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お出かけ──21.
急いでカップをテーブルに置いたせいで叩きつけるようになってしまったが、目を見張ったソンリェンに説明する時間すらもなくて、逃げるように流し台に駆け込み突っ伏す。
「う、ぇ……かは」
流し台の縁にしがみ付き、こみ上げてくる嘔吐感のまま吐き戻す。昨夜食べたものはうまく消化できていたのか戻すことはなかったが、一瞬だけ飲み込んだ砕けたサンドイッチの塊とスープが出てきてしまった。
あらかた戻しても一度膨れて弾けた吐き気は収まらず、背を丸めて何度もえずく。前髪が流し台にぺたりと張り付いて、そこに吐いてしまった白い固形物がついて汚かった。
「は、はぁ……っ、は」
散々吐いて少しだけ呼吸が楽になった。しかし嘔吐感が過ぎてから次の試練を思い出す。後ろを振り返ることができない。
頑張ろうと思っていたのにあろうことかソンリェンの目の前で吐いてしまった。ソンリェンは汚いものを嫌う、もちろん吐しゃ物に塗れたトイなど最たるものだろう。
壊された日の、最後の最後に見たソンリェンの蔑むような視線を忘れられない。
「おい」
「、ごめ、なさい……!」
だから後ろから肩を掴まれて、盛大に怯えてしまった。殴られるのかと思って。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい、吐いちゃ、ごめんなさい……」
震える声で叫ぶように謝りながら、咄嗟に顔を庇いそのままずるずるとしゃがみこむ。顔を覆った腕の隙間からソンリェンの足が見えた。必死に歯を食いしばり支配者の次の行動を伺う。
蹴りを入れられたら後ろに体重を乗せて衝撃を躱さなければ。そんな苦痛を緩和させる方法ばかり考えていたのだが、予想に反してトイの傍に立っていた足は何もせずに離れていった。
ぎいと椅子が引かれ、さっきまでトイが座っていた場所にどかりとソンリェンが腰を降ろす。
恐る恐るソンリェンを伺うと彼は壁を見つめながら何とも言えないような表情で煙草をふかし、気が乗らなかったのか小さく舌打ちをして、煙草を指の間に挟んだ。
ゆっくりと昇る紫煙がもくもくと部屋を汚す。
苛々している様子だった。
「食えねえんだったら先に言え」
なんとなくバツが悪そうな顔にも見えたが、そもそもトイは言おうとしたのにそれを遮ったのはソンリェンだ。
そういう意図を込めて視線を向けるとソンリェンがトイをちらりと見、目を細めてまた視線を逸らし舌打ちした。
暫しの沈黙が降りる。トイから声をかける勇気はない。
「なんで食えねえんだ、お前」
そんな質問をされるとは思わなかった。てっきり苛立っているソンリェンによくも吐きやがってと叱りつけられると思っていたのに。
「一口啜っただけで吐くなんざおかしいだろ」
「……ぁ」
何も言えないでいるとソンリェンに本日何度目になるのかわからない舌打ちをされた。
「答えられねぇってのか、俺には」
「ち、違う……、その」
答えられないのではない、答えていいのかと迷ったのだ。ソンリェン達にされてきたことを思い出すからと本当のことを言ってもメリットがない気がする。だが他に言い訳なんて思い浮かばず、トイは苦い唾の残る口で真実を話した。
「お……もいだす、から。その、いろいろ……」
いろいろ、の語尾が震えてしまってそれ以上言葉は続かなかった。話すだけで食事中にされた記憶がぶわっと脳裏に甦ってしまい、酷い吐き気に苛まれる
「あ……味も、感じねえ、し、気持ち悪く、て」
ソンリェンは聞いているのかいないのか、指の隙間に挟んだ煙草を弄っている。ただ気配は此方に向いてる気がする。赤い炎がじじっと灰色の煙を吐き出した。
「何なら食えんだ」
「え」
「全部食えねえってわけじゃねえだろ」
答えられない。ソンリェンが傍にいる限り、トイの喉を通る食べ物はない。
