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夏樹 はシャワーを浴びて着替えを済ませ、タオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきた。その道中、雪哉が点けて回った使わない部屋の電気を消し、それからテレビの音量を少し下げると、雪哉 の隣にどっかり腰掛けた。
それは、雪哉の知る日常の一部だ。
夏樹と過ごした日々がまた一つ甦り、雪哉は寄りかかりたくなる気持ちを懸命に振り払い、いつも通りを心がけながら顔を上げた。
「…ありがとな、来てくれて」
「少しは落ち着いたか?」
「うん、助かった…ごめんな」
「いいんだよ、お前の事気になってたから」
何て事なく笑う夏樹のその優しさに、泣きそうになる。
雪哉は幼い頃、家族と出掛けたキャンプ場で天気の急変に遭い、雷がトラウマとなる体験をしていた。雨風当たるテントの中、雷が空を駆け抜ける。いつかテントを剥がして雷様が自分を襲ってくるのではないかと、震えが止まらなかった。さすがに、もう雷様が居るとは思っていないが、その当時のトラウマは根強く、今も雪哉の心に深く留まっている。
その話を、笑うでもなく受け止めてくれたのが夏樹だった。
昔、高校からの帰り道、雷に震えうずくまる雪哉を見て、只事ではないと感じ取ったのだろう、夏樹は極端に雷を恐れる雪哉を笑うでも呆れるでもなく、「大丈夫、大丈夫だから」と繰り返し、雷から守るかのように背を擦り、恐怖が遠退くまで側に居てくれた。
あの時の、心強い声と優しい手の温もりを、雪哉は今でも覚えている。不覚にも涙を零してしまったのは、恐怖からではない、嬉しかったからだ。男のくせに、雷に怯えて泣いているのかと、中学の頃まではよくからかわれていたから。でも、夏樹は違う、理解してくれた。
その優しさに、雪哉は救われた。
それから夏樹は、同居を始めてからも雷が鳴る日は出来る限り飛んで帰ってきてくれて、今日のようにこうして抱きしめて、雪哉の心を落ち着かせてくれていた。
雪哉が夏樹に恋心を抱いたのは、自然の流れだったと思う。
でも、そんな恋も、もう終わりだ。同性同士、高校の同級生からの腐れ縁で同居人。夏樹が雪哉を恋愛対象として見る事は無かったし、きっとこれからもない。夏樹は三日後、結婚する。考えれば考える程落ち込みそうで、雪哉はそんな心を叱咤して、努めて明るく振る舞った。
「俺もダメだよなー、雷くらいでこんなんになってちゃ。ちゃんと一人でも平気なように強くなんないとなー」
「まぁな…でも、無理するなよ。誰だって怖いもんや無理なもんはあるんだから。お前の雷恐怖症は尋常じゃないからな…俺ならいつでも来れるから」
夏樹の優しさに、雪哉は口元に笑みを張りつけ、そっと視線を落とした。
そんな事、言うなよ。分かってたって、期待しそうになる。
口にしたら泣いてしまいそうで、雪哉は一拍置いて口を開いた。
「…はは。奥さんに怒られちゃうぞ」
「あいつなら分かってくれるよ」
「分かってくれたとしても、奥さんの気持ち分かってやれよ。新婚だろ」
「まだだけどな」
「もう結婚するんだから同じだろ」
そう言えば、照れ笑う夏樹の顔に、胸の奥がジクッと痛んだ。
「でも、お前はなんか、弟みたいっつーか放っとけないんだよ…心配なんだ」
困った顔でそんな事言われたら、どうしたら良いのか分からなくなる。「なんだよソレ」と笑いながら、雪哉は逃げるように立ち上がった。何気なくベランダの方へ進むと、カーテンの隙間から空が見え、雪哉は降り続く雨を見上げた。
雨がずっと止まなければ、夏樹は側に居てくれるのだろうか。
そんな事をつい考えてしまう。そんな事あるわけない、夏樹の優しさにつけこんでいるだけで、二人の気持ちが重なる事はない。
改めて自覚すれば余計に傷ついて。自分で傷を増やすなんてバカみたいだと苦笑い、泣き出しそうな心をぎゅっと抱きしめると、雪哉はわざと口の端を持ち上げ顔を上げた。
「雪哉?弟みたいって言ったのが気に障ったか?ごめん、つい」
「バーカ、そんなんじゃねぇよ」
気づいてるようで、夏樹は全く気づいていない。何に心を痛めているのか、きっとこの先気づく事はないのだろう。
雨はいつか上がる、どうせこのままではいられない。
「俺さ、お前のそういうとこ好きだよ、優しくて、変に正義感っつーか、責任感が強いところ」
雪哉は振り返って、頑張って笑った。
「お前のこと、好きだ」
精一杯、気持ちを込めて。気づけばそれでいいし、気づかれなければそれで良い。気づかない振りするならそれはそれで構わない。ずるいとは思わない、雪哉だって同じようなものだ。
少しの沈黙が流れ、夏樹はきょとんとして雪哉を見ている。この表情は知っている、これはきっと、気づいてない。
「なんだよ急に、照れるだろ!」
照れくさそうに笑う夏樹に、雪哉も笑った。頑張って笑った。
「いーじゃん、言いたくなったんだよ」
伝わってるようで、本心は全く伝わっていない。それでも、これでいい。これでちゃんと決心がついた。
降り止まない雨の中、この時だけは誰よりも一番に想ってくれた。その錯覚だけで、こんなにも幸せだ。
この思い出だけで十分。だから、だから、とそう言い聞かせて、雪哉はソファーに戻ると、タオルケットを被ったまま足を抱えて丸くなった。
「どうした?雷なら、多分もうこないだろ」
「…雨見てたら、さっきの思い出してちょっと怖くなった」
「大丈夫か?」と心配して顔を覗き込んでくる夏樹に、雪哉は顔を見られないよう、抱えた膝に顔を埋めた。
夏樹はその姿を見て、黙って雪哉を片腕で抱き寄せた。その温もりに、雪哉は耐えきれず涙を零した。
これで最後。少しくらい甘えても罰は当たらないだろ。
居るか分からない神様に願って、雪哉は目を閉じる。
もう少し、もう少しだけ雨を降らせて。
雨が上がったら、ちゃんと前を向くから。
雪哉の願いが通じたのか、この日はいつまでも雨が降り続いていた。
了
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