階段を下りれば、そこには俺を待つ一人の男の姿があった。 「大地様、お車の用意ができております」  スッと軽くお辞儀をする男は、たったそれだけの動きですら様になる。一瞬止めた足を動かし、頭を下げたままの男の横を無言で通り過ぎた。  用意されていた車をも無視して、俺は使い慣れたビニール傘を手に取った。 「大地様」  咎めるような男の声とは裏腹に、軽快な音を立てて開いた傘に大粒の雨が当たり跳ねる。その音の向こうで、男の名を呼ぶ小さくか細い声が微かに聞こえた。その声に返事をする男の声は、やたらに甘い。思わず舌打ちが漏れた。  毎朝毎朝、律義に声なんかかけてくるなよ。本当は俺のことなんか、気にもしてないくせに。  弟の―――空のことしか、興味なんてないくせに。  そう、あの人は……『クランケ』である体の弱い空のために存在する、大切な『ドラッグ』なのだから。  俺の実家である九波(くなみ)家は、父親で五代目になる資産家だ。そんな俺の家には、お手伝いさんや謂わば執事のような人たちがたくさんいる。その中の一人が鈴仙伊織(れいせんいおり)、先ほどの男だ。だがアレは、ただの執事などではない。  資産家などの金持ちの家には、専属の『薬師』が居ることがある。薬師とはその名の通り、風邪などの病を治してくれる医者のようなものだ。ただの普通の医者と少し違うのは、本来の力を最大限に発揮するのが『クランケ』に対してであるということ。  この世のほとんどの者が『ノーマル』であり、俺もノーマルとして生まれた。だが俺の弟は稀な存在であるクランケだった。  クランケは生まれつき非常に体が弱く、普通の医者に通ったところで治る病ではない。だたその体調不良を唯一緩和できる者が存在し、それを『ドラッグ』と呼ぶ。そのドラッグこそ金持ちがこぞって欲しがる薬師なのだが、その存在はクランケよりも希少だ。  ドラッグはクランケを治すのはもちろんのこと、ノーマルの体調不良も治すことができる。それも、肌に手を触れるだけで。だからこそ、金持ちどもは大金を積んで必死になってドラッグを抱き込んでいるのが現状だ。  九波家の薬師も、いつか奪われるかもしれない。漏れ聞こえた大人たちの会話に不安になった幼き俺は、知恵熱を出して寝込んだ。そんな俺の額に、見習いとして住み込んでいた、伊織のひんやりと冷たくて気持ちいい手がそっと当てられる。その手に熱が、スウっと吸い込まれていくような不思議な感覚だった。 「大地様、お加減はいかがです?」 「いおくんのて、きもちいい」  そうですか、と伊織がふんわりと笑う。 「いおくん……、いつかどこかにいっちゃうの?」 「僕はどこにも行きませんよ」 「たくさんおかねをもらっても?」  俺の問いに、伊織はふふっと笑った。五歳の俺から見て、十歳の伊織は随分と大人に見えた。  クランケである空の容姿は儚い少女のように愛らしく、なんの特徴もない俺の存在は無いに等しいものになっていた。  そんな中で伊織だけは、いつだって、どんな時だって優しくて、自慢の兄の様な……幼い俺の、心の支えだった。 「僕はずっと、あなたの側にいます」  髪と同じ、茅色の瞳がジッと自分を見つめている。まるで吸い込まれてしまいそうだと思った。 「……ずっと?」 「ずっとです」 「ほんとうに?」 「本当ですよ」  何があっても、あなたの側にいます。  小さな手を握る小さな手。じんわりと伝わる、優しいぬくもり。  鈴仙家は九波家に代々勤める薬師で、伊織も十二の歳で修行としてイギリスへと渡った。  そうして一年前に修業を終えて戻ってきた彼も、例に漏れることなく九波家の薬師となった。だが八年ぶりに戻ってきた男は、もう俺の知っている男ではなかった。  幼き頃に触れたあの、大好きだったぬくもりを感じることは……きっともう、二度とない。

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