「じゃあいつなら食えんだ」
「ぁ……昼、なら」
これもソンリェンが側にいなければ、が前提ではあるが。
「でもオレ、ほんとに……朝、は、おれ」
「うるせえ」
また強く遮られて言葉を飲み込む。
「……もういい」
乱暴かつ掠れた声で吐き捨てられたが、ソンリェンはそれ以上何も言わなかった。席から立ってトイに無体を働こうともしない。
もしかしてトイは許されたのだろうか、ソンリェンの目の前で吐いてしまったというのに。
おそるおそる足に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。やはりソンリェンは動かない。
その隙に、のろのろと流し台に吐き出してしまったそれらを排水溝に流す作業に取り掛かる。吐いた量が少なかったため、キッチンに充満した臭いはそこまでではなかった。窓を開き新鮮な空気で換気する。
窓を急いで開けた勢いで外の木に止まっていた小鳥たちが飛び去ってしまった。今日は挨拶も出来なかった。
鳥の囀りもない、勢いよく流れる水以外に音がない。後ろを振り向かないからソンリェンが今どんな顔をしているかもわからない。ただ煙の臭いは増しているので煙草を燻らせ続けていることは確かだ。
トイはぼんやりと水に分解されてゆく小麦粉の塊を見つめた。口に入れたサンドイッチは冷めてて少しパサついていて硬かった。スープもぬるい。いつからソンリェンはトイの部屋に居たのだろうか。
トイはソンリェンに起こされたわけではなかった。丁度眠りから覚めた時にソンリェンに声をかけられたのだ。
つまり彼はずっと椅子に座ってトイが起きるのを待っていたことになる。トイの寝顔を見つめながら。
「あの、ソンリェン」
トイは何度か口をゆすいで口内に残る酸っぱさを薄め、袖で唇を拭った。そのお陰で少しだけ、気分が楽になった。未だに嘔吐感は消えないが。
「なんで、部屋に来たの……」
「あ?」
「だって、鍵は」
扉が物理的に壊された形跡はなかった。しかし鍵は開いていた。
「お前本当にバカだな、合鍵作らせたに決まってんだろ」
先ほどの今で、無駄口を叩くなと返されるかと思っていたが無視されず返答が返ってきたことに驚いたが、それ以上に返された内容に驚愕した。
「……えっ?」
目を丸く見開いて振り向く。
「い、いつ」
「てめえが寝こけてた時だよ」
少ない説明で記憶をたどる。寝こけていた時とは、たぶんソンリェンに抱き潰されてトイが気を失った3日前の夜のことだろう。
「自由に遊べねぇと、玩具の意味ねぇだろうが」
トイが目覚めたのは深夜だったから、その前に鍵を奪い作りにいったということだろうか。
こんな古びた部屋安い部屋の鍵なんて、大量生産されたものだろうから簡単だったはずだ。
「そ、っか」
多少げんなりした。合鍵を作られたということは、ソンリェンはこれからもトイの部屋に来るということだ。飽きて貰えたのではという希望がこれで全て消え去ってしまった。
洗い場の汚れはほとんど流れた。もう水を流している意味もないし流せば流すだけお金もかかる。ソンリェンはまた黙ってしまった。蛇口を捻り水を止める音すら響くような静けさだ。どうしたものかと視線を彷徨わせる。
作った合鍵を今すぐ壊してくれと叫びたい気持ちをソンリェンにぶつけられたらいいのに。
「そ、そんりぇん……」
話す内容を決めることなく口を開いてしまったため、意味もなく彼の名前を呼んでしまっただけになった。
それなのにこんな時ばかりソンリェンがこちらに視線を向けるものだから、余計に何を言えばいいのかわからず口ばかりが焦り空回る。
「その、えと……しねえ、の?」
導き出したセリフは、深く考えずに口にしてしまったもので、今度はソンリェンが目を見張る番だった。
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