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扉を開けると、鏡の前に立つリュシアンが振り返った。
「旦那様。昨夜は自室でお休みに? お姿が見えませんでしたが」
手指を水に濡らしている。着替えを終え、顔を洗い終えたところらしい。
私は歩み寄り、彼の前に跪いた。
「先ほど陛下がお見えになりました、殿下」
その瞬間リュシアンの顔色がサッと変わる。
足もとをよろめかせると、自ら整えたであろう寝台に倒れ込むように腰を下ろした。
「お顔の色が優れません、殿下。すぐに医師を呼びましょう」
「大丈夫です。それより、少し話を――」
「陛下より〝けっしてご無理をさせぬよう〟ときつくおおせつかっております。なにかあってからでは、私が陛下にお叱りを受けます」
「陛下は……ほかには何かおっしゃっていましたか」
「必要なことだけを簡単に。ここ数年の私の身に起きたことなどをひととおりお話くださいました。 ……ああ、それでひとつ私から殿下に申し上げたいことが」
「なんでしょう……?」
「よけいなことまでお伝えし、殿下にはたいそうご迷惑をおかけいたしましたこと、まことに申し訳なく思います」
「よけいなこと?」
「私が殿下をお慕い申し上げているなどという戯言 です」
色を失った唇が、はく、と何か言いたげに蠢く。
私は言葉を継いだ。
「知らぬこととはいえ、目覚めてからこれまでの数々のご無礼をお許しください殿下。いえ、お許しいただかなくともかまいません。一介の騎士の分際で、王兄殿下ともあろう御方に愛だの恋だのと。お手をわずらわすばかりか、自らの出したもので穢すなどと、とうてい許されることではない」
「テオドール」
「そもそも、〝和睦の象徴〟などという名目で長年隣国ヴィルマーユに捕らわれておいでであった陛下をお救いし、玉座にお座りいただきましたのも、王兄であるリュシアン殿下を誰の手にも届かぬ存在、ひいては我が物にしたいと願う私のこの身勝手さが招いたこと。殿下が私を愛しておられるとおっしゃりながら、その身を委ねることをためらわれた理由……それはおなじ先王のご落胤でありながら王子となった弟とはちがい、奴隷とならざるをえなかったご自身をここまで匿った我が父、前のクレール伯への恩に報いるためであって、けっして私をひとりの人間として愛していたわけではないからなのでしょう。おそらく、こうして私が騎士として殿下に近しく仕えることすら本心では疎ましく思われていたにちがいない。それを記憶を失ったのをいいことに身の程も知らずにと……さぞや忌まわしくも思われたことでしょう」
一息に言い切ると、目のまえには見たことのないような絶望した顔があった。
「我が国が隣国との和睦、そして併合を無事果たせましたあかつきには、相応の処罰を受けるものと覚悟しております。その際は容赦なく何なりと罰をお与えくださいますよう」
部屋を出ようとすると私の袖を震える指先が絡め取った。
「待ってください。陛下がそのようにご説明なさったのですか。私がいまここにいるのは、貴方がすべて勝手になさったことだと?」
「さあ。私の取りようが悪かったのでしょうか。そのご様子ですと、おおまかには事実を捕らえているようではありますが……しかしそのような些事、もはやどうでもいいことです」
縋りつく手を振り払う。
ぎしり、と寝台が軋む。
「大切なことはひとつ。おまえが本当のことを頑なに話そうとしなかったということだ、リュシアン」
背中に視線を感じながら、自室へ続く扉を閉める。
ふと冷え切った腹の奥に熱が灯った。
「は……」
嗤いがこみ上げてくる。
これほど打ちのめされておきながら、私の身体は壁一枚隔てた彼の視線ひとつで簡単に昂ぶってしまうのだ。
「愛とはかくも複雑なものなのか」
熱いのは私自身か。
