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玩具の人形──99.

 かたりと物音が聞こえて、うとうととしていた意識が浮上する。  視線だけで窓の外を見れば、真夜中よりも少しだけ朝に近くなった時刻、というところだろうか。あれから何度かトイは目を開いては錯乱し、意識を失うことを繰り返していた。  なんとか薬を飲ませ宥め、そして夜中の3時を過ぎてからはある程度の落ち着きを取り戻したようで、呼吸の乱れも少なくなってきた。  これまでで一番穏やかな寝息に安堵して、デスクの上に用意されていた水を少しだけ飲み壁際に立てかけられた椅子に腰を降ろした途端一気に疲れが押し寄せて、トイの近くに戻る前にそのまま数十分ほど寝てしまったらしい。  そういえば、何やら物音がした。トイが目を覚ましたのかと瞼をさらに上げて見れば、視界に飛び込んできた姿に物音の正体を知った。  薄暗い部屋の中、ソンリェンがベッドに眠るトイを見下ろしていた。シスターは起きたことを悟られぬようじっと彼の行動を観察した。  彼は、窓からの僅かな光に青白く濡れるトイの寝顔をじっと見つめながら、すっと手を伸ばしトイの身体に触れようとして、結局触れることなく手を引っ込めるを何度か繰り返している。  やがて腹を決めたのか、するりとトイの手首に何かをくくりつけた。そしてずれたシーツをそっとトイの肩までかけ直し、その上に静かに手を置き、トイに反応がないことがわかると細い肩をゆっくりと撫ぜ始めた。  複雑な、気持ちになった。  彼の姿に、トイが眠る子供たちを愛おし気に見つめながら、ずり下がったシーツを直しぽんぽんと寝かしつけていた光景を思い出してしまった。 『トイは──俺のもンなんだよ……!』  腕を尋常ではない力で掴み上げられ、忌々し気に吐き捨てられた言葉は絶叫のようだった。この男は、そう叫んだ時自分がどんな顔をしていたのか気が付いていたのだろうか。  悔恨と嫉妬と独占欲が入り混じったような表情は、自分の感情をコントロールできない子どものそれだった。  ディアナの頬にキスをしたトイの微笑まし気な光景に、この男は怒りを抱いていた。  それなのに、自分で薬を与えて犯したくせにこうして自室にトイを匿い、医者を呼び、なおかつシスターを呼びに来ようとしていた、らしい。  ソンリェンという男と、直接会話をしたのは今日が初めてだった。それまでは手紙のやり取り、そして一度だけこの屋敷を訪れた際にハイデンとは別の使用人を通して一度だけ、育児院の支援についての話をした。  けれども、たった一日ではあるがソンリェンのトイに対する感情の深さを、薄々ではあるが理解はした。  最後までシスターがソンリェンを殴らなかったのは、殴らない方が痛い場合もあるからだ。  それに、他人に殴られることを求めているような弱い相手であれば、それは尚更だ。  美しい顔をした青年は、トイの肩を撫でていた手をトイの頬へと持っていき、形を確かめるように輪郭をなぞってからそっと前髪を払い顔を落とした。  トイの顔に沈み込む青年の上半身。触れているのは額か、頬か、それとも唇か。乱暴なそれとは程遠い仕草から、シスターは目を逸らさなかった。  まるで冷えたトイに温もりを分け与えているかのようにも見えた。  彼は、トイを確かに慈しんでいた。  あまりにも、身勝手だと思った。 「こいつの体が落ち着いたら、育児院に帰す。安心しろ」  いつからシスターが起きていることに気が付いたのだろうか。 「……貴方は」  シスターは目を細め、暗闇の中に潜む男を見つめた。 「本当に、愚かな人ですね」  トイから顔をあげた男が、笑った気配がした。 「……わかってんだよ」  それはきっと、自嘲の笑みだったのだろう。男は最後にトイの頬を名残惜し気に撫ぜてから踵を返し、シスターには一瞥もくれずに部屋から出て行った。  ゆっくりと起ち上がり、トイの傍へと戻る。