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告白──105.

 目の前のソンリェンの上半身が盛大に水に濡れてから、トイは手に持っていたグラスをソンリェンに思い切り投げ付けたことを自覚した。  ソンリェンの口の横にがんと強く当たったグラスがごろごろと床に転がる。割れてはいないがヒビは入っているかもしれない。 「……ってえな」  ソンリェンは、少しだけ切れてしまった口の端に眉根を寄せ苛ついた顔をしてはいたが、トイを怒鳴るでもなく淡々と血を拭った。  以前であれば一瞬で激高してトイを殴りつけただろうに。  まるで怒りをぶつけられることを予測していたみたいな態度だった。  それが余計に、トイの激情に火をつけた。 「ふざ、けんな……」  急激に下がった血が頭に昇ってきて、ふらりと視界が傾いた。目の前が真っ赤に染まり、手がぶるぶると震えた。薬のせいでも怯えのためでもない、激しい怒りのせいで。 「ふざけんなよ……!」  声が裏返っても構わなかった。とにかく声を張り上げたかった。こんな風に口汚くソンリェンを罵ったことは、初めてだった。 「なんで、勝手に!」 「聞かれたからだ」  傍にかけていたタオルで顔と服に染みついた水をぽんと拭い始めたソンリェンは、やはり淡々としている。かっとなってソンリェンに詰め寄る。  ソンリェンはトイを避けるでもなく、むしろ急激に動いたことで身体中の鈍痛と狂った平衡感覚にふらついたトイの肩を支えてきた。  そんなソンリェンの手に激しい嫌悪感を覚え振り払い、ソンリェンの胸ぐらを掴み上げる。  ソンリェンがトイの手を振り払うことはなかった。 「言わないでって、言っただろ!」  ソンリェンに逆らわない代わりに、シスターにも子どもたちにもトイの過去のことは話さないでくれと懇願した。  ソンリェンは馬鹿にしくさった目でトイを組み敷いて、従順でいればなと了承したはずだ。 「なんで……オレ、従順だったじゃん! ソンリェンに、従ってたのに……!」  足を開けと言われたから開いた。  咥えろと言われたから咥えた。  飲めと言われたから飲んだ。  尻を上げろと言われたから上げた。  喘げと言われたから喘いだ。  卑猥な言葉だって命じられたから口にした。  俺のものだろう? と問われたから頷いた。  自分を殺して殺して、この2ヶ月間全てソンリェンの望む通りにしてきた。それなのに。 「オレ、逃げてない……ソンリェンのものに、なってたじゃねえかよ!」  それなのにソンリェンは常に不服そうだった。  トイはソンリェンの機嫌を損ねないよういつも気を張りつめて、いつ乱暴に組み敷かれるのかと怯えながら彼を怒らせないように頑張っていたというのに。 「何が不満なんだよ! なんで、なんで……!」  ディアナにあんなに恐ろしい情事を見せつけて、その上シスターにまでも。  トイが身を削って守ってきた全てを、こんな形で崩そうとするなんて。 「従順、ね」  そっと、ソンリェンの胸ぐらを掴むトイの手に無骨な指が添えられた。力は込められていない。引き剥がされる勢いもなかった。だからトイはソンリェンの襟首を鷲掴む指にさらに力を込めた。  これまでの思いの丈をぶつけるように。 「オレのもンに、なった試しなんてねえだろうが、お前」 「なってた……オレ、うんって、言ってたじゃん!」  ソンリェンの瞳に、トイのひしゃげた顔が映っている。 「心なんてこもってねえくせに」  ソンリェンは口角を吊り上げようとしたらしいが、ひくりと震えるだけで終わった。  唇の端が割れ、つうと赤い雫が零れたのだ。さきほどトイが投げつけたカップのせいで切れたのだろう。  一筋だけ流れた赤い血を見て、トイの中の何かが切れた。ソンリェンの代わりにトイの方が口を歪めた。ひくりと頬が引き攣る。 「……は、当たりまえだろ」  トイと同じ、血の色をしておきながら。 