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雨音──81.

   シスターは、知るはずのない青年の名を呼んだトイに驚いたようだ。  トイはソンリェンから視線を逸らすことができなかった。  どうしてソンリェンがこんなところに。そんな疑問ばかりが浮かんでそれ以外のことが考えられない。 「……トイ、知ってる方だったの?」 「あ……その、ええと」  目を見開くシスターに、なんと言えばいいかわからず口を噤む。  目の前にいる青年は確かにソンリェンだ。かつてトイの身体を監禁し弄び壊した男達の仲間で、かつ今現在もトイを苛んでいる青年。  だがそんな説明をするわけにはいかない。  シスターはソンリェンを支援してくれる人だと言った。そういえば以前シスターが援助をしてくれる方が見つかったと喜んでいた気がする、寄付金がどうとか言っていた。  あの時はそんな優しい人がいるんだと思っていたのだが、もしかしなくともそれは、他でもなくソンリェンだったのか。 「……驚いたな、トイ。お前こんな所にいたのか」  押し黙るトイより先にソンリェンが口を開いた。  トイは今のソンリェンの台詞の意図がわからぬほど子どもではない。  合わせろ、ということなのだろう。 「あ、う、うん、オレも、驚いた。まさかソンリェン、が……」  ソンリェンは、ここ数ヶ月トイの部屋を訪れていた時のようなラフな格好ではなく、トイが屋敷に監禁されていた頃によく着ていた服を身にまとっていた。これが彼の正装なのだろう。  襟元がきっちりと閉じられ、丈が長く独特の煌びやかな模様が装飾されたそれは他の人間が着れば滑稽に見えるのだろうが、ソンリェンが着れば美しいシルエットを醸し出す。さらには黒く高級そうなコートを羽織っているので、足の長さや腰の細さがよく目立ち優雅な佇まいが様になっている。  金色の髪も相まって神々しさも醸し出していた。  どうしてソンリェンのような金持ちがこの郊外かつ場末の育児院の支援をしようとしているのだろうか。  まさか。 「あの、トイとはどういった……?」 「ああ、以前彼が靴磨きをしていた頃に知り合ってな」 「そうなの?」  訝しげなシスターの問いに慌てて顔を上げる。  今はソンリェンの姿に見惚れている暇も、思案している暇もない。 「あ……う、うん。ほら、駅の近くでそういう仕事も、してたって前言っただろ? その時よくソンリェンが、来てくれてて」 「さっぱり見かけなくなって気になっていたんだ。ここの育児院で世話になっていたとは……姿を見られてよかった」  トイはこんなにも驚いているというのに、ソンリェンの声はいたって平坦で、動揺などは微塵も感じられない。  どくどくと耳元で騒ぐ心臓を抑えるため胸元で手を合わせる。なるべく自然な動作に見えるように。 「あらそうだったのね。知らなかったわ」 「オレも、知らなかった。まさかソンリェンが支援、とかしてくれる人だったなんて。よろしくお願い、します」  あのソンリェンが、なんの見返りもなく傾いた小さな育児院の支援を申し出るなんてありえない。  けれどももし支援を盾にトイを脅迫するのならば、もっと早くにこのことをトイに話していたはずだ。  わからない。ソンリェンはどうして──。 「そちらは」 「えっあっ、あ……あたしは、ディアナって言います。えっと……トイの、友達です。よろしくお願いします」  少し赤らんだ頬で自己紹介を始めたディアナは、ソンリェンの見目麗しさにあてられているようだ。 「……ああ、よろしく」  ソンリェンの冷ややかな声色に、トイの背中に悪寒が走った。 『女抱いたら殺すぞ』  もし先ほどトイがディアナにした行為を、ソンリェンに見られていたのだとしたら。  強張る首を動かしてソンリェンを見る。ソンリェンはトイに見向きもせず、シスターと会話を始めていた。どうやら育児院の説明をして貰っているようだ。  その姿に変わったところは見受けられない。相変わらず表情は乏しいが、今だけは外用の顔を出しているのかいつもの不機嫌さも多少鳴りを潜めている。  その様子にほっとする。そうだ、ソンリェンがこんなことぐらいで怒るはずがない。  自意識過剰だったと胸を撫でおろした、その瞬間。 「トイ」  強い力で肩を掴まれた。  みしり、と食い込む指先に呼吸が止まる。  目の前には、トイに目線を合わせたソンリェンが、いた。  恐ろしく冷えた目だった。  シスターとディアナからはソンリェンとトイの表情は見えていない。久しぶりの邂逅に懐かしい話でもしているのだろうとにこにことほほ笑む二人が見えた。  一気に変貌した空気にトイは溜まった唾をごくりと飲み込む。シスターに怯えていることがバレないように。 「ソンリェン、あの」  冷たい冷気をまとったソンリェンが顔を近づけてくる。あまりの至近距離にびくりと跳ねそうになった肩を静かに抑え込まれ、かがみ込んだソンリェンに顔を覗かれる。  小さく囁かれた台詞を脳内で反芻し、トイは緊張も解けぬまま頷いた。 「……わかっ、た」  ふとソンリェンの視線だけが、トイの視界の隅に見える二人の女性に注がれた。  人質だと、言われているみたいだった。  ソンリェンが口だけを動かして「笑え」と命じて来たので、引き攣りそうになる口角を必死に上げて見せる。さらに目を細めたソンリェンに、ゆっくりと頭を撫でられた。  シスターとディアナには、ソンリェンに可愛がられているように見えているのかもしれない。  今までにないくらい柔らかな撫で方だったというのに、触れられたところから凍ってしまいそうな気がする。冷や汗が止まらなかった。  最近ではあまり感じなくなっていた恐怖が体中を駆け巡り息が苦しくなる。後ろにいる二人に顔を見られぬよう下を向く。 「──健気じゃねえか。逃げるなよ」  立ちあがったソンリェンにもう一度吐き捨てられ、肩をぽんと叩かれてこくりと頷いた。逃げられるわけがない。  ソンリェンが立ちあがる際に、冷徹なその瞳がディアナに一瞬向けられたことに気が付かなければよかった。 「トイ、びっくりしたあ。あんな綺麗な人と知り合いだったなんて」  ぱたぱたと近づいてきたディアナに、手が震えないように袖をぐっと掴り絞めて曖昧に笑ってみせる。 「あ、男の人に綺麗って、失礼かな」 「そんなこと、ないと思う。ソンリェンは綺麗だから……」  彫刻のような顔をした、綺麗で、あまりにも恐ろしい男だ。 「孤児だった時の、知り合いってほんと……?」 「ああ、まあな。靴磨いただけで、お金を沢山くれてた人で……すごく優しくして貰ったんだ」  ありもしない過去の説明をすることが、こんなに辛いことだとは知らなかった。 「そっか……あ、トイ。みんな起きちゃったみたい」  何も知らない子どもたちが数名、部屋から出て来た。アンナがトイの姿を見つけてぱっと顔を輝かせ、此方に向かって走ってくるのが見える。 「……ディアナ、戻ろうか」 「そうね」  二人して子どもたちの元へと戻る。  シスターとソンリェンはそのまま別室へと消えていった。  ソンリェンはトイのことを一切振り返りはしなかった。

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