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初めての友達──32.

 ともだち、と口の中で何度か咀嚼する。初めての響きだ。心がぽかぽかとしてくる。 「友達……友達」 「うん、友達」  何度も繰り返すトイに、ディアナは付き合ってくれた。自然とこみ上げてくるものがあった。頬もだらしなく緩んでしまう。  友達。まるで人を幸せにする魔法の言葉みたいだ。口にするだけでこんなにも嬉しくなるなんて。トイの笑みに、ディアナの口元の笑みも深くなった。 「──なろうぜ、友達!」  トイは嬉しくてつい身を乗り出してしまった。けれども同時にディアナも同じくらい身を乗り出してきたので勢いよく互いに額をぶつけてしまう。  同時に二人で頭を抑えて、唸りながら蹲った。 「いでっ」 「いたっ」  じんと痛みに響いた額を抱えながら、顔を上げる。  合わせ鏡のように同じ部分を抑えている自分たちの姿があまりにも似すぎていて、互いに吹き出してしまった。しかも同じ部分が赤くなっている。そんな光景も面白くて、ついには二人して腹を抱えて大笑いしてしまった。こんなに大口を開けて無邪気に笑ったのは久しぶりだった。 「じゃああたしたち、友達、ね!」 「うん! オレ、友達できたの初めてだ」 「そうなの? あたしもこの街に来てから初めてだよ」 「そっかあ」  二人してしばし顔を見合わせる。少しむず痒いような変な気分にはなったが嫌な空気ではない。はっきりと形にすることができた関係は、むしろ清々しささえも感じた。 「じゃ、よろしくな、ディアナ」 「うん、よろしくねトイ」  そろそろ戻ろっか、と立ち上がったディアナに釣られてトイも立ち上がろうとして、目の前に差し伸べられた手に迷った。  シスターや子どもたち以外で、決してトイに差し伸べられることはなかった友達の手。  ディアナはトイに危害を加えるような少女ではない。この手を握り返しても、嫌なことなど何一つない。そっと握り返せばディアナは躊躇なくトイを強く引き上げてくれた。立ち上がる。 「ディアナ、力あるな」 「トイが細いだけだよ」 「ディアナだって細えじゃん、見てろよ、そのうち身長も追い抜くからな」 「むりむり、あたしだって伸びるもん」  並んで廊下を歩きながら、トイは初めてできた友達とのこれからについてばかり考えていた。  今日はディアナと友達というやつになれたお陰で、トイは意気揚々としていた。  だが、自宅に近づくにつれて段々と足取りが重くなっていく。まずは影に隠れて、遠くから部屋の明りを確認することが癖になってしまっていた。  哀しいことに、今日は明りが付いていた。つまりソンリェンが来ているということだ。  暗い扉の前に立ち息を整える。もう何度も何度もソンリェンのいる部屋に帰ってきたが、緊張するものは緊張する。相変わらずソンリェンの傍にいると体がガチガチに固まるし、ソンリェンの一挙一動に怯えてしまうし、ソンリェンの機嫌が悪くならないように言葉を選ばなければならないし、そのせいでうまく喋れなくなる。吃ってしまうせいで余計ソンリェンを苛々させているということはわかっているのだが、こればかりはどうしようもない。  ソンリェンが来ている日は鍵で開ける必要はないので、ドアノブを回してそっと部屋の中を覗く。  すると、思いもがけない光景が飛び込んできた。 「ねて、る……」  いつもであればすぐさま青い視線に射抜かれるか、部屋に入るのを戸惑うトイの気配を察知して、おせえよと腕を引っ張られたりするのだが、ソンリェンはテーブルの上に突っ伏して寝ていた。  すう、と穏やかな寝息が聞こえてきて、強張っていた肩が少しだけ柔らかくなる。  起こさぬよう慎重に扉を閉め、そろそろと足を動かして近づく。  本当は近づきたくはなかったのだが、部屋の中に入るにはどうしてもソンリェンの後ろにある僅かなスペース通らなければならなかった。  かたりとソンリェンが身じろぎをした。びくりとするが起きる気配はない。ソンリェンの横顔が露わになる。  青い瞳は今は白い瞼の下に伏せられ、眩いばかりの金色の髪がさらりと透明な頬に滑り落ちていた。長くてくるりと形よく上がっている睫毛が寝息に合わせて震えていて、トイは少しだけ足を止めてソンリェンの顔を覗き見てしまった。  ソンリェンは常に眉間に皺を寄せている。不機嫌や仏頂面を地で行く男で、嘲笑以外で笑った顔を見たこともない。  トイが監禁された当初彼は19歳だった。あれから2年半過ぎているので今は21歳だろう。まだ年若い青年のはずなのだが、その表情や慇懃無礼な態度故に実年齢よりも年かさに見られることが多いらしい。  