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崩壊──02.
小さく呟いてしまった声に、男は素早く反応した。まるで少しの物音も見逃さないよう神経を張り巡らせていたかのようだった。
鋭い視線に今更声を抑えてももう遅かった。
少し離れたところにいるというのに、背の高い美しい顔を持った青年は立ち尽くすトイの姿を見つめ、値踏みするように目を細めた。
「……こんなところに、か」
独特な低音が耳朶に響いてきて硬直する。
未だに絡みつく女性の手を乱雑に振り払い、女性を一瞥もせずにトイだけを見つめながら、男は一言「消えろ」と言った。
女性はにべも無い拒否に腹立たしさを覚えたのか男に食ってかかろうとしたが、ぐしゃりと丸められた煙草と共に拳を目の前の壁に叩きつけられてか細い悲鳴をあげてさっさと逃げ去った。
悪態を吐き捨てながら走ってゆく女性の背中を目で追いかけることはできなかった。
くしゃくしゃになった煙草を地面に落とし、靴で強く踏み潰した青年がトイから目を逸らしてくれなかったからだ。
「道理で見つからねえはずだな。どっかのスラム街の路上にでも転がってると思ってたが」
青年は錆びて古びた扉の目の前で、面倒臭そうにポケットに手を突っ込み扉に背を預けた。トイのことを探しに来たのだろうが、その青色の目に喜びの色などは映っていなかった。
トイがこれまで見てきたものとなんら変わらない、全てがどうでも良さそうな冷めきった瞳が影の中に二つ浮かんでいる。
「トイ」
ひくりと、背が震えた。シスターに名を呼ばれた時には感じなかった恐怖に身体が強張る。
彼に名を呼ばれるのが本当に苦手だった。逃げ出したいのに足が固まってしまったかのように動かない。
1年ぶりの邂逅だというのに、脳裏に響きはじめた冷たい声と、自由を奪う沢山の腕や愉しげな笑い声はどうしてこんなにも鮮明に思い出されてしまうのだろうか。
暗闇に満ちた世界から抜け出せたと思っていたのに、トイの全てを奪う低い声に全てが逆戻りしてしまった。
唇の温度すらも下がっていく。今トイは、青白い顔をしているに違いない。
「おい、何突っ立ってやがんだ」
平坦だった青年の声に苛立ちが滲み始める。いつもこの瞬間が怖かった。
彼にこの声をぶつけられた後は、必ず八つ当たり気味に扱われていたから。
「入るんだろ? 入れろ」
絶対的な命令。今のトイには抗う術も、拒否する術もない。
張り付いてしまっていた足を渾身の力で地面から引き剥がし、トイは湧き上がる吐き気を飲み込みながらトイの部屋の扉の前に我が物顔で立つ青年に向かって足を踏み出した。
トイにとっての痛苦を部屋の中に招き入れるために。
夕暮れの赤は、もう血のように濃くなっていた。
****
トイの部屋は、お世辞にも綺麗とは言えない場所だ。
だから「汚ねえ部屋だな」と一瞥されても何も言い返すこともできなかった。
なにせ手洗い場は外で共有だし、シャワー室は狭いし、小さなキッチンは錆び付いているのだ。そして奥にある部屋には育児院から貰った捨てる予定だった小さなテーブルと椅子が二つ、そしてシングルベッドが一つ置かれているだけだ。
「働いてんのかお前」
背後に立つ青年の気配が圧倒的過ぎて、冷や汗が額に滲む。顔を上げることができない。それ以前に声を出すことすらもままならない。
この一年間、朝の光のように穏やかな世界に片足を突っ込み、鬱々とした環境とはかけ離れた場所にいたせいで恐怖が倍増してしまっていた。
「住んでるっつーことは金がいるだろ。このテーブルも。元からあったもんじゃねえんだろ」
こつん、と青年が拳で叩いたテーブルは古くて至る所に傷がついている代物だが、この小汚い部屋には不釣り合いな装飾が施され、しっかりとした木でできたアンティーク用のテーブルだ。
それに彼は目ざとく気づいていたらしい。
「売ってんのか」
何を、とは言わなくともそれぐらいわかる。
