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雨音──82.
夕焼け色の空を見上げる。少し雲行きが怪しい。
ここ一週間のルーティーンだった夕飯は、今日は皆と一緒に食べられない。
トイは、戸惑うシスターに何かと理由をつけて早めに育児院を後にしていた。指示されていた通りの場所へ向かう。二つほど角を曲がった所に、緑色の車が停められていた。
大きめの窓の中には朱色の光に照らされてきらりと光る金糸が見えた、ソンリェンだ。
車の外には男が立っていた。トイの姿を見つけた途端、すっと綺麗な礼をした彼には見覚えがあった。
トイの自宅にソンリェンを迎えに来た使用人だ。
「あ、あの」
「どうぞ」
戸惑うトイに顔色一つ変えない所はソンリェンの使用人ゆえだろうか。簡単な一言と共に丁寧な所作で車の扉を開かれた。ソンリェンの隣が空いている。
ソンリェンはトイに顔を一切向けぬまま煙草を燻らせている。乗り込む前からその臭いの強さに圧倒された。一体何本吸っているのだろうか。
座席の裏に設置されている携帯用の灰皿は、吸殻でいっぱいになっていた。ソンリェンの機嫌が悪ければ悪いほど、煙草の本数も増える。
「そん、りぇん……」
恐る恐るソンリェンの後ろ姿に声をかけても、やはり彼は振り向かない。だがこのまま車の傍で立ち止まっているわけにもいかず、トイは意を決してそろそろと車に乗り込んだ。
そっと座ってみた座席は少し固く、柔らかいとは言えなかった。
ばたんと、強く扉が閉められる。
はっと振り向けば先ほどの使用人はさっさと車の運転席に乗り込み、エンジンを鳴らした。すぐさま発進する車。
トイは車というものに乗るのは初めてだったのだが、初めての乗り心地を堪能する心の余裕もない。
「あの……ソンリェンだったんだな、育児院の、援助してくれる人って」
ソンリェンは答えない。ぴんと張り詰めた空気は変わらず、煙草の臭いだけが増していく。
窓の外を流れる景色は想像していたよりも早い。今ドアを開けてトイが逃げようとすれば、きっと地面に転がって怪我をしてしまうだろう。
血だらけになる自分を想像してぶるりと震える。今逃げ出して怪我をするのと、このままソンリェンにどこかへ連れていかれるのとどちらがマシなのだろうと考えてしまう。
緊張感に耐え切れず、トイは隣に座ったまま黙り込む男にもう一度声をかけた。
「ソンリェン、あの……どこ、行くの」
「わかるだろ」
返事が返ってきたことにほっとしたが、ソンリェンから返ってきたのは斜め上の返答だった。
「な……に、それ。わかんねえよ」
そう言いつつも残りの3人の男達の顔が浮かびあがり、もしかしてと拳を握りしめる。
「……あいつらの屋敷じゃねえぞ」
想像もしたくないような恐ろしい不安は一瞬で叩き落とされたが、肩の強張りは解けない。
また、沈黙が落ちた。
ふうとソンリェンが吐き出した紫煙が鼻腔に流れてきて小さく咳き込んでしまった。窓は、開けないのだろうか。
「──ディアナっつったか、あの女」
「え」
「随分、仲いいじゃねえか」
なんと答えればいいのか迷い、一瞬口を噤んでしまう。
「そ、そりゃ……友達、だから」
「友達、ねえ」
相変わらず表情は見えないが、くっとソンリェンが笑った気がした。組んだ膝の上で、ソンリェンが指先をとんと叩いた。
「孤児同士、傷舐め合ってるっつーわけか」
「ディ、ディアナは、孤児じゃ、ない」
「孤児だろうが」
「ち、違えよ、ディアナにはお父さんがいるんだ……仕事が見つかるまで、いるだけなんだ。そのうち、お父さんがディアナを迎えに」
「くるわけねえだろうが。育児院はたまり場だからな」
答えを一つでも間違えれば、今にも首を刎ねられてしまいそうな緊迫感だった。
ソンリェンの言葉が圧し掛かってきてだんだんと身体が重くなる。見えない重力に圧し潰されているみたいに。
「なん、の」
「ゴミの」
煙と共に淡々と吐き捨てられた言葉に下を向きそうになる。いつも通りのなんてことないソンリェンの暴言だ、別に今更傷つくことでもない。
そのはずなのに、胸はずきずきと痛み始める。
「……人の、価値は、人が決めるものじゃ、ない」
「俺がゴミだっつーもんは全部ゴミなんだよ」
「違う、ゴミじゃない。みんないい子たちだ。ディアナも」
トイだって、ゴミじゃない。穴じゃない、玩具じゃない。
「随分と肩持つじゃねえか、お前」
車の中の温度が三度も下がったような感覚に口の中が渇き始める。ソンリェンがゆったりと足を崩し、コツリと靴を踏みしめた。
振動が床を伝い足先から背筋まで伝わり、ひやりと首の後ろまでもが寒くなる。
ソンリェンが恐い。
