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玩具の人形──98.

 シスターは、何も言えなかった。  トイがあまりにも、悲しい目をしていたから。 「おれの、こと……かわ、いい……って、いうの、かな」 「……ト、イ」 「なんで、かなぁ……」  それは誰かに答えを求めているというよりは、独り言に近いものだった。トイの発言には思い当ることがあった。確か以前トイに、可愛いとはどういう意味かと聞かれたのだ。あの時はてっきりトイがディアナに対してそういった感情を抱いているのかと、思っていたのだが。 「なんで、そんりぇん、は……わらって……なんで笑って、くれねえの、かなぁ……?」  くしゃりと、トイの顔が歪む。泣きだす一歩手前のようなそれに、思わずトイの指を掴んでしまった。 「トイ」 「でぃあなと同じ……目が、空のいろ、なのに……どうして、そんりぇん、は」  トイは美しく装飾が施された天井を眩しそうに見上げている。この屋敷の天井は、仄かに青みがかった色をしていた。数時間前までこの部屋にいた男の瞳の色を思い出して、シスターは苦く唇を噛んだ。 「でぃぁ、なは……笑う、のに、なん、で、そんりぇん、は……どうして」  トイはよく、ディアナの笑顔を眩しそうに眺めていた。彼女の微笑みに焦がれるように、頬を赤らめていた。青い瞳で笑うディアナを。  だからシスターはずっと勘違いしていた。トイはディアナに恋をしているのだと。 「なんで、そんりぇ、は」  けれども、トイがディアナを通して見ていたのは、きっと──。 「おれに、笑って……」 「トイ」  虚ろな状態のトイは、トイ自身すらもまだ自覚していないであろう、彼の中の真実しか語らない。 「なんで」 「トイ、聞いて」 「でぃあ、な……?」  ふいに、自分の発言にトイは瞠目した。駄目だ、と思った次の瞬間にはトイは大きく震えだし、シーツを握りしめてぶるぶると瞳を動かし始めた。 「ここどこ」 「トイ、ここは安全よ、あなたが休めるところなの、大丈夫よ、大丈夫」 「どこ……や、どこ、どこ……でぃあな、が……に、見られ」  見開かれた目がうろうろと部屋の中をさ迷う。  見知らぬ世界にトイは激しく狼狽し始めた。 「あ、あぁ、ああ……」 「トイ、トイ……!」 「あ、あ、ぁあ、あ、やだ、しすたぁ、どこ」 「ここにいるわ! 大丈夫よ!」 「あ、あぁあ……ああ、あ」  やはり長くは続かなかった。1年前もこうだった。  会話らしい会話が少し出来ていたと思ったら直ぐにパニックに陥る。そして体を苛む異常なまでの疼きと熱を如実に感じてしまい狂ったように自身の身体を弄り、自慰を繰り返すようになる。現にトイの手はトイの下半身を掻きむしっていた。 「トイ、ダメよ……!」 「ぁ、つい……よぉ! や、ぁあっ……」  排出しなければ辛くて辛くてどうしようもないことはわかってはいるが、繰り返せば繰り返すほど薬が浸透してしまうらしく、トイの身体の熱は深刻化する。最初の頃は出した方が楽なのだろうと思っていたが、何日もそんな光景を見ていればそうではないことに気が付いた。  トイの両手首を掴みあげ、強くシーツに押さえつけて覆いかぶさりトイの耳に囁く。1年前と同じように。 「トイ……トイ、落ち着いて! 大丈夫よ」 「はな、しっ……や、ら、ぁあ、いた、い、こわいぃ……っ」 「トイ……傍にいるわ、こわくないわ!」  だが、トイは力が弱く細身だが瞬発力がある。ばたばたと暴れる身体を押さえつけるのは少々大変だ。可哀想だが、やはり手だけでも縛ろうとテーブルに用意されていた柔らかな紐に手を伸ばそうとしたが遠くて掴めない。  