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玉ねぎのスープと林檎とサンドイッチ──109.
ソンリェンの言っていた通り、トレイに乗ったスープが部屋に持ち込まれたのはあれから数時間経ってからだった。時刻は20時になっていて、丁度トイもタイミングよく目が覚めた。
もっとも、使用人とやらが部屋の扉をノックしたから起きたのだが。
ソンリェンが部屋から去ってからもトイは暫く泣いていた。だがやはり急激に動いたり叫んだりしたせいで疲労は色濃く、気づけばベッドの端で倒れ込むように寝てしまっていた。
身体の疼きは収まったもののやはり怠い、だが異常なまでの寒気はなくなっていた。
カラカラとトレイを押して入ってきたのは、確かハイデンとかいう使用人だ。
「起きられましたか」
湯気の立つスープを見る。量はそこまで多くない。
「お食事をお持ちしました。少しでも口にできればいいのですが」
起きたばかりだったが、散々寝たせいで意外にも思考はすっきりしていた。ハイデンが慣れた手つきでテキパキとベッドの隣のサイドテーブルの上で食事を整えていく。
「お水は、飲めますか」
こくりと頷く。さっきはソンリェンに投げ付けたせいで飲みそびれてしまった。ハイデンは大きめのカップに冷たそうな水を注いだ。
並べられたスプーンの一つであっても綺麗に磨かれていて、この屋敷がトイにとって場違いな世界であることを如実に感じる。
元より、ソンリェンとの爛れた関係がなければ入ることすら叶わないような屋敷だ。トイは元々汚れた孤児なのだから。
「だいぶ、顔色がよくなられましたね。熱もないですし、ソンリェン様に伝えておきます。明日の午後にシスターがいらっしゃいますので、そのまま一緒にお帰りになられても大丈夫そうだと」
そういえば、明日シスターがここに来るとソンリェンは言っていた。
「ハイデン、さん……だっけ」
トイから声をかけられたことに多少驚いたのか、ハイデンが手を止めてトイを見た。相変わらず何を考えているのかわからない表情をしている。
そういえば、この人はトイの自室に来たことがあった。今思えばシーツに包まれていたとは言え裸を見られもしたのだ。
まあ、彼の前でソンリェンに色々なことをされた挙句に薬を飲まされ、車に戻ってきた時はもっとボロボロの状態だったろうから今さら恥じらいもないけれど。
「はい、ハイデンです」
「聞きたいことが、あるんだ。聞いても、いい?」
「はい、お答えできることがあれば」
丁寧な所作で身体を折り曲げたハイデンと目線が合った。表情は変わらないが、聞き取りやすいように少しだけ顔を傾けてくれる辺りそれなりの良識を持った人間なのかもしれない。
ソンリェンに仕えているということを除けば。
「ソンリェンはさ……昔から、あんな、なの」
ハイデンは何度か目を瞬かせてから、考える素振りも見せずに大真面目に答えた。
「あんなですね」
「……あんな、なのか」
「はい……あ、いえ。正直に言えば昔の方がまだ」
言葉を濁したハイデンに、トイは小首を傾げて後に続くであろう台詞を繋げてみた。
「まだ、ましだった?」
「……そうですね」
手厳しいことを言っておきながら、やはりハイデンは真顔のままだ。正直な答えになんだか笑えて来た。
「そっか、ましだったんだ、今よりは」
こんな真面目な使用人にすらこんなことを言わしめるのだから、やはりソンリェンは一般常識からはかけ離れている男なのだろう。
そんな彼に捕まってしまったことが、トイにとっての最大の不運だったのかもしれない。
「……昔のあの人に会ってたら、違ってたのかな」
出会いたくはなかった。目の前から消えてほしいと叫んだ気持ちにも大嫌いだと泣いた心にも偽りはない。
けれどもせめて、彼が同い年の子どもだったらどうなっていただろうかと考えた。
ただ、どうにもならなかったかもしれない。
たとえソンリェンと歳が近かかろうがソンリェンはソンリェンだし、トイはまともに家も持たない孤児で彼は由緒ある家の人間だ。
やはり相容れなかったはずだ、きっと友達にもなれなかったに違いない。
初めてハイデンが何かを考える素振りを見せた。
しかし唇が薄く開いたものの、結局直ぐに閉じられてしまった。
「なに?」
ハイデンはちらりとトイを見てから少しだけ目を伏せた。短い睫毛が迷い気に震える。
「教えてくれよ。今なんか言おうとしてただろ」
「……ソンリェン様は、とても、顔の造形が整っておられる方なので」
「うん」
「ソンリェン様が子どもの頃は、少女と見まごうほどで……」
それは想像できる。ソンリェンはとても人目を惹く容姿をしている。
子どもの頃もさぞ綺麗だったことだろう。
「そういう輩が多くて困りました、昔は」
「そういう輩、って?」
「……ソンリェン様の容姿に血迷った、不届き者です」
ハイデンの瞳に剣呑なものが混じった。トイは黙ってハイデンの言葉の続きを促した。
「ソンリェン様が7歳の頃、経験が浅く年若い教育係の青年が、血迷いました」
嫌な予感がして、シーツを握りしめる。そして予感は当たっていた。
「広い庭の奥の倉庫でした。かけつけた時には既に……遅くて」
何が遅かったのかについては想像に難くない。ハイデンの顔に滲む苦渋のようなものを見ていればわかる。
寄せられた眉に滲んでいるのは後悔だろうか、十中八九トイがソンリェンに受けていた仕打ちと同じことをソンリェンはされたのだろう。
ハイデンの言う、教育係の青年に。
「ソンリェン様は幼い頃より英才教育を受けておりまして、まともな友人と呼べる方もあまりおりませんで」
友達がいなかった、とソンリェンは言っていた。
「そんな時、若く、多少慣れ慣れしい教育係がソンリェン様をお世話することになったