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初めての友達──31.

「オレ、は」  記憶の初めは、最初から薄暗い路地裏だ。  赤子がそんな場所で生きられるはずがない、もしかしたら顔も知らぬ母親か父親の腕に抱かれていた時期もあったのかもしれないが、覚えていなかった。  何かがあって記憶を失っているのかもしれなかったが、記憶があろうとなかろうと一人は一人なので考えないようにしていた。  それでも幼いトイがなぜ生きれていたかというと、年上の孤児たちがそれなりの面倒を見てくれたからだ。孤児として生きる方法を教えてくれた。  しかし他にも子どもたちは沢山いたため、トイだけが誰かの特別というわけでもなかった。寒い日は身を寄せ合っていたが、皆家族や友達とも呼べぬような間柄だったと思う。  それぞれが生きるのに必死だった。  誰が誰の小銭やパンを盗んだとか、抜け駆けだとか裏切りだとか見せしめだとか、暗く狭い世界らしい小競り合いもよくあった。  よくわからない薬を摂取して廃人のようになっていた少年少女たちも少なくなかった。悪い人に連れていかれて臓器を売られるだとか、恐ろしい噂も絶えず流れていた。  飢えた瞳、膿んだ瞳、ギラギラした瞳。なるべく関わらないように、目を付けられないようにと離れていった結果、学のないトイであっても日ごとの小銭を稼げるくらいにはなった。  気まぐれに落とされる綺麗な服を着た人達のお金。食べ物を与えてくれるどこかのお屋敷の賄いの人もいた。その中で精一杯生きていた。  このまま孤児としていつかは死ぬだろうとは思っていたが、まさかあんなことになるだなんて思ってもいなかった。 「……ごめん、聞いちゃいけないこと聞いちゃったよね」  黙ったまま下を向いてしまったトイに、ディアナは直ぐに謝ってきた。トイも慌てる。どう答えるべきか迷っていただけで、話したくないわかではなかったのだ。  ただ、できることなら真っすぐなディアナの瞳を曇らせたくはなかった。  ディアナは好きだ。けれどもトイと歳の近い少女の存在は、否が応でもトイに現実を突き付けてくる。自分が男に搾取されるだけの玩具として扱われていたという事実を。  トイは、男にみっともなく足を開かされ、貫かれ、女のように甲高い嬌声をあげながら、男としての精をまき散らかす歪な存在だ。性欲と嗜虐心を解消するためだけに奥深くを抉られて、魚のように仰け反り、泣きわめくだけの生き物だ。  お前は俺の穴だとソンリェンはよく口にするが、実際その通りだった。 「オレな、スラムで育ったんだ」 「え」 「父親も母親も知らない。覚えてねえんだ」 「そうだったんだ」  少なからず驚いたらしいディアナは、それでも顔には出さずに頷いてくれた。ディアナは場を和らげるために冗談も口にするが、こういう時は酷く真面目な顔で相手の話を聞く。 「靴磨きとかでチップを貰って、花を摘んで花束にしたものを売ったりだとか、食べられる雑草とかを探して、路地裏の市場で引き取って貰ったりだとか、そういうことして、生きてた……まあ、他のスラムで生活してた皆もさ、そんな感じだったから珍しいことではないんだけど」  確信に近づくにつれて、自然と腕が震え始めた。  ディアナに気づかれてないように、記憶を辿る振りをして腕組みをする。 「だったんだけど、1年前に」  声すらも震えた。ディアナに話せることは限られている。 「ちょっと、ドジ踏んじまって。死にかけてた所をシスターたちに拾って貰ったんだ」  もう痛むはずも無い右手の小指と親指を、手の中に隠す。目を閉じるとあの頃の忌まわしい記憶がありありと思い出されてしまって急いで空の雲を見つめた。  ふわがしに似ているらしい白い塊を。 「そっか、それでここに……」 「うん。