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玩具の人形──97.
『オレ──死ねる、の?』
強く唇を噛みしめた。
虚ろに笑んだトイの姿が脳裏から離れない。
「しすたー……」
か細い声に、両者が動きを止めた。互いに昇っていた血が一瞬で下がる。
シスターが慌てて、トイの元へ駆け寄った。
「トイ」
声の主はトイだったはずなのだが、トイは答えない。目もきつく閉じられたままだ。どうやら寝言のようだ。顔を歪ませたシスターがトイの剥き出しの手をそっと握った。トイの身体がびくんと跳ねても、シスターは手を離さなかった。
ここから覗くトイの手首の細さに何も言えなくなる。
いくら抱きしめても声をかけても、トイはソンリェンの名を呼ばなかった。だがこの女の声には反応し、この女の名は呼ぶ。それが答えだ。
トイにとっての救いは、シスターだ。
口内に溜まった唾を深く飲み込む。
少しだけ、手が震えていた。強く拳を握り締め、身を切るようにして扉へ向かう。
ちらりと横目でトイを確認したが、依然として顔色も変わらない。これだけ大声を出しても起きないのだから、意識は深いところまで落ちているのだろう。だがそんな状態でも呼吸は荒い。
ひゅうひゅうと木枯らしのような掠れた吐息を零しながら、トイは苦しみと戦っていた。
ソンリェンが無理矢理飲ませた薬のせいで。
「ソンリェン様」
ドアを開ければ、そこには真っすぐに姿勢を正したハイデンが控えていた。彼は、ソンリェンとシスターの会話を聞いていたのだろうか。薄々は彼も勘づいていただろうが、ハイデンにトイとの過去を説明したことはなかった。
「お前はここで控えてろ。あの女になんか言われたら動け。あと医者に出された薬の説明もしておけ」
「わかりました」
最後に一瞬だけ振り返り、ベッドに散ったトイの赤茶色の髪を見てから扉を閉めた。重い足取りで踵を返す。
「ソンリェン様」
ぴたりと足を止める。
「服が濡れています。着替えて下さい」
背後に強くハイデンの視線を感じた。
「風邪を、ひいてしまいます」
ハイデンの声色はいつも通りだ。しかし確信する。ハイデンは先ほどの会話を聞いていたに違いない。
僅かに、憐れみを含んだ声色だった。それはトイに対してか、ソンリェンに対してか。きっとどちらに対してもなのだろう。
ハイデンがソンリェンを見捨てないのは、彼が歪んだ家系と言えども忠誠を誓った家に誠心誠意仕える、真面目過ぎる男だからだ。
「……わかってる」
わかっている。もう、わかっていた。
他でもないトイのため、ソンリェンが選ぶべき道はただ一つなのだと。
一度強く目を瞑り、重い瞼を押し上げ、ソンリェンはその場を後にした。
****
ふるり、とトイが瞼を上げた。
淀んだ赤い瞳がシスターを捉える。未だ現実と夢の境界線を行き来しているようだが、それでもまともに目を覚ましてくれたことに僅かばかり安堵した。
つい先ほどまで、悲鳴を上げながらベッドの上でのたうちまわっていたのだから。
一瞬であってもトイが落ち着いてよかった。この時間も、長くは続かないということはわかっていたけれども。
「し、すたぁ……」
か細い声は掠れているが、思いのほかしっかりとしている。
叫び続けていたため喉が切れていないか心配だったが痛むだけで済んでいるようだ。1年前は喉が切れて出血し、トイは暫く声を出すことも出来なくなっていた。
「ええ、傍にいるわ」
「うん……」
「大丈夫よ」
とろとろと揺れるトイの目をしっかりと覗き込み、耳に届くように告げてやる。褐色の肌だというのにかなりの赤みを帯びてきた。トイの服も身体も汗でびっちょりだ。
額や首や、目に見えるところだけでなく身体全体を拭いてやりたかったが、余分な刺激を与えてしまいトイが射精を求めて身悶えるのも辛い。
今はまだ、と急く心を落ち着かせてトイに向かってほほ笑んで見せる。トイが一番安心出来るのは自分の笑みなのだと、シスターは深く自覚していた。
トイのために全力で出来ることをする。あんな男になんて任せていられない。ガーゼで覆われていない部分にも噛み痕や鬱血痕があった。どれだけ酷いことをされたのかと後悔が滲んだ。
トイが苦しんでいる時にシスターは、トイからの手紙だというメモを顔を赤らめながらぎゅっと握りしめているディアナに微笑ましさを抱いていた。
育児院ではなく二人だけが知っている秘密の場所での告白だ。可愛らしい二人の恋を応援するために行って来ていいわよ、と後押しもした。
トイの字は見たことがある。あのメモに書かれた文字が彼のものではないということに早く気が付いていればよかった。きっと全て、あの男が仕組んだことなのだ。
視界が白くなるほどの怒りを、シスターは久しぶりに覚えた。
一度目は瀕死のトイを拾い、その身体に刻まれた痣の多さに驚愕した時だ。孤児の子どもが身を売って生計を立てることは悲しいことだが珍しくない。
金を稼ぐためにトイはそういった趣味を持つ恐ろしい「客」を取っていたのだと言っていた。そしてその日の「客」に想像以上のことをされて死にかけた、不注意だったと困ったように笑っていた。
周囲に気を遣わせないよう、苦しみながらも笑みを浮かべ続けるトイを抱きしめるたび、彼の心にこれほどまでの恐怖を植え付けた「客」たちを同じ目にあわせてやりたくなった。
そして二度目は、つい数時間前だ。トイの本当の過去とやらを本人以外から聞かされて愕然とした。
トイは身体を売っていたわけではなかった。もちろん、それだけではないとは思っていた。けれども、見ず知らずの男たちに誘拐され監禁されいたぶられていたなんて想像すらもしていなかった。
仲間の一人だったというソンリェンにも、1年も傍にいてトイの隠し事に気が付けなかった愚かな自分に、なによりも怒りを覚えた。
「……し、すたぁ」
「ぁ……ええ、どうしたの? 大丈夫よ、傍に、いるわ」
今のトイは正気ではない。身体の平行感覚が狂い、普通に寝そべっているだけであっても身体が震えている。自分の身に何が起こっているのかも、自分がどこにいるのかもわかっていないはずだ。
だから、一人ではないのだということだけでも伝えたかった。
「そん……りぇん、は」
だというのにトイの口から零れた単語は聞きたくもない名前で、シスターは引き攣りそうになる頬を渾身の力で抑え込んで、耳を傾けた。
「ソンリェンさんが、どうかしたの?」
「そんり、ぇん、おこって、た……?」
「……怒ってなんか、なかったわよ」
「ほん、と?」
「ええ。ソンリェンさんは、怒ってたの?」
うん、とトイが小さく頷いた。
「……なんで、そんり、は……おれに」
天井をさ迷っていたトイの視線が、ひたりと止まった。
「おれに、きす、するの……かな」
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