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玩具の人形──102.

 見慣れない天井にトイは不安そうに目を泳がせた。ここはソンリェンの部屋だが、あの屋敷ではない。 「なんでソンリェンが……? あ、オレ……」  赤い瞳が何かを思い出したかのようにぱっと見開かれた。トイが慌てて体に力を入れて起き上がろうとした。しかしそのままふらりとベッドに横向きに倒れる。 「おい、起きるな」 「でも」  くたりとベッドに投げ出された腕は、それでも必死に起き上がろうとシーツを掴んでいた。ソンリェンに押さえつけられ、そして自慰をしないようにと縛られて痣になった両手首には包帯が巻かれている。 「ぇ、エミーに、呼ばれて……て」  トイは怯えてはいなかった。ただ昏い瞳で、力の入らない上体を起こそうと腕を震わせている。 「いかな、きゃ」  諦めと、虚脱感に満ちた目だった。ソンリェンのよく知る1年前のトイの姿だ。  ふらふらとした身体でベッドから這い出ようとするトイの身体をそっと抑え、抱きしめる。  トイはソンリェンの行動に身体を強張らせたが、エミーの元へ行く前に相手をするよう要求されているとでも思ったのか、息を一つ吐いてゆっくりと足を開いてみせた。  誰が相手でも挿れやすいようにと、常にトイがとっていた行動だった。  あまりにも哀れだった。従順になるよう躾けられてしまったこの細い身体が。  そう思えるようになるまでこんなにも時間がかかった。ソンリェンはいつもいつも、気が付くのが遅過ぎる。 「行かなくて、いい」 「ぇ」 「行くな」 「そんりぇ、ん?」  我ながら、あまりにも掠れた懇願だと思った。唇を噛みしめてトイを抱きしめる腕に力を込め、肩まで伸びた髪を頭ごと何度も撫でた。  ここにいるのは、抱きしめただけで折れてしまいそうなほど小さな子どもだ。  一昨日の夜から、シスターが一度育児院へと戻った今朝の明け方まで、時間の許す限り自室の扉の外にいた。部屋の中から聞こえるトイの喘ぎ声と悲鳴と泣き声と、そんなトイを必死に宥めるシスターの慈愛と焦燥と悲しみに満ちた声を聞いていた。  強く目を瞑る。 「行くな、トイ」  もうあの頃に、戻らなくていい。  トイから身体を離し至近距離から見下ろす。トイは相変わらずぼんやりとソンリェンを見ていた。  トイの汗ばむ肩にかかった髪を払ってやり、トイの頬をそっと両手で包み込み、乾いた肌を撫でる。トイの赤い瞳が困惑気味に揺れた。 「そんりぇん……?」  ソンリェンは、ロイズと同じく貿易を生業としている家系だ。  歴史はそれなりに古く、元々の血筋はこの国より東にある国だった。地域に根付くためにこの国の人間と婚姻関係を結んできたが、何世代と時を経た今でもこの身体には異国の血が多少なりとも流れている。  顔立ちも、金色の髪に青い瞳という見た目もこの国の人々と変わりないが、代々続いてきた仕来たりとでもいうのか、生まれてくる子の名前には必ず異国の風情が入れ込まれる。父親も祖父もそのまた曽祖父もそうで、例に漏れずソンリェンもそうだ。  当初は先祖の血に誇りを抱くためだったようだが、名声と権力を得た今現在では、姓と名を語れば一瞬で家の力を示せるから、に理由がすり替わってしまっていた。  ソンリェン、という名前は、慣れない人間にとっては呼びづらい。元来のこの国の発音と異なるからだ。文字に慣れ親しんだ一般階級、そして富裕層はなんなく口に出来る名前だが、勉学を学ぶ機会を与えられていない孤児となればそうもいかない。  その証拠に、トイはソンリェンの名前を呼ぶのに苦労している様子だった。今でも、意識して呼ばないとたどたどしくなってしまう。  他人に軽々しく名を呼ばせることを許さないソンリェンが、トイが名を呼ぶことに難色を示さなかった理由はそこだ。舌ったらずに自分の名を紡ぐ唇が、声が、かわいいと思ったからだ。  監禁していた当時は、自分のそんな気持ちにも気が付かなかったけれども。 「行かなくていい……エミーには俺が、言っておく」  すべてにおいて気が付くのが遅すぎた。  だから今こうして、あの頃に戻っているトイに優しい顔をしようとしている。 「休め、このまま寝てろ」  これは懺悔ではない、ソンリェンのエゴだ。  愛人の一人だった女の手を振り払わずに掴んでしまった理由もそうだ。トイが相手でなければ意味のない行為だというのに。  トイに想像を絶する重苦を与えてきたことや、トイを壊し尽くしたあの頃のどうしようもない自分をなかったことにしたいだけだ。トイのためでもなんでもない。  エミーの鋭い叱責が脳裏を過る。何様のつもりだと。その通りだ。 『ど、どうしようもないクズで、外道のくせに、俺と、俺らと同じ』 ──その通りだ。ソンリェンはどうしようもない外道だ。そしてそんなどうしようもなさが、ずっとトイの身体と心を蝕んできた。  自分のものにならないからと言ってトイを壊したとしても、何も得られないというのに。  トイの弾けるような笑顔が誰よりも眩しいことを、ソンリェンは知っていたのに。その笑顔が見たかったのに、何者にも捕らわれない本来のトイと話をしたかっただけなのに、トイに拒絶されることが恐くて恐怖で支配しようとした。  最初から間違っていた。トイを探し出そうとしたことも。そもそもトイを誘拐したことも。いや、ソンリェンがこの世に生を受けたことが、きっとそもそもの原因だ。  あの時攫ったのがトイでなければ、ソンリェンはこんな思いを抱くこともなかっただろう。  好いた相手が自分のせいで悶え苦しんでいる。それを自覚することはこれほどまでに、苦痛を伴うものだったのか。 「そん……りぇ」 「……大丈夫、だ」  ソンリェンは、シスターがトイを落ち着かせるために使用した言葉をただ真似ることしかできない。それ以外の方法でトイを落ち着かせる術が、ソンリェンにはない。  ロイズ、エミー、レオ。彼らの輪から抜けたとしても根本的にソンリェンの気質も性格も変わらない。  冷徹で、傲慢で、鬼畜で、我がままで、自分勝手で、短気で、性格破綻者だ。今だとて、トイ以外の孤児もシスターもどうでもいいと思っている。トイにとって大切な存在であるから手を出さないだけだ。  もう本当に、ソンリェンはどうしようもない人間なのだ。そして、そのどうしようもなさに胡坐をかいて身勝手に振舞うことも、もう終わりにしなくてはならない。  トイのために。

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