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ミサンガ──47.
「つけろ」
そっと目の前に差し出されたソンリェンの手首。ディアナから教えてもらった付け方を指はしっかりと覚えている。横になったまま震える指を伸ばし、ミサンガを受け取りソンリェンの細く骨ばった手首に巻き付けて解けないように交差させ、くぐらせて、きゅっと結ぶ。
簡単に、結び終わってしまった。
手首に巻かれたミサンガをしげしげと眺めていたソンリェンの視線が、彼の手首からトイの手首へと移された。そこにはソンリェンと同じ柄をしたミサンガが結ばれていた。ディアナから今日貰ったものだ。
その瞬間ソンリェンを纏う空気がどこか鋭くなったような気がして、トイは手首をタオルケットの中に隠したくなった。
「ソン、ソンリェン」
「なんだよ」
「ど、して。今日、機嫌悪かったの」
それは、落ちかけたソンリェンの機嫌が浮上することを祈っての台詞だった。
「わからねえか」
「え?」
「てめえが」
そっと、ソンリェンの指がトイの手首に巻き付いたミサンガを撫ぜてきた。
「こんなもん、つけてるからだろうが」
唇が、震えた。何故と問うことはできなかった。
「まあでも、チャラにしてやる」
ソンリェンが自分の手首を明りに翳し、結ばれている赤と金のミサンガを目を細めて見つめ始めたからだ。口の端が少しだけ柔らいでいるようにも見えるのは、トイの錯覚だろうか。
錯覚であって、ほしかった。
──間違えた。
ソンリェンの顔を見ていられなくて、ぐるりと背を向ける。
金色の糸を選んだのはディアナが好きな色だと言っていたからだ。ソンリェンの髪色を気にしていたわけじゃない。赤を入れたのは、ディアナがトイの目を綺麗だと褒めてくれたからだ。ソンリェンに、トイの赤を捧げたかったわけじゃない。
違うのに、そんな顔をされてしまったらどうしたらいいのかわからなくなる。
「トイ」
少しだけ甘さが滲んでいるようなソンリェンの声に、シーツを握る指に力が籠った。
「な、に」
「お前、夕飯は」
今日のソンリェンはよく喋る。胸の痛みがさらに強くなる。
「明日の……朝、食べる」
「それもう夕飯じゃねえだろ」
呆れを含んだ苦笑を背中越しに感じたことで、よりによって今、今日の午後ディアナと一緒に食べたふわがしの存在も思い出してしまった。
トイが甘いと言ったから、ソンリェンはあのお菓子を買ってきた。けれどもトイは、ソンリェンに渡されたものを他人と共有した。ソンリェンと同じ目をしたディアナが、好きだと言っていたから。
──ずきんと、胸が痛む。細い針が突き刺さってくるかのように。
「おい、もっと詰めろ」
急に、タオルケットに包まれていた背中が空気に晒された。
「寝れねえだろうが」
「え……」
耳を疑った。慌てて首だけで振り向くと、ソンリェンは剥ぎ取ったタオルケットの下、トイの隣の空間にさっさと横になってきた。間近にあるソンリェンの横顔と彼の裸の上半身を凝視する。
なぜ、と問うこともできずに固まるトイにソンリェンはむっとした。すねているような表情だった。
「……悪いか」
内心の動揺を押し隠すようにぶんぶんと首を振る。
ソンリェンは狼狽えるトイなどどうでもいいのか、それともあえて無視をしているのか、ごろりとトイの体に腕を回してきた。
身体が強張る。腹部にソンリェンの腕が回り、ぐいっと引かれる。トイは後ろからソンリェンに抱きしめられる格好になった。
頭にソンリェンの吐息がかかり、唇がくっつけられた。隙間なく密着したこの状態に満足したのか、ソンリェンはトイの髪に顔を埋めたまま動こうとしない。
ぴたりと背中にくっついたソンリェンの肌から、少し早い心臓の音が響いてくる。もしかしてこの体勢のまま、ソンリェンは寝ようとしているのか。
「ソンリェン、あのオレ……シャワー、浴びに」
急いでソンリェンの腕から出るために上体を起こそうとしたが、強く腕の中に囲われてベッドに戻された。さきほどよりも強い腕の力にトイは身じろぎすらもできなくなる。
ソンリェンの吐息が耳元にかかり、濃厚な煙草の臭いが強くなって身体がガチガチに固まる。
