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  「こんなところにいたのか」  声をかけると恋人は驚いて振り返った。  榛色の瞳に緊張が走る。 「なぜここに?」 「おまえこそ。ずいぶん探した」   ダルマン公との逢い引きはよほど私には知られたくなかったにちがいない。多少わざとらしく周囲を見回し「ひとりか」と問うと、安堵したのかこちらを見る目がふっと和らいだ。 「外の空気を吸っていました」 「この寒空にか」 「昨夜から部屋に篭もりきりだったものですから」 「窓を開ければよかった」 「旦那様がお休みになられているのです。お身体を冷やしてはいけません」 「風邪でもひけば、また付ききりで看病をしなくてはならないから、か?」  リュシアンは眉を曇らせる。 「……そんな顔をするな。目覚めたとき寝台に恋人の姿が見えなければ、恨み言のひとつも言いたくなる」  想いを確かめた――あの日以来、リュシアンは寝室を私の部屋へ移している。  寝室をひとつにするという提案は最初「夜半過ぎまで部屋に戻れない日もありますから」と〝仕事〟とやらを理由に断られそうになったが、突然記憶が戻るようなことがあったとき、状況をもっともよく理解している者が傍にいたほうがよいからと、無理やり説き伏せた。 これで毎夜甘い時間を過ごせるだろう――しかし私の目論見は見事に外れ、リュシアンが部屋にいる時間はほとんどなかったのだった。  度重なる誘いに辟易して私を避けている――というわけではない。この男は真に多忙なのだと、ここ数日で思い知らされている。  ――その理由が、まさか私が記憶を失ったせいだとは。  情けないにもほどがあると自分を嗤った。 「あ……」  リュシアンがふと空を見上げる。 「どうした」 「雨が」  途端に大粒の滴が生け垣を打った。いつの間にか頭上は黒々とした雷雲が立ちこめている。  すぐにでも一雨来そうな様相だ。 「ひどくなる前に戻りましょう」 「待て」  裾についた落ち葉を払う手を私はとっさに掴んだ。 「なにか?」  「幼いころ、今日のようにこうしておまえを追いかけたことがあっただろう。夜、邸の……暗く長いあの回廊で」 「夜――ですか?」 リュシアンは眉を顰める。  一瞬なにかを考えるようなそぶりをしたあと、打ち消すようにかぶりを振った。 「そのようなことは、なかったかと思いますが」 「……たしかか?」 「ええ。わたくしは旦那様が」  す、と胸の下あたりに手をやる。 「ほんのこれくらいの背丈をされていたときからクレールに仕えています。しかし、はじめわたくしは(さき)の伯爵様――お父上付きの侍従でしたので、貴方にお目にかかるのは一日のうち、ほんのわずかのあいだでした。それに、当時はわたくしも子どものようなものでしたから、引き取られた先のヴァローから毎朝お邸へ通っていたのです。もちろん夜は家に戻っておりましたから、当時の旦那様が夜遅くにわたくしの姿をお邸で見る機会などございません」  答えはよどみない。  それでも諦めきれず食い下がった。 「だが、しつこいくらい何度も夢に見る。私はおまえを追いかけている。とても生々しくて、空想の産物だとは思えない」 「……夢の中の私はどのような姿でしたか?」 「どう? ……そうだな。質素な服を着て、背格好はいまのおまえくらいだ」  リュシアンはなぜかほっと息を吐いた。 「であれば、やはり旦那様のご記憶違いでしょう。申しましたとおり、旦那様がお小さいころの私もまた少年の域を出なかった。とてもいまほどの背丈はございません」 「……そうか」 「当時は侍女も教育係ももちろん別におりましたが、わたくしのような者もときどきは旦那様の遊び相手として声をかけていただくこともありました。おそらく、そういった情景と記憶を失った不安とが、いまになってそのような夢を見せるのでしょう」 「ならば、あの夢に出てくるのはおまえじゃない、ということだな」 「ええ。その方がどちらかまでは存じませんが、少なくともわたくしではありません」 「……わかった」  よほど落胆して見えたのか――リュシアンは私の手をとった。 「なぜそのように事をお急ぎになるのです?」 「なんだと……?」 「記憶はいずれ戻りましょう。いまは傷が癒えただけでも喜ばしいことと思わなければ。ちがいますか」 「それは」  ――ダルマンがおまえを責めるからだ。  しかし、そう言ったところでどうにもならないのだろう。  この男はきっと己を責める。  誰もが焦っている。私も――リュシアンも。 「記憶をすべて取り戻せば、おまえはおとなしく私に抱かれるんだろう」 結局口から出るのはそんな言葉だった。 「そのような理由で?」 案の定、呆れたような笑い声が返ってくる。 「私にとっては死活問題だ。これでは一緒に寝る意味がない。むしろ生殺しで、つらい」 「まるで、我慢のきかない子どものようですね」  子ども。  目覚めたばかりの私はまさに子どものようなものだ。  恋した人に心配と迷惑をかけることしかできない、情けない子ども。それがいまの私だ。  ふ、と冷たい指が私の額に触れた。  ほつれた前髪を掻き分け、綺麗に切りそろえられた爪が眉尻をなぞる。  「……ほら雨粒が。いよいよ本格的に降り出しそうです」  行きましょうと手を引かれ、いぶかしげな顔で出迎える下男侍女たちの前をまた通って部屋へ戻った。  濡れた髪を拭おうとタオルを探すと、なぜか寝台に押し倒される。 「なにを」  これではいつもと逆だ――戸惑う私の上着を脱がせながら、リュシアンは穏やかに微笑んだ。 「旦那様は根を詰めすぎなのです。ゆっくりお休みになられるよう、わたくしが手助けをいたします」 「もう何日閉じこもってると思ってる。これ以上は眠れと言っても無理だ」 「ですから……眠たくなるようなことをするのですよ」  疲れてしまえば人は眠ります――リュシアンの手が私の喉元で踊った。  あっと驚く間にシャツが肩をすべり落ちる。  鼓動が跳ね、どっと汗が噴き出した。 「なぜ――」  思わず押し返す手も叶わない。  リュシアンは手慣れた手つきで私の上半身を剝き、そして下履きに手を伸ばす。 「そこは……っ」 「まだすべてを差し出せるわけではありません。ですが……その不安がわたくしのせいであるのなら、わたくしにできることはすべてしてさしあげる覚悟があります」  きゅ、と燃えるような手がそこを掴んだ。 「それがわたくしの……貴方への愛です、テオドール」  なんとも他愛ない身体だ。自分でも呆れるほどだった。  しなやかな指に導かれ、あっけなく天上へ続く階段を昇った。  鋭敏になったところを熱い舌に絡め取られ、すぐさま二度目を放った。  擦れて赤みを増した唇を己の吐き出した白いものが濡らし、その様を見てふたたび兆して、三度目は艶やかな黒髪を鷲掴みにして快楽を貪った。  すべてが終わった部屋に満ちるのは、激しい雨音と湿った吐息。  全身の力を失って私はもう立ち上がることもできない。 「リュ……シアン。私は」 歓喜。悦楽。――屈辱。  打ち震える唇を濡れた指がふさぐ。 「いまはゆっくり眠るのです。そして、気づいて」  ――気づく。 「何、に」  黒髪が揺れる。 「その答えには貴方ひとりの力でたどり着かなければ。これは、貴方の問題だから」 「私の……問題」 「そう」  貴方なら、きっとできます。  必ず。  祈るようなその声は、眠る私の耳にいつまでもこだまする。

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