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玩具の人形──103.
「大丈夫だ、トイ。行かなくていい……」
「行かなくて、いいの?」
「ああ」
あまりにも愚かなソンリェンが、今トイに出来ることは一つしかない。
「もう行かなくていい……自由に、してやる」
ぴくりとトイが固まり、ふるふると首を振った。まるで何かから逃げようとしているかのような仕草だった。その瞳は一瞬で怯えに満ちた。
「トイ……?」
「うそ、だ」
「嘘じゃねえよ」
「うそだよ」
「本当だ」
「うそ……だって、ロイズも、言ってた」
いつ言われた台詞なのかは一瞬で察しがつく。トイを壊す前日だ。
『なんで、なんで……うそ、や、だ、嫌ぁ……』
『嘘は言ってませんよ? 自由にしてあげますからね。トイを壊した後で』
希望を打ち砕かれ、半狂乱になって暴れて逃げようとするトイを、まずはレオが押さえつけた。無理矢理口を開かせたのはエミーだ。小さな子どもを押さえつけるには二人の男で事足りる。ソンリェンは入る必要性を感じなかったので椅子に足を組んで座り、残酷極まりない光景を煙草を吸いながら眺めていた。
『最後ですから、いっぱい叫んでくださいねえ』
『頑張れよー、ちゃんと最後まで使い切ってやっから。それに生きてたらちゃんと路地裏に捨ててやるぜ』
『まあ死んでも捨てちゃうけどね』
傾けられる瓶に、トイは蒼白な顔をしていた。だが鼻を摘ままれて飲み込むしかなかった、最初から一瓶全部だった気がする。それとも半分だったか。覚えていない。
なにしろ床に倒れ伏して狂いそうになる熱にのたうち回るトイに最初に抱いた感情は、湧き上がる嗜虐心と、自分じゃなくてよかったなという冷たい感想のみだったのだから。
酷く身体が重くなった。吐き気すらしてきた。足元の地面が抜けていく感覚だ。過去を思い出すことが、これほどまでに苦痛を伴うものだとは知らなかった。ソンリェンでさえそうなのだ、酷い目に合わされて来たトイはどれほどの思いで過去の絶望と闘っていたのだろう。
ソンリェンが呑気にトイを探していた、11ヵ月の間。
「言ってたのに、おれ……おれ」
トイの身体がかたかたと震え始めた。瞳が左右に揺れ、そこに映るソンリェンの顔が溢れる涙に歪んでいく。吐き出される呼気すらも震えていた。
「おれ」
「トイ、大丈夫だ。傍にいる」
どの口が。トイの傍にソンリェンがいることこそが、トイにとっての絶望だろうに。
「おれ、は」
それならばやはり、ソンリェンがトイにしてやれることは一つしかない。
「トイ、聞け……逃がしてやる」
ひたりと、揺れていたトイの瞳が定まった。
「自由にしてやる……トイ」
嘘だと、トイは言わなかった。ただ黙ってソンリェンを見上げている。
「じ、ゆう?」
「そうだ、自由に……」
言いかけて口を噤んだ。違う。それはソンリェンの傲慢さの現れだ。ソンリェンが自由にしてやると豪語する前に、トイは自由なのだ。
一人の意思を持った人間なのだから。トイは、ソンリェンにそんなことを言われる前に──。
「自由だ、お前は」
トイの髪に指を差し込んでそっと顔を寄せ、頬へと口づける。直ぐに離していつものように涙で滲んだ目じりへ。少しのしょっぱさを吸い取り、最後に額を合わせると少しだけトイの身震いが治まった。幾分か、熱は引いたようだ。
今まで以上の至近距離で、トイの赤を見つめた。ぎゅっと、トイがソンリェンの服の袖を握り絞めて来た。ころりと、トイの眦からまた大粒の涙が零れた。トイも、ソンリェンの瞳をじっと見つめていた。
「オレ、じゆう……?」
「ああ、そうだ。だから、もう泣くな」
この一瞬だけでも、トイを安心させてやることができればと柄にもなく祈りを込めて目を瞑った。本当に柄にもない、エミーが見ていたら卒倒するだろう。
だがもう誰に見られていても構わなかった。
誰に何を言われてもいい。それでトイが少しでも幸せに、なるのなら。
「泣かないで、くれ……トイ」
泣かないでくれ。
「大丈夫だ、お前は、もう自由だ」
もう苦しめるような真似は、しないから。
「自由なんだ、トイ」
暫く体勢を変えず額を合わせていた。ふいに抱いていた身体が崩れ、肩にぽすんと小さな重みが乗って来た。目を開ければ、目を閉じたトイがソンリェンの肩に寄りかかっていた。
疲れたのだろう、聞こえてくる穏やかな寝息に少しだけ震える吐息を吐き出して。
ソンリェンはそっと、トイを腕の中から解放した。
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