「当たり前じゃん、そんなの」  あんなことをされてきて、心を込めてソンリェンを慕えるわけがない。疎んできたと言ってもいい。  ソンリェンに対する恐怖を引き剥がしてしまえば、そこに残るのはトイですら抱えることのできないどろどろとした感情だった。 「今更何言ってんだよソンリェン、オレがアンタにどんな感情抱いてるかなんて、ソンリェンが一番、わかってるくせに……」  ソンリェンに対する憎しみ、いたぶられる苦しみ、そして最後、人として扱われない哀しみ。  そうだ、哀しいのだ。トイは哀しみ過ぎて疲れていた。諦めさえ抱いていた。  ソンリェンに近づけば近づくほど、苦痛だけが広がって──はた、と思い返す。 「当たり前、ね……知ってんだよそんなことは」  ソンリェンの傍にいることは苦痛だった。時折優しく触れてくる手に翻弄されるからだ。 「じゃあ聞くけどよ、なんでバラされたくねえんだ」  トイを玩具としか扱ってこないくせに、飢えた獣のように激しいキスを求めてくるからだ。  慈しむように瞼に、頬に、鼻に、額に、唇を落としてくるからだ。 「シスターが傷つくってか? だから何だ」  髪を乱暴に引っ張り上げてきたその指で、煙草の火を押し付けて来たその指で、くしゃりと頭を撫でてくるからだ。  頬を張り飛ばしてきたその手の平で、頬をまるく撫ぜてくるからだ。  トイの脚を無理矢理開かせてくる両腕で、トイを背後から強く抱きしめてくるからだ。  かつてトイの頭を踏みしめ腹を蹴り飛ばしてきたその足を、しっとりとトイに絡みつかせてくるからだ。  後ろから激しくトイを犯しながら、かつて鞭打った背中の傷の一つ一つに丁寧に舌を這わせてくるからだ。 「ああ、傷ついてたな。涙流してお前にしがみ付いてたぜ」  額を合わせてトイをしっかり見ようとしてくるくせに、微笑んでくれないからだ。  トイが欲しいと思っているものをくれないからだ。  青は、トイが一番好きな色なのに。 「よかったじゃねえか、愛されてるなあ、お前」  いつもこうして、残酷な台詞でトイを突き落としてくるからだ。  ソンリェンの青はいつもトイに冷たい。対等にも、扱ってくれない。  もう嫌だ。疲れた。トイは脱力した。 「ソン、リェンは……」  ソンリェンの胸を掴み上げていた手から、力が抜けていく。  振り払われる前に、自分から外した。 「変わんねえんだな」  肩を落としてシーツに視線を落とす。もうソンリェンの目を見ていたくなかった。 「ソンリェンは、変わんねえんだな」  だからソンリェンが、血の滲んだ唇を噛みしめたことにも気が付かなかった。 「変わったら……お前は、俺を見るのか」  ──警鐘が、鳴り響いた。 「……は?」 「バカくせえな。わかってんだよ、俺が変わることなんてまずありえねえ。お前以外どうでもいいからな」  煩いくらいのそれに追い立てられるように、ゆるゆると顔を上げる。 「どうでもいいんだよ。育児院のガキ共もシスターとやらもあのディアナっつー女も。お前以外は全部……」  じわじわと、背中を這い上がってくるような薄ら寒さは予感だ。  ソンリェンに優しく抱きしめられるたびに感じていた焦り。  これ以上ソンリェンの言葉を聞いていたくないのに腕が動かない。細胞の一つ一つがゆっくりと冷水に浸かってしまうような感覚だった。  警鐘の音が、トイの中でどんどんと膨らんでいく。 「いや違うな、どうでもよくはねえな。殺してやりてえよ」  相変わらずの物騒な台詞だ。しかし殺気は感じられなかった。  それなのにトイは気圧されるように少しだけ後ずさってしまった。が、いつのまにかトイの手首を握りしめて来た手がそれを許してくれない。 「お前に近づく奴ら全員──殺してやりてえよ……」

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