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初めての友達──30.
「とい、絵本よんでー」
「起きたらな。ほら、もうお昼だから寝ないと」
「やだー」
「休まないとユリアの夕飯に人参多く入れちゃうぞ」
「それもやだー」
「とい……」
「どうしたトッド、おいで」
昼寝の時間になった。少しぐずっているトッドと、まだまだ遊び足りないユリアが今日のトイの隣だった。丁寧に寝かしつけて、子どもたちのお喋りがなくなり寝息が広がる辺りを見回す。
端のほうで、アンナの隣で寝ていたディアナの姿が見当たらないことに気が付いた。
子どもたちと一緒にうとうとしてしまっていたシスターが目を覚まし、同じようにディアナの姿がないことにおや、と首を傾げた。
行っていいわよ、と目線で促されて、トイは服を掴んだまま寝入ったトッドの丸く幼い指を優しく引き剥がし、部屋の外に出た。
廊下を進むと、窓の外にディアナの姿が見えた。彼女は庭の花壇の前に腰かけて、空を眺めているようだった。
トイは姿を確認したら戻ろうと思っていたのだが、その華奢な後ろ姿がどことなく寂しげに見えて、結局自分も庭に出て声をかけることにした。
「ディアナ」
「あれ、トイ」
呼びかけに直ぐに気づいたディアナはいつものようにトイを振り返った。さら、と風に揺れた茶色の髪が日の光に透けて儚く見えた。
「ごめんね、ちょっと外の空気が吸いたくなったの」
「ん? 別にいーよ」
「トイもお疲れ様、座る?」
「うん」
ディアナの隣に腰かける。暫く黙って二人で空を見上げた。
ここ数日快晴が続いていた。雨は苦手だが、ここ最近の透き通るような青い空もトイの心に巣食う青年を思い出させてくるので、なかなか直視出来なかった。青はトイの好きな色なのに。
けれども今は心が微かに痛むくらいだ。
ディアナが隣に、いてくれているからだろうか。
「あそこの雲、ふわ菓子みたい」
「ふわがし?」
「あれ、トイふわ菓子しらないの?」
「うん、知んない。それってお菓子、だよな」
「そっか、でもそうかな、海外のお菓子だしね。ふわ菓子っていうのはね、甘くてふわふわしてて白くて、あそこの雲みたいなの。しかもかなり大きいの、このぐらい」
「なんだそれ、でっけーな」
ディアナがこのぐらい、と教えてくれた幅はかなり大きくて、とてもお菓子だとは思えないサイズだった。そんな食べ物がこの世にあるのかと素直にびっくりする。
「そう大きくて丸いの、なんていうか綿みたいで、でも重くて。手でも千切れるしナイフでも綺麗に切れちゃう」
「でかくて綿みたいって、なんだそれ」
「でも、実はお砂糖の塊でもあるのよ」
「わ、綿みたいなのに、砂糖の塊?」
「そう、砂糖を固めて……でもクリーミーで……白以外の色もあるのよ」
ますますわからなくなった。トイの知っている砂糖の塊はキャンディしかない。しかも今砂糖というのは高価な品物だ。そんな砂糖をふんだんに使ったクリーミーで大きな綿のお菓子なんて見たことも聞いたこともない。想像も出来なかった。
「有名なお菓子なんだって。まだ家にお金があって本当に小さかった頃ね、お父さんに何回か買って貰ったなあ。あ、お父さん貿易のお仕事してたから。大好きだったの。懐かしいな」
ディアナの口からお父さん、という単語が出てきて少しだけ緊張した。ディアナがここに来た経緯をトイは詳しくは知らないが、確か父親がディアナを育児院に預けていったという話を聞いていた。
深くは聞かないほうがいいのかもしれない。
トイはディアナがふわがしみたい、と指さした雲を眺めた。風に乗って雲はゆったりに分裂し、ほろほろと青に溶けていった。
ここの育児院は、お世辞にも綺麗な建物とは言えない。傾いている財政を戻すためか、高いカーテンや家具は全て売り払ってしまったらしい。
トイが譲って貰ったものは、値打ちが無いと突き返されたものだ。
ここはシスターの個人経営で、シスターが貯めてきたお金で切り盛りしている育児院だ。カーテンの代わりに、薄いシーツで窓から中が見えないようにされている薄暗い部屋もあった。毎日隅々まで掃除をしているお陰で、放置されて蜘蛛の巣にまみれた部屋はなかったのだが、最初にボロボロになったトイが拾われて寝かされていたのも、簡易ベッドが置かれた狭い一室だった。
それでも一生懸命清潔な部屋を宛がってくれたところが、この育児院の在り様なのだと思う。
いつかここは、無くなってしまうのかもしれない。
少人数故に、兄弟姉妹のように育っている仲のいい子どもたちもバラバラになってしまうのかもしれない。さほど遠くはないかもしれない未来の現実を、シスターは笑顔の下に隠していた。
「子どもの頃にね、こんな風にみんなで外に出て団欒してたって話を聞いたことがあるの」
「聞いた?」
「うん、あんまり記憶になくて。母親が死んじゃったのはあたしが2歳の頃だから」
ディアナの口から身の上話を聞くのは初めてだった。まさかそんなに早い時期に亡くなっていたとは。
「ディアナのお父さんは、今どこにいるんだ?」
「わかんない。どこにいるんだろうね」
ディアナを見る。彼女は真っすぐに遠い雲を見つめていた。ディアナが土を蹴った。
「お父さんって馬鹿で、お人よしなの。直ぐに騙されてお金貸してばっかりで。新しい仕事を探してお金が貯まるまでって置いて行かれたけど、そんな日が来るのはきっともっと後よね。戻っても来ないかも。あたし、預けられる所はきっと酷い場所なんだろうって思ってた。だけどここは素敵な所だよね、みんな優しいし子どもたちは元気だし。トイもいるし」
困ったようにディアナは眉を下げた。その表情からは、父親に対する深い愛情が伺えた。
「母親とあたしって、顔が似てるんだって。写真見たことあるけど、本当にそっくりだった。お父さんがよくあたしの顔辛そうに見てた理由がわかったのはその時だったな。あんまりあたしに触れようともしなかったしね……本当はずっと、離れたかったんだろうね、あたしと」
「ディアナ……」
ディアナの瞳は、遠い遠い思い出を、辿っているようだった。12年間共に暮らしてきた親に置いて行かれる気持ちはきっと寂しくて辛いものだとは理解できるが、トイは深く共感することが出来なかった。
そもそもトイには、親という存在がいなかったから。
「ねえ、トイはどうしてここに来たの?」
来るだろうと思っていた自然な質問に、トイは言葉を詰まらせた。
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