それとも包み込んだ手のその幻影か。
あれはあくまで家族としての情だったのだろう。
若い肉体を持て余した弟を、海原のように広い心でもってひととき慰める庇護者ような。そんな背徳的で閉鎖的な獣の愛情なのだろう。
ふと広間で聴いた美声が蘇る。
長椅子にゆったりと腰掛け、無造作に肩に垂らした美しい金の髪を指先に弄びながら、彼とよく似た形の唇で若き王は言った。
『真実を知るのは恐ろしいか、クレール卿』
知らぬほうがよほど恐ろしいと答えると、そうか、と王は満足げに微笑んだ。
『伯にとっての真実は、おそらく伯が思う数倍は残酷だろう。兄上が語るのをためらわれるのも無理はない。それでも彼は私にとって大切な血を分けた兄だ。助けたいと私が願うのも無理ないことだと理解するがいい』
覚悟の上ですと私が答えると、王はわかったとお頷きになり、私とリュシアン、そしてご自身に起こった悲劇とその顛末をお話になったのだった。
『それで……これから先、どうすれば』
すべてを聞き、事の重大さにおののく私を前に、陛下は悠然と微笑まれた。
『それを決めるのは伯と、そして兄上であろうよ。血を分けた弟ではあるが、私と兄上とは顔を合わせてまだ日が浅い』
『ですが陛下は殿下の思し召しをよくよくご理解なさっておいでのご様子。それには兄と弟、余人には計り知れぬ理解が働いているのでは』
『まさか』
そのようなことあろうはずがないよ、と陛下はお笑いになった。
『単に私は兄上ご本人よりお考えをうかがったまでのこと。数えきれぬ歳月を共にしたそなたと兄上の絆にはかなわないし、かなおうとも思わない』
『ですが……』
『ああ、もういい! いい加減にしろクレール卿!』
ふいに声を荒らげたのは、それまで黙って陛下の背後に控えていたダルマン卿だった。
『貴様に計り知れぬのは陛下のお立場とご多忙さだ! 本人でないものがいくら膝をつき合わせたところで答えの出ようはずがないことを、子供のようにいつまでもぐちぐちぐちぐちと!』
『いけないぞジール、伯は――』
『フランソワもフランソワだ! 殿下と伯のことを想ってといいながら、内心愉しんでいるのはわかっているんだぞ』
意外な親しみを込めて己の名を呼ぶ宰相を王は怒るでもなく、叱られてしまった、と悪戯を暴かれた子供のように肩を竦めた。
そうこうしているうちに、私と歳のさして変わらない青年宰相は陛下を部屋の入り口まで引っ張っていってしまう。
『とにかく、クレール卿。これ以上陛下のお言葉に耳をかたむけるな。この方は誠実そうに見えて実は、いまの貴様など足もとにも及ばないほど質 がお悪い。何か納得がいかないことがあるのなら直接殿下へおうかがいするんだ。元はといえば貴様らが播いた種。伸びすぎた枝葉が景観を損ねるというのなら、ためらわずに刈れと教えて差し上げろ!』
「伸びすぎた枝葉……か」
リュシアンにとって私は手に余るほど繁茂した壁の蔦というわけだ。
無理やり引き剥がそうものなら汚らしく根を残し、焼けばもろとも燃え尽きる、やっかいなことこの上ない存在。
ならばいっそ自分から身を引くしかないのだろう。以前の私が隠してきたであろう気持ちを心の奥底に静め、悲哀に涙を流し枯れ落ちるしか。
広間を去り際、陛下が残された言葉が気にかかった。
『いろいろと口を挟んでしまったが、恐れることはないよ、クレール卿』
いまになれば陛下はこの言葉を伝えるためだけにいらしたのだと、そう思えるほどに真摯な声だった。
『変わらぬ魂、その根底にテオドール・ド・クレールという人間があるかぎり、どうせ過去は繰り返すのだから』
そして兄上も本当はそれを待っていらっしゃるのだよと、ダルマン公の腕に腕を絡め、尊い御方はリュシアンによく似た美しい顔で微笑まれたのだった。
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