「明日にしろ」
ということは、ソンリェンはこのまま朝まで眠る気なのだ。トイと同じベッドで。
「寝ろ」
「で、でも」
「なんのために身体拭いてやったと思ってんだ」
そんなことを言われてしまえばトイは押し黙るしかなかった。そしてその言葉を最後にソンリェンも口を閉ざしてしまった。後ろを確認していないのでソンリェンの目が開いているのか閉じられているのかもわからない。
いつも、事が済むとソンリェンは帰っていた。ここで、トイの傍で一夜を明かすなんてこともなかった。ましてや抱き合って一緒に眠るだなんて。
屋敷にいた頃だって、彼の部屋に呼び出されても終わった後は部屋に帰されていたのに。
これではまるで、恋人ごっこじゃないか。
するりと、ソンリェンの手のひらが胸の前で固まっていたトイの手のひらに絡みついてきた。大きな手にすっぽりと覆われ、やんわりと握り締められる。
ソンリェンの手首で結ばれたミサンガと、トイの手首のミサンガがちりと擦れ合う。
青と赤の二色が。
トイは、一瞬で吹き荒れた感情を抑え込むために強く唇を噛みしめた。塞ぎかけていた傷からまた鮮血があふれ出して、口の中が鉄臭くなる。
ソンリェンに触れられる時、いつもこの手は行き場がなかった。自分から触れば叩き落とされてしまうので、彼の服を掴むことも、首に腕を回すこともできなかった。シーツを握りしめて貫かれる衝撃に耐えなければならなかった。
けれどもここ最近はソンリェンの肩に腕を回しても怒られない上、今はこうして握りしめられている。
──間違えた。トイはたぶん、間違った。
きっとソンリェンにとっての正解を選んだ、それは間違いない。けれども、間違った。
ダメだ。何がどうダメなのかはわからないけど、何かがいけない気がする。どうしよう。
ディアナの笑顔が浮かんだ。彼女の傍にいると心があたたかくなるし、優しい気持ちにもなれる。素直に笑い合うことができる。どうしてだろうか、初めて出来た友達だからだろうか。
ソンリェンはトイにとっての支配者だ。そしてトイは隷属者だ。主人と奴隷。使用者と玩具。犯す者と犯される者。奪う者と奪われる者。壊した者と壊された者。
その関係は変わらないはずだ。それなのに、この体勢は一体何なんだ。
どうしてソンリェンはトイの髪に顔を埋めて、安心しきったように体の力を抜いているんだ。どうしてトイの手を包み込み、強張りを溶かすように丁寧に撫でてくるんだ。どうして誰よりも潔癖で人と触れ合うことを好まないくせに、こんなにも強くトイを抱きしめてくるんだ。どうして。
「トイ……寝たか」
どうして、こんなにも穏やかな声でトイの名前を呼ぶんだ。初めて輪姦された時、助けてほしくて伸ばした手をソンリェンは振り払ったくせに。どうして。
鼻の奥が痛くなって、ぎゅっと目を瞑る。
かわいいは、優しくしたい。優しくしたいは、一緒にいたい。一緒にいたいは、かわいい。そしてそれらの気持ちを全てひっくるめると。
『つまりそういうことだと思うのよ』
シスターの声が警鐘のように鳴り響いてきた。
そんなわけない、そうであっていいはずがない。もしもそうだとしたら、じゃあなんのためにトイはあんな目にあったんだ。徹底的に壊されたんだ。
どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
どくどくと喚く自身の心臓の音を聞きながら、トイはソンリェンの問いかけには答えず寝たふりをした。いつもなら気絶することなんて簡単にできるのにこういう時ばかり目が冴える。
結局、トイはソンリェンの寝息が聞こえてくるまでろくに寝ることもできなかった。疲れ果てた身体に浅い眠りは堪え、真夜中に気を失うように眠ってしまった。
だから、トイが寝たのを確認したソンリェンが、トイの傷跡残る痛々しい背中に口付けたことも。
朝方、ベッドから起き上がったソンリェンが、トイの赤茶色の髪を一撫でし離れていったことにも。
「かわいいな、トイ」
そう掠れた声で囁き、部屋を出て行ったことにも気が付かなかった。
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