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お出かけ──20.

   それから3日間、ソンリェンがトイの家を訪れることはなかった。  もしかして飽きてくれたのだろうかと、トイは期待を抑えられなかった。  まともに話すことも喘ぎ泣くことしかできないトイなんか相手に、あのソンリェンの興味が持続するはずがない。1年ぶりだったから物珍しかったのだ、そうであってほしいと願っていた。  最後にソンリェンに会った日、乱暴に犯されたせいで次の日は熱も出てしまい、流石にまともに起き上がることができなくて育児院に行くことができなかった。  だが、もともと火傷もあるから休めと言われていたから、結果的にはよかったのだと思う。  次の日幾分か元気になった姿で育児院を訪れれば安堵した表情のシスターと子どもたちに出迎えて貰えた。いつものように子どもたちと遊んだり、少し雨漏りが酷い屋根をみんなで修理したり、平穏な日々を送ることができた。  そして、ソンリェンが来なくなって3日目の月曜日は、週に1日ある休みの日だった。できることなら毎日でも育児院に行って子供たちと遊びたかったのだが、街の外れに並ぶ屋台を回って安い食材の買い物など、するべきことはたくさんあった。  だからできることならば、今日はソンリェンには来ないでほしいと願っていたのだが、そんなトイの望みは朝には立ち消えることになった。  **** 「さっさと起きろ」  あまりにも驚きすぎてトイは目を開けた。聞こえるはずのない声が聞こえたからだ。 「いつまで寝てんだお前」  冴えてしまった頭を、声がした方向へとぎしりと動かす。ベッドの傍に椅子が置かれていてそこにソンリェンが座っていた。  足を組み煙草を吸い、どかりと我が物顔で椅子に腰かける姿は何度見ても圧倒的で、このくすんだ部屋には不釣り合いに見えた。 「おい、お前朝飯食ったか」 「……」 「答えろ」  どうしてソンリェンが、鍵はかけたのにどうやって中に。いやそれよりもいつからそこに。 「食べ、てない」  聞きたいことがぐるぐると頭の中を巡ったがまずは反射的に返答する。機嫌を損ねることは避けたかったし、まだ驚きのあまり硬直が溶けていなかった。 「ふん」   ぼうっとしたままのトイをソンリェンは鼻で笑い、これまた傲慢に命令してきた。 「さっさと起きて、食え」  わけがわからない。本来トイの朝はキッチンの脇にある小窓から聞こえる小鳥の囀りから始まるはずだった。近くに植えられた木に毎朝集まる彼らを眺めるのも、トイの穏やかな日常の一部だった。  けれども今朝トイを起こしたのは優しい小鳥の囀りではなくてトイの飼い主を公言するソンリェンの険しい声。目覚めの一発目にしては最悪のスタートだった。 「なんで、部屋に、いるんだ」  強張る唇で取り敢えずの質問をしてみるが、ソンリェンはトイの問いなどどうでもいいのかさっさと腰を上げてテーブルに向かっていった。  そこで気がついた、テーブルの上にトイの見知らぬ包み紙があることに。 「食え」  紙から取り出されたままテーブルに置かれていたそれは、パンだった。2つほどまとめられている。もちろん、トイがそんなものを買った覚えはない。つまり。 「……いら、ない」  店に並んでパンを買うソンリェン、という姿があまりにも想像できなくて考え込む。  いやそれよりもわからないのは、なぜソンリェンがそんなものを持ってきてトイに食べさせてたがっているのかだ。  起きてすぐの今、そんなものを口に入れる気にはならなかった。というよりも、トイは普段少食気味だ。  孤児時代にあまり食べられなかったというのもあるが、監禁されていた頃も用意される食事も一日2食で、罰を受けた時は3日間飲まず食わずだった時もあった。  その他にも床に零された食べ物を舐めさせられたり食べた後にされる行為によっては吐いてしまうことが多かったので、自然とものを口にするという行為に嫌悪感を抱くようになってしまっていた。  