トイの寝顔は穏やかだった。  寝る間も惜しんで、ソンリェンはトイを探していたと使用人は言っていた。  シスターにはこの二人の過去はわからない。話を聞いたのはソンリェンからだけで、トイに直接聞いたわけではないからだ。  これまでで一番柔らかなトイの寝顔を見つめ、窓に染み入る雨の音を聞きながら考える。  同じ空色の目をしたディアナは笑ってくれるのにどうしてソンリェンは笑いかけてくれないのかと、あんな切なげな表情で言われてしまえば理解せざるを得ない。  トイがソンリェンに対して抱いている、複雑な想いを。  トイとソンリェン。  この二人にはシスターには分かり得ない何かが、確かにあるのだろう。 **** 「よオ、ついに壊れたか、それとも壊した?」 「どっから入ってきやがったんだ、てめえは」  特別驚きはしなかった。気配がしていたからだ。だが使用人も引き連れずこそこそと部屋に入ってきたということは、正面からバカ正直に入ってきたのではなくどこからか侵入してきたに違いない。出会った時からのこいつの癖だ。  もっとも、玄関から呼び鈴を鳴らして入ってくれば門前払いされるとでも思ったのだろう。実際来訪を伝えられていれば確実にそうしていたので、この男の判断は正しかったと言える。 「3階の奥の倉庫の窓よ、不用心だな、開いてたぜ」 「てめえみてえにこの家の壁よじ登って侵入してくる野郎なんざいねえんだよ。この筋肉バカ」  普通はバレる。だがなぜかレオが忍び込むと誰にも見つからない。  エミーと同じくこそこそと隠れることがうまいのだ。それにソンリェンこそ、父親がまだこの屋敷に住んでいた6年ほど前まではレオとよくそこから抜け出して飲みに行っていたこともある。  レオは機嫌も悪く睨みを利かせるソンリェンなど気にも留めず、ずかずかとベッドに近づいてきた。ここには寝こんでいるトイがいる。  午前中は一度過呼吸を起こしたが、あとは比較的落ち着いている。身体中を苛む異常な疼きもなくなったようだ。腕を拘束していた紐を外しても身体を掻きむしることもしなくなった。  トイをここに連れてきてからこれで3日目。未だに熱は下がらない。 「あーらら、中間ぐらいって感じかねえ。嫉妬して壊しちゃったか」  水は何杯か飲むことができた。もっとも、意識は虚ろなままだったので水を飲ませた男がソンリェンだということにも気が付いてはいないだろうが。 「で、どうよ。自分が悪魔だってこと自覚した?」 「は」  舌打ちも、うるせえなと吐き捨てることもしない。ただ口だけで笑う。  自覚なんて改めて言われずともだ。自分がトイの手を振り払うことしか出来ない存在だということは、十二分に理解している。 「……なァにその笑い方。後悔ってやつ? 同じ穴の貉だって、思ったんだけどねえ」 「同じ穴の貉、だろうが」 「もう、ちげえんだろ」  トイから顔を上げてレオを見る。椅子に座ったままだったので、レオの切れ長の瞳が垂れて見えた。 「誰か一人を大事に思っちまったらよ。もうちげえんだわ、俺とは」  レオが窓の外を見つめた。よく二人でベランダに出て煙草を吸っていた記憶が蘇る。 「ま、せいぜい看病してやれよ、愛しのトイちゃんを」 「てめえがそそのかしたんだろうが」 「嫌だね~すぐ人のせいにするやつって。俺は事実を言ったまでだっつーの」 「……何しに来たんだ、お前」 「あー?」 「何の用もなく忍び込んできたわけじゃねえだろ」  「ああ、伝えてえことがあってよ。ま、一応まだ友達だし?」  仲間だろうと縋りついてきたエミーを切って捨てた人間を未だに友人だと呼ぶレオの気が知れない。もう自発的にこいつらと会うこともないだろうとさえ思っていたのだ、ソンリェンは。 「バイバイしに来た。俺も屋敷抜けたから。あと学院も辞めた。明日家出る」  綺麗に並べられた台詞の羅列には、少しだけ驚いた。

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