しかし今は寝ているため眉間の皺が取れて年相応に見えるし、どこかあどけない。  彼はすらっとした体つきの美人だ。男性に対して美人という言葉が当てはまるのかはわからないが、きっと世の中の誰もが、それこそ男も女も関係なくソンリェンの顔を一目見れば振り向いてしまうだろう。  ソンリェンの家は貿易のためこの国を訪れ富を成し、指折りの名家となった異国の血を引く家系だ。昔からの家の慣習のため、彼の名はこの国では珍しい東寄りの趣だ。『ソンリェン』という名を発音するのも、トイにとっては難しかった。  それに今は違うが、普段ソンリェンが着ていた服も珍しい形状の服だった。他の人間がそれを着れば滑稽だが、麗しいソンリェンにはとてもよく似合っていた。  そしてそれを着ているからこそ、ソンリェンはその家の息子であるということが誰の目にも明らかになり、羨望の的になるらしい。  異国の血が流れているとは言っても、ソンリェンの肌は白く鼻も高く彫りも深い。そして誰よりも艶があり、美しい。  褐色の肌を持ち、誰から見ても貧しい移民の血を引いた人間だとわかるトイとは何もかもが違う存在だった。 伏せられたソンリェンの手の下に、よくわからない本があった。どうやらこれを読んでいる途中で寝てしまったようだ。  ソンリェンはトイが部屋に入って来てもトイを無視をして本を読み続けていることもある。そんな時、トイから彼に声を掛けるわけにもいかないので、何をするでもなく隅のほうで蹲っている。そして、ソンリェンが手を出してくるまで待つのだ。  ぱたんと本が閉じられるのが合図で、「来い」と一声掛けられる。ソンリェンという男は、非常に勝手な人間だった。  ソンリェンは今、何をしているのだろうか。  監禁されていた当時ソンリェン──を含む彼らは、学院というトイには縁遠い勉学を学ぶ所に通っていて、そこの学友同士だったらしい。卒業まで同じ屋敷で暮らしているから好き勝手できるのだとエミーが自慢していた。  元々親同士に交流があり、それが次の世代へと受け継がれたようだ。  ソンリェンの穏やかな顔から目が離せなかった。  このまま今日はずっと寝てくれたらいいのに。  ふと、テーブルの上に置かれた紙袋が目に入った。いつもいつもソンリェンが勝手に置いていく朝食だ。ただ、いつもより一つだけ袋が多かった。やけに大きな袋の隙間から覗いた白い何かに興味を惹かれる。  ソンリェンはまだ起きない。後ろの隙間を通り過ぎ、そっと茶色の袋を手に取って中を確認してみる。予想以上に重かった。そして丸い。  薄い布を剥がすと何かが包まれていた。それはみたことのない物体だった。白くて綿のようで、しかし匂いはクリーミーでほんのり甘く、ふわふわとした何か。よくみれば他にも何色かある。だから袋が大きかったのだ。  試しにつん、と指で突ついてみると、ふわりと柔らかな弾力に弾かれた。手についたそれを舐めてみると、甘さが広がった。  一瞬にしてディアナの言葉を思い出した。  甘くてふわふわしてて白くて、雲みたいで、綿みたいで、しかも大きくて、お砂糖の塊で、クリームで。これはもしかして、昼にディアナが好きだと言っていたお菓子なのではないだろうか。 「ふわ……がし?」  口に出せば余計に手の中のそれがもこっと動いた気がした。  鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。しっとりとした甘い匂いがふわりと香った。 「──ふわがしだ!」  ディアナのお父さんがディアナに買ってくれたというお菓子だ。これは絶対そうだ。 「あ……?」  突然のトイの大声に、流石のソンリェンも起きたようだ。  しかし今日の今日で、話に聞いていた幻のお菓子が目の前に現れたことで興奮してしまっていたトイは、不機嫌も露わにトイをじとりとねめつけた寝起きの青年の性格も、彼にされていることも頭の中から飛んでしまっていた。  輝かせた瞳のまま、ぐるりとソンリェンに向き直る。 「ソンリェン、こ、これ、ふわがし!」  ぐいと顔を詰め寄られて面食らったらしいソンリェンは、起きたばかりで皺の多かった目尻をぱちりと瞬かせ、トイを見返した。 「これ、ふわがしだよな、ソンリェン! すげえ、本物だ……本物のふわがしだ!」  砂糖が高級品である今、それをふんだんにつかったお菓子なんて滅多に食べられない。これは凄いことだと思った。  そして手にしていたそれから勢いよく顔を上げたトイは、トイの勢いに飲まれたように固まっているソンリェンの姿に自分も固まった。

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