「ヤったか、あの女と」
「は……はあ?」
意味を咀嚼しかねて一瞬考え、行き着いた答えに顔を顰める。
「なに、言ってんだよ、ディアナとはそんなんじゃ」
「キスしてたろうが」
「あ、あれは」
やはり見られていた。けれどもあれはそういうのじゃない。完全に無意識だった上に、もっと他に理由があったのだ。
ただそんなこと当の本人に言えるはずもなく、トイは口を濁した。
ソンリェンのことを考えていたからなんて、口が裂けても言えない。
「あれは、違う……き、気づいたら、してて」
「キツいのが好み、か」
「え?」
ディアナは冗談もよく口にするが、別に気の強い女の子ではない。むしろ優しい。
「ディアナは、優しい子だよ」
「そうじゃねえよ」
くっとソンリェン肩を震わせた。嫌な笑みだった。
「そんなによかったのか、穴の具合」
「──は?」
「キツ過ぎて抜けたもんじゃなさそうだったけどな。処女だったか?」
あまりにも酷い暴言に、トイは硬直してしまった。
「……!」
ソンリェンの発言に対して怒りがこみ上げるのは今に始まったことじゃないが、いつも鋭い瞳に睨みつけられて直ぐに萎んでしまっていた。だが、今ソンリェンは此方を向いていない。
彼の顔が見えないことが、トイの気を大きくさせた。
それに、初めてできた大事な友達をこんな形で侮辱されて黙っていられるわけがなかった。
「ディアナは、ものじゃねえよ!」
腹に力を込めて叫ぶ。
ソンリェンは窓の外を眺めたまま微動だにしない。まるで、トイのことなんかどうでもよさそうな態度だ。その姿にトイの中の怒りが加速していく。
「何も、何も知らねえくせに……!」
トイを馬鹿にするのならまだいい。けれどもトイのみならず無関係の人間にまで彼の暴言が及ぶのは耐えられない。
ディアナは普段は明るく振舞ってはいるがふと寂しそうに空を見上げることがある。なのに悲しんでる姿は絶対に子どもたちに見せずに、いつも笑顔を振るまう温かい女の子なのだ。
ソンリェンとは違って。
「ディアナのこと、悪く言うなよ!」
そんなディアナにどうして酷いことが言えるのか。ソンリェンはいつだってそうだ、自分が認めた者以外は人間とみなさない。
育児院で暮らしているからって、親がいないからなんだというのだ。富裕層の人たちもそうでないと人たちもみんな同じ人間だ。トイだってそうだ。
人間が、人間を玩具として扱っていいはずがない。
「必死じゃねえか……」
「と、友達をバカにされて、黙ってられるわけないだろ!」
「てめえは俺のもンだろうが。玩具がご主人様に逆らってんじゃねえよ」
なのにソンリェンはいつもトイを対等の存在として扱ってくれない。話も聞いてくれない。それが悲しい。
ものとして可愛がるのではなく、もっとトイを人間として扱ってくれたら。少しはトイだってソンリェンのことを──何だろうか。
よくない思考に行き着いてしまいそうで、トイは頭を振って語尾を荒くした。
「俺は、ソンリェンのものなんかじゃねえよ!」
初めて、ソンリェンの言葉を否定した。
「オレは、ものじゃない! オレは、オレは……!」
尚も言い募ろうとした時、ふと誰かと目が合った気がして言葉を飲み込んだ。しかし不思議なことに、視線は感じるが窓の外には誰もいない。流れる景色が映るだけだ。
ソンリェンではない、だって彼はトイのことなんかどうでもいいという態度を崩さず、ずっと窓の外を眺めているのだから。
そう、窓の外を──と、そこまで考えて目を見張った。
もう一度目が合ったのだ。窓に映ったソンリェンの瞳と。
──ぞっと、身体が凍り付き、トイは今度こそ声を失った。
膨れ上がっていた怒りが徐々に冷え、代わりにソンリェンに抱く圧倒的な恐れに塗り替えられていく。
「あ……」
無意識のうちに後ずさる。しかしここは車内だ、直ぐに逃げ場を失う。
「なあ、トイ」
ソンリェンがゆっくりと振り向いた。
彼の顔に笑みはなかった。無表情のままトイを見つめている。得意の眉間の皺さえもない。
ここまで温度のないソンリェンの表情を見るのは久しぶりだった。一度目の脱走が失敗した時も、彼は似たような表情をしていた気がする。
あの時は殴られ蹴られ、激しく鞭打たれた。では今は。
「前に言ったよな……女に突っ込んだら、殺すってよ」
ソンリェンは、トイが車に乗り込んだその瞬間から、窓に映ったトイの顔を凝視していたのだ。
今更ながらに、ソンリェンの声が淡々としていた理由に気が付く。
彼は押し殺していたのだ。彼の身の内で荒れ狂う、底冷えするほどの怒りを。
「お前、死ぬか?」
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