まずはある程度まで落ち着かせようと必死にトイに語り掛けていた時に、失礼しますという声と共にバンと後ろの扉が開き、40は過ぎているであろう男が入ってきた。  ハイデンだ。走って屋敷へと向かっていた自分を車に乗せ、トイの診察が終わるまでと客間に自分を閉じ込め、この部屋に連れてきたソンリェンの家に仕える使用人。 「お手伝いをさせてください」 「いいえ、結構です。出て行ってください」  この男がトイにとってどういう人間かわからないままでは、部屋に入れるわけにはいかない。それに他人の手は必要ない。だが男はシスターの言葉を無視するとさっさと紐を掴み反対側へと回りトイの腕を縛りあげ、ベッドヘッドへと繋いでしまった 「ちょっと、貴方……!」 「反対側はお任せします」  残った紐を手渡されれば何も言えなくなる。それにこの男が入ってきてもトイの表情に大した変化は見られない。  暴れるトイを優しく擦りながら、トイの細すぎるもう片方の手首をベッドヘッドへと繋ぐ。トイは自由にならない腕に気づいていないのか、それでも振り回そうとしている。ギシギシと軋む手首のせいで余計に熱が皮膚を通して溜まっていくのか、体を大きくくねらせながらトイは鳴いた。 「トイっ」 「ッ……、ぁ、ひ」  ぐん、とトイが足を突き伸ばして、そのままぶるりと震えて絶頂を迎えた。  あまりにも、あまりにも哀れな姿に堪えていた涙が零れそうになり、乱れたシーツを直ぐにトイの下半身に静かにかけてやる。新たに吐き出した精液で湿っていた。  一度出したことで少しは落ち着いたのか、トイは虚ろな瞳で荒い呼吸を繰り返しそのままぱたりと気を失った。意識が戻らぬうちに、水に濡らした布で額と首の汗を拭ってやる。この異常な震えが治まるまで、あとどのくらいかかるのだろう。 「……手伝って頂き有難うございます。ですがもう大丈夫ですので」 「何か必要なものがあればお申し付け下さい」  ソンリェンが出て行った時に、入れ違いでこの男が入ってきた時にも同じことを言われた。そして医者から処方された薬の使い方も。その時はこの使用人は直ぐに部屋から出て行ったのだが。 「わかりました」  有難うございますと軽く頭を下げて見せても、今は出て行こうとはしない。なんだ、と訝しむ。使用人はじっとトイを見つめていた。汗ばみ乱れた髪すら自分で拭えず、苦しみに苛まれているトイを。 「……なんでしょうか」 「私は、ソンリェン様とこの子の関係がどんなものであったのか、存じ上げません」  唐突に語り始めた男に眉を顰める。 「白々しいですね、聞いていたのでしょう。貴方が外にいることは知っていたわ」 「ソンリェン様から直接、聞いたわけではございませんので」 「何をおっしゃりたいのですか」 「ほぼ11ヵ月でした」 「……は?」 「昼夜を問わず、寝る暇も惜しまず」  表情には乏しい男のようだった。何を考えているのかわからない。ただ。 「必死にこの子を探していたことは、事実です。それにこの子が見つかった時のソンリェン様は」 「だったらなんだというのですか。それ以上意味のないことを言うのであれば殴りますよ」  敵であることは確かなようだ。ハイデンの言葉を遮る。腸が煮えくり返る想いだった。 「トイをこのような状態にしたことを許せと言うのですか」 「いえ……ただ、知って頂きたかっただけです」 「私がその事実を知ったとて何も変わりません。貴方の敬愛するご主人の過去も消えないでしょう」  数秒押し黙り、そうですねと返した使用人はやはり顔色一つ変えずに一礼し、部屋から出て行った。  僅かに開かれた扉の隙間から見えた金色の髪には見て見ぬふりをした。  今のところは、この部屋に入ってこなければそれでいい。

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