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リュシアンが倒れたのは数日後のことだ。
「過労ですねぇ」
またずいぶんとご無理なさったのでしょうと、寝台に身体を起こしたリュシアンの手を取りながら医師が言う。
「恐れながら……医師としての私の見解といたしましては、ご兄弟揃ってあまりお丈夫ではない。先日はあちら今度はこちらと、こうも立て続けに倒れられては、侍医である私の管理にダルマン公から疑問を持たれます。ただでさえクレール伯の記憶が戻らない件もありますし」
「すみません、ブレトン殿。彼 の方には私からのちほど説明を。あなたの職務評価に何ら影響のないよう努めますので」
リュシアンが目を伏せると、私と同年代と思われる年若い医者は眼鏡の奥の視線をふとやわらげ、からりと笑った。
「冗談ですよ。リュシアン様が色々と気負われる方だというのは、私もそこそこ付き合いを重ねてきましたから、重々承知しています。ですが大切な御身。お気をつけください」
「感謝します」
ブレトン医師が帰るのを見送って、リュシアンの居室へ戻る。
「先ほどの兄弟というのは、ヨハンの父親か」
「え……ええ。ヴァローにいる義兄(あに)のことです。先日風邪をこじらせたようで」
「そうか。おまえが先に起きられるようになったら見舞いに行くか」
ヴァローといえばリュシアンの養子先でありクレールに仕える庭師の一族だ。記憶を失ってからは名前だけをぼんやりと覚えている程度だが、顔を見ればなにか思い出すかもしれないという打算もあった。
しかし、リュシアンはその提案を頑なに固辞した。
「いえ。あちらもう大丈夫だと聞いています。義兄は義兄で旦那様のお加減をたいそう気にしているようですから、記憶が戻らないうちはかえって気を遣わせるだけかと。……旦那様のお気遣いはありがたいのですが」
「……わかった。無理にとは言わない」
とにかくいまは休め、とかすかな失望をおぼえながら言うと、リュシアンはホッとしたように身体の力を抜いた。
「少し眠れば元に戻ります。旦那様もわたくしにかまわず、お休みになってください」
昼食を終えたころ館がなにやら騒がしくなる。
走り回る下男のひとりを捕まえて事情を聞こうとし、先日のことを思い出して止めた。ひとり放っておかれるほうが周囲を観察できることに気づいたのだ。
よほど慌てているのか、私の存在に気づいても「部屋へ引き返せ」と言う者は誰ひとりいない。性懲りもなくふらふらと出歩く主を誰かが部屋まで引っ張っていってくれるだろうと、皆 が皆 思っているということだ。のちほどあらためて教育が必要だろう。
明け放れたままの扉の裏に身を隠し、館に飛び交う声を聞いた。
どうやら客人らしい。皆の慌てようから察するに突然の来客――それもダルマン公爵以上の位にある人間のようだ。とりあえずは広間に、と侍女を走らせる声で客人が通されるであろう場所もわかった。密かに庭へ下り、先回りして広間の外で準備が整うのを待つ。
「それで、兄上のご様子は?」
しばらくすると広間の喧騒が静まり、窓越しに穏やかな声が聞こえた。伸びの良い男の美声だ。一語一語の発音にどことなく異国の匂いを感じる。
「は。今朝早くに意識を取り戻され、いまは居室にてご静養中です」
次いで侍従の応える声。緊張からか、こちらは幾分震えている。
「ご挨拶さしあげたいのだが、案内してもらえないだろうか」
「も、申し訳ございません。現在手はずを整えている最中でして」
「ああ……クレール卿か。まず彼をどこかにやらなければ、という話か」
「は。それが……旦那様のお姿が先ほどから見えず、ただいま必死に探しておりますところで――」
「私ならここにいる」
バルコニーへ続く扉から室内に入ると、こちらを見た侍従が悲鳴に似た声を上げた。
「旦那様っ」
呆然と立ち尽くす彼の横を通り過ぎ、背を向けた客人が座る長椅子の前に回り込んだ。
男の顔を真正面にとらえる。
私は息を呑んだ。
「ごきげんようクレール卿。突然の訪問、失礼するよ」
取り乱さずに済んだのは、ひとえに警戒心が勝ったからだろう。
館の主を前に立ち上がりもせず、長椅子に腰掛けたまま悠然と微笑むその人物は、頭の先から爪先まで、その造作のありとあらゆるところが私の愛しい青年――リュシアン・ヴァローに酷似していた。
わずかな差違といえば、リュシアンが東国の血に起源を持つ艶やかな黒髪と榛色の瞳をしているのに対して、目のまえの青年は我が国の民にしばしば見られる赤みがかった金の髪、そして深い湖を映し込んだような碧色の瞳をもつということくらいだ。
「……失礼を承知で申し上げる。貴殿は、どなたか」
絞り出すような声にリュシアン――その対となるような青年は、微塵も気を害することなく向かい合う椅子を指した。
「眠っていらっしゃるんだろう、兄上は。ちょうどいい機会だ。そのあいだに少々話をしよう」
「兄上……リュシアンに血縁が?」
そんな話は聞いていないと言いかけて、聞かされていないのだと自嘲した。
医者の言っていた〝兄弟〟というのは、ヴァローではなくこの青年とリュシアンのことだったのだろう。『兄弟揃って』というからには、義理の兄より血の繋がった弟ととらえるほうが自然だ。
つまり、リュシアンは私に嘘をついたことになる。
「私はまたのけ者、というわけだ」
私の呟きにリュシアンとよく似た弟は微笑んだ。
「記憶を失う以前の卿にはいろいろと世話になった。力になってやりたい――と言いたいところだが、私も兄上に口止めされていることが多くてね。大変心苦しいが……」
そのとき、広間の入り口が勢いよく開いた。
「陛下、なぜ私に黙ってこのような場所に――!」
勢い込んで入ってきたダルマン公は、振り向いた私の顔を見てあからさまに「しまった」という顔をした。
「いたのか、クレール伯。まさかとは思うが記憶は……」
「いまだ戻りません、ダルマン公」
「……私のことを? 失った記憶はリュシアン殿に関することと、ここ数年のことだと聞いたが」
「ええ」
先日のご訪問時、密かに話を聞かせていただきました――私の言葉にダルマン公爵は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「記憶を失ったところで、悪趣味なところは変わらないな」
「否定はいたしません閣下。ですが」
己の失言にほぞを噛む様子のダルマン公から視線を逸らし、後ろを振り返る。
「わたくしの推測が確かならば、ただいまのダルマン公のご発言により〝口止め〟とやらの必要はなくなったものと考えますが……いかがですか、陛下」
たしかに、と金の髪の流れる肩を竦め、青年王はあらためて長椅子へ深く腰掛けた。
「さてクレール伯。これまでと、これからの話をしよう」
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