青年は高級感のある黒いジャケットのポケットから小さな箱を取り出し、再び煙草を咥えて火をつけるとくるりとトイに向き直ってきた。
1年前とは違う、随分とラフな格好だった。
「それ以外、稼ぎようもねえだろお前」
煙を吐き出しながら上から下まで、淡々とした視線がトイの体の上を這い回る。
思い出すことでさえ苦痛を伴う煙草の香りに眩暈がしそうだ。
服を着ているというのに素肌を晒されている気分になって、具合の悪さがどんどんと増していく。
明確に否定しようと口を開いたが、やはり声は出なかった。視線も地面に向かってしまう。ただただ体と心が重い。
何でこんなところにいるんだ、とか。何で今更トイの前に現れたんだ、とか。言いたいことは沢山あるのに何も言えない。
ましてや今すぐにでも出て行って欲しいなんてこと、言えるはずもなかった。
「おい」
答えないトイに焦れたのか、つかつかと迫ってきた青年に胸ぐらを掴まれ上を向かされる。
身長差があるためかかとが浮いた。至近距離に迫って来た小綺麗な男の顔に、思い出したくもない記憶がフラッシュバックして息が苦しくなった。
揺さぶられ、穿たれ、酷使されて傷ついた体にさらさらと落ちてくる金色の髪や汗が、剥き出しになっている傷に触れて痛かった。
「答えろ、ブン殴られてえのか」
「売って、ない……」
宣言通りのことを、この男はする。
トイはそのことを、身をもって体験している。
「体は売って、ない……」
絞り出した声に青年は鋭い目を気だるげに細めた後、掴んでいた指を緩めくっと口角を釣り上げた。
嘲笑とも違う、値踏みするようなそれはトイの苦手な笑い方だった。仏頂面で、滅多に表情を変えないこの男がこういった表情を浮かべる時は、大抵恐ろしいことしか起こらない。
「喋れるんじゃねえか」
煙草を咥えながら、男は器用に片頬を上げせせら嗤った。
「もう声が出ねえんじゃねえかと思ってたぜ。あの時も、最後の方は声帯ぶっ壊れてたみてえだしな」
あの時、という台詞に下を向く。溜まった唾を必死に飲み込んで思い出さないようにしたくとも、目の前の金色の髪と青の瞳はそれを許してくれない。
この男は残酷な4人の男のうちの一人にしか過ぎなかったはずなのに、こんなにもまだ、身体も心も彼を恐れている。
「完璧に壊れたと思ったんだけどな。生きてたとは、元気じゃねえか」
トイを壊した男たちの中でも、この男はむしろドライな方だった。殊更トイに執着心を抱いているようにも見えなかった。共に過ごした──と言えば語弊があるが、一つの屋敷で共有されていたのは1年と数か月だったが、むしろ他の3人のほうがトイの体や心を壊すために嬉々として色々なことをしていた。
目の前にいる男は、虫の居所が悪い時や溜まった欲求を発散する時はトイを組み敷いたが、それ以外ではてんでトイには無関心だった。
仲間に煽られ気が乗った時だけゲームのような狂乱に参加して愉しんでいる風でもあったし、他の3人と同様にトイへのいたぶり方は容赦なかったものの、酒や煙草の肴程度、という態度は始終崩さなかった。
そんな男だったので、まさかトイを探しに来たのが他でもなく彼だとは思いもしなかった。
最後の日、そろそろ反応もねえし飽きたな、とつまらなさそうに呟きいち抜けたのもこの男だった。この冷たくて綺麗な男……ソンリェンだけ。
「トイ」
くいっと顎を持ち上げられる。こんな風にソンリェンに名前を呼ばれたことは、あの屋敷にいた頃は一度たりともなかった。
いつもおいとかてめえとかお前とか、物のように呼ばれていた。
いや実際物だった。溜まった時だけ突っ込んで吐き出して処理をするための穴、そこにあるから利用する玩具、ソンリェンにとってトイはそんな存在だったはずだ。必要以上の会話をすることもなかった。
それなのに、壊して遺棄し、今ではもう存在すらも忘れられているであろうトイを見つけたのが、どうしてソンリェンだったのか。
「脱げ」
端的な命令に、青ざめる。
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