精神が不安定な時に無理に食べればいつも吐いてしまうし、食べてもあまり味がしないのだ。育児院のみんなと一緒に食べる食事は味を感じるが。  だが食事というのは人間の三大欲求の一つだ。死なないために最低限のものは食べなければならない、だからなんとか食べる、それが常だった。基本的には夜か朝のどちらかを抜くことも多い。 「食え、来い」 「あの……食べられねえ、んだ」  素直に伝えると苛立った視線を向けられた。だがそんな目で睨まれても食べられないものは食べられない。しかも今はソンリェンが側にいるのだから尚更吐いてしまう。 「食欲が、ない」 「細いと抱きづれぇんだよ」 「あの、でも多分……食べたら、吐」 「犯すぞ」  端的な一言にびくりと跳ねる。ソンリェンの目は本気だった。 「食え」  彼にしてはよくキレずに持った方なのかもしれない。がんと促すように椅子を軽く蹴飛ばされる。ソンリェンは命令を撤回する気はないだろう。  爆発するまであと何秒かを数えるよりも行動に移した方が賢明な気がした。  トイは震えるため息を飲み込んで、ベッドから腰をあげた。ふらふらとソンリェンの側に向かえば目線で座れと促される。  強張る手でテーブルの前の椅子を引き、腰掛けた。これだけの行為なのにまるで重労働だ。息切れしそうだった。 「ソンリェン……これ、買ってきた、の?」  白い紙のナプキンの上に置かれていたのはサンドイッチだった。そして遠目からは気づかなかったが、ほかほかと湯気のようなものが立ち込めて、窓から差し込む朝の光にキラキラと光っている。  微かな胡椒と野菜の香り、野菜のスープだろうか、ちらりとソンリェンを伺う。 「飲め」  ああ、やっぱり。ずんと肩が重くなった。育児院にいれば美味しそうだと思えたのだろうが今は微塵も思わなかった。むしろ視界に入れるのも苦痛だ。  せり上がってくるのは食欲ではなくて胃液で喉元が酸っぱくてしょうがない。もはや条件反射のようなものだ。 「さっさと食え」  ソンリェンはじっとトイを見ている。命令に背けば一体何をさせられるのだろうか。床に零されて這い蹲って啜れとでも言われるのだろうか。ソンリェンにはやられたことはなかったがエミーとロイズにならやられたことがある。  確かその時ソンリェンも同じテーブルで食事を取っていた。這いつくばるトイに微塵も興味はないらしく、視線すらよこさずスープがぬるいと給仕に文句を言って困らせていたのを覚えている。  ゴクリと唾を飲み込む。ソンリェンはそれ以上何も言わなかった。トイが食事を始めるのを待っているようだ。突き刺さる視線が、まるで監視されているかのような圧迫感だった。  ──理由はどうあれ、食べなければソンリェンは納得してくれないだろう。  匂いだけで込み上げてくる嘔吐感を堪え、自分を叱咤しながらサンドイッチを一つ手に掴み、小さく齧る。  中身の具もわからない、粘土のような味がするそれを咀嚼するがうまく飲み込めない、それでも視線が痛くて必死に口の中へ入れていく。  口内に溜まっていくねっとりとした小麦粉の塊が苦しくて、スープの存在を思い出した。これでなんとか胃の中に流し込めるかもしれないと力の入らない指先でゆっくりとカップを口元に添える。  たぷりと揺れた薄茶の水面が視界に入ってきた。むわっと鼻孔に広がる胡椒の香りにさらに気分の悪さが増した。  ずずっと、ぬるい液体を口に含む。一思いに飲み込んだほうが上手く行くかも知れないとぐいと煽れば視界に入ってきた野菜に動きが止まった。それはぷかりと浮いた赤いトマトだった。  床に這いつくばって啜らされたスープも、そして子豚と闇の王様が二人で味わった温かいスープにもトマトが入っていた。あの仲良く並んだ可愛い絵柄を思い出した途端真っ赤なそれが何かの死骸に見えた。  あの日、めちゃくちゃに壊された自分の姿と重なる。 「ッ……ぅ」  限界だった。

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