だから、ここの育児院には、恩返しというか、そういうのがしたいんだ。オレ字しか読めないから、子どもたちと遊んでやることしかできねえんだけど」 「んー、そんなことないと思う。だってシスター言ってるよ。トイが子どもたちの相手だとか、洗い物とか、部屋の修理とか、そういうのを手伝ってくれるからすっごく楽なんだって」 「そう、かな」 「うん」  下手な慰めには聞こえなかった。ディアナの言葉には偽りがない、本心でそう言ってくれているということがわかる。 「あのね、あたしトイの目の色、好き」 「なっ、なんだよ急に」  突然ぐいっと顔を近づけられて少し仰け反ってしまった。  相手がディアナだと思うと、どうにも慌ててしまう。これをされたのが他の子供たちであればこんなに狽えることもないのに。 「夕日みたいで綺麗だもん」  屈託なく笑ったディアナの眩い笑顔に、言葉を失う。  お前これと似てるなあ、と。結合部から流れ出た血をトイの頬に塗って来た男は、確かレオだ。そんな風に蔑まれていたトイを、散々男たちの性処理道具にされてきたトイを、ディアナは綺麗だと言ってくれた。  孤児時代も、監禁されていた時も、誰かから綺麗だと言われたのは初めてだった。 「……ディアナの目の色も、綺麗だと思う」 「そうかな、ありがとう。お父さんと同じ色なの」  茶色の髪はありふれたものだけれど、まるで落ち葉に降り注ぐ木漏れ日みたいだ。それに、ディアナの瞳は静かに輝く水面みたいに、日の光をよく反射する。  ころんと首を傾けたディアナは愛らしかった。ディアナはトイよりも数センチほど背が高いが、華奢で、肩が丸くて、声が高くて、どこからどう見ても女の性を持つ人間だった。どっちつかずのトイとは違う。  出会った時に重ねた手のひらも、柔らか過ぎて触れれば壊れてしまいそうで戸惑った。トイの体がディアナのように丸みを帯びて柔らかく女性らしい身体つきであれば、ソンリェンにもっと丁寧に扱って貰えたのだろうか。それかもっと骨が太く男らしい身体つきであれば、彼らに目を付けられ攫われることもなかっただろうか。 「ねえトイ、トイ?」  急に現実に戻されてはっとする。どろどろとした感情に覆われていた思考を頭を振って散らす。 「わり、えと、どうした?」 「あのさ……変なこと言っても、いい?」  いつもはきはきと喋るディアナがいい淀むのは珍しい。 「変なこと? 聞くよ」  ディアナの表情は至って真面目だった。とても変なことを言い出すような雰囲気には見えない。 「あの、あたし……トイと、ね」  何度か唾を飲み込むディアナに、トイも自然と緊張してしまった。ぎゅっとズボンを握りしめてディアナの言葉を待つ。すう、と息を吸い込んだディアナが、意を決したように顔を上げた。 「トイと友達に、なりたいの」 「……へ?」  身構えていたトイはきょとん、と首を傾げてしまった。 「ともだち?」 「そう、友達」  ディアナが顔を覗き込んできた。太陽の光に濡れて、ぴかぴかと瞬く青色に吸い込まれそうになる。言葉の意味を咀嚼するためにトイも目を瞬かせた。  オウムのように同じ言葉を返してしまったが、友達というのはあれだろうか。  仲間や家族ともまた違う、一緒に買い物をしたり遊んだりご飯を食べたり、秘密の場所へ連れていって共に冒険などをする相手のことだろうか。子どもたちに読み聞かせる絵本によく登場してくる。 「なにそれ、トイの友達像って面白い」  口を押さえる。声に出してしまっていたらしい。それほどにトイは動揺していた。 「あ、へ、変……? 友達って、そういうんじゃねえの?」  トイには友達がわからない。そんなの出来たこともなかったから。 「ううん、変じゃない。だからトイ、あたしの友達になってくれない?」

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