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ミサンガ──46.

 次に瞼を上げた時には、ソンリェンはベッドから降りていた。  キッチンにある窓から差し込む月明りは先ほどに比べてもさほどズレてはいない。ということはトイが意識を手放してからまだ時間はそれほど経っていないのだろう。長くて1時間ほどか。  いつもいつも行為の最後に気を飛ばしてしまうのは、トイの身体が1年と数か月の間に習得した防衛反応のようなものだ。複数人を相手にしている時は気を失えば叩き起こされるのでできないが、相手が一人かつもう終わりに近い時にはよく意識を飛ばす。気絶してしまえば痛みが軽減されるのだ。  一回挿れられるだけでもトイの華奢な身体はかなりの体力を消耗するので、泥のような睡魔に意識を預けてしまうのは簡単だった。  また、本当に時々だったけれども、相手の気まぐれで体を清められる時があった。恋人ごっこ、などというものを強要された時がほとんどだった。  起きた時には全てが終わり、時には部屋のベッドまで運ばれベッドに放り投げられていた。疲れた身体で起き上がるのも億劫な時は有難かった。  だが、今の自分の状態には正直驚いた。目が覚めた時、タオルケットにくるまれたトイの身体はさらさらだった。力を込めても、奥に吐き出されたものが零れてくることもない。  シャワーを浴びせられたわけではないだろうが、濡らしたタオルか何かで汗にまみれた身体を拭かれたことは確かなはずだ。  そして椅子の背もたれにかけられたトイのタオルは、トイの予想が当たったことを証明するには十分だった。  一枚であればソンリェンだけだろうが、そこには二枚のタオルが掛けられていたのだ。 「起きたのか」  声のする方へ視線を向けると、椅子に座ったソンリェンが何かを手のひらの上で弄んでいた。  上半身は裸だ、シャワーを勝手に浴びたのだろう。珍しく煙草は吸っていない。灰皿の本数も増えていなかった。キラキラと光る赤と金の光彩が、ソンリェンの白い指の上でくるくると回っている。  床にぶちまけられていた缶はテーブルの上に置き直されていた。  トイが拾ったわけではないので、ぶちまけた本人が戻したのだろう。珍しいこともあるものだ。ただ単に歩くのに邪魔だったのかもしれないが。 「ソンリェン」  つっかえることなく、思いのほかはっきりと声が出せた。  ソンリェンの意識が此方に向いた気がして言葉を続ける。 「それ」  手に持っているそれは捨てないでほしい、と言いかけてやめた。なんとなくだが今のソンリェンは、そんなことはしないような気がした。 「ミサンガ、つったか」 「……うん」  ソンリェンは手にしたそれをじっくりと眺めていた。珍しいのだろうか。 「願いが叶うおまじない、ってか」  小馬鹿にしたような口調に覇気はない。ソンリェンはミサンガを知っていたようだ。 「バカ、みてえ?」 「あ?」 「それ、ソンリェンにとったらバカみてえ?」  ソンリェンがぱちりと瞬きをした。  彼は驚いたようだった。トイがソンリェンの前で吃ることなく喋ったことに対してなのか、トイの方から会話を振ってきたことに対してなのか、それとも別の理由なのかはわからないが。  ソンリェンはトイをじっと見つめてから静かに立ち上がり、トイの傍まで歩いてきた。  目が覚めたばかりでぼうっとしていたし、疲れて体が動けなかったのもあった。  ソンリェンの様子がいつものそれとはなんとなく違うように思えて、トイは特別怯えることもなく近づいてきたソンリェンを見上げた。  じっと見降ろしてくる青い瞳は湖のように凪いでいた。トイはゆっくりと降りて来たソンリェンの手を眺めた。煩いと殴られるのかな、とは一瞬考えたが逃げることはしなかった。  頬に張り付いていた髪を払われて、指の裏で頬をなぞられる。冷たさに目を閉じる。ぎしりとベッドが軋んだ。  横たわるトイの隣に腰かけたソンリェンが、また手のひらのミサンガを検分し始めた。そんな仕草でさえも、洗練された動きに見えてしまう。  認めるのはしゃくだが、ソンリェンは指の使い方といい全ての所作が丁寧だ。それは煙草を吸っている時だったり、もちろんトイに無体を働いている時でもだ。  行動も言動も壊滅的な男ではあるが、金銭的にも権力的にもゆとりのある家で育ったのだろうということは彼の仕草一つ一つで窺い知れる。さっきまでこの指先にありとあらゆることをされていたなんて嘘みたいだった。 「一度だけ、作ったことがある」  ソンリェンがミサンガを見つめながら、ぽつりと語り出した。 「だが一度だけだ……それに、ガキの頃は同年代のガキ共とこんなのを作って遊んだこともなかったな」  過去の思い出を語るソンリェンなんて初めて見た。  ソンリェンに子どもの時代があったという事実が、今のソンリェンとどうしても結びつかない。彼も人の子なので当たり前なのだろうが、トイが初めて会った時からソンリェンはソンリェンだったから。  唯我独尊で、自分勝手で、性格破綻者で、短気で。  見た目と性格があまりにも噛み合っていない、歪んだ青年だった。  ソンリェンだけじゃない、あそこの屋敷にいた人間は全員、歪み切っていた。 「群れんのもくだらねえと思ってたな。でもまあ、羨ましいとは思ってたのかもな。友達ってやつが」  ソンリェンが、羨ましいなんて単語を口にするなんて。 「あの人たちは? エミーもレオもロイズも……友達じゃねえの」  ソンリェンの幼少期なんて知らない。どんなふうに育てられてどんな価値観で生きていたのかも。けれども今のソンリェンを見ていればわかるものもある。  鬱屈した破壊衝動を彼は──彼らは持て余しているようにみえた。そんな彼らが出会い、あの屋敷に集い、結託しあい、憂さを晴らしていたのだ。 「てめえはあれを、友達っつーのかよ」  トイの口から彼らの名前が出て来たことで、ソンリェンの肩がひくりと揺れた。  ソンリェンの声は嘲笑じみていたが、それは果たして誰に向けられたものなのだろう。 「いいのかお前は、それで」  いいもなにも、トイにとってみれば彼らは友人同士のように見えた。  酒を飲み、軽口を叩き合い、煙草をふかし、全員で全力でボロボロにしたトイの傍で適当な服を着て、時には半裸のままボードゲームにいそしんだり、チェスをしたり、トイの体を賭けの対象にしたり。  鬼畜で、残忍で、おぞましくて、歪んだ空間ではあった。けれどもあそこは──彼らだけの空間でもあった。他の誰も、あの4人の中には入れなかった。だからこそ、トイは彼らの玩具だったのだ。 「俺はもう、あそこを出た」  え、とソンリェンの背中を見つめる。 「暫く会ってもねえよ、アイツらとは」  淡々と語るソンリェンの顔は見えない。まさかソンリェンがあの屋敷を去っていたなんて知らなかった。彼の言う暫くとはどれ位のことを言うのだろうか、確かソンリェンがトイを見つけたのは1ヶ月前の1ヶ月前だから──今から2ヶ月前になる。この頃から既にソンリェンは屋敷から出ていたのだろうか。  新しい玩具にも飽きて、屋敷を出て、暇になって、トイを探しにきたのか。 「お前……これ、誰にやるつもりだったんだ」 「え?」  肩越しに振り向いてきたソンリェンは、トイの編んだミサンガを目の前に翳してきた。  それはディアナにプレゼントするために作ったものだ。青い目をしたトイの唯一の友達に。  だが、それをソンリェンに話すのは憚られた。  なぜだかは自分でもわからない。ただ、ソンリェンの目の前でディアナの名前を出すことは、ほんの一瞬だけ垣間見えたソンリェンの柔らかな部分を踏みつけてしまうような気がした。  一度だけ作った、羨ましかったのかもなと吐露したソンリェンや、俺のもんになれよとトイをじっと見つめて来たソンリェンの心を。 「そ……」  だが、だからと言って。 「ソンリェンにあげようと……思って」  それはないだろうと、トイは自分自身の発言を直ぐに後悔した。  適当に取り繕えばよかったものをなぜこんな台詞を口にしてしまったのか。案の定ソンリェンは驚いた顔でトイを見た。その視線と交わらぬようトイは目線を落とし黄ばんだ壁を見つめた。 「い……いらねえよな」  変なこと言ってごめんなさい、と慌てて付け足したのはそうであってほしかったからだ。トイからの贈り物なんてソンリェンは喜ばないだろうし、元々彼にあげるつもりもなかった。  それに、もし万が一気まぐれで受け取られでもしたら明日ディアナにプレゼントするものが無くなる。  そんなトイの複雑な心をどう捉えたのか、ソンリェンがきしりとトイの顔の横に手をついて覗き込んできた。いるかこんなもんと突き放して貰えることを望んでいたトイは、ソンリェンの表情により一層後悔した。 「お前、頭湧いてんのか?」  ソンリェンの口調と表情が一致していない。逆光に濡れた彼の目には、見たこともない色彩が揺れていた。嘲りとも怒りとも違う、判別できない柔らかな色。  じりじりと、見つめられている肌が濡れていくような。 「い……いらねえ、よな」  もう一度同じ台詞を口にする。頷いてほしかった。 「んなこた一言も言ってねえだろ」  この瞬間、トイは本当に心の底から自らの行いを後悔した。  ──いまトイは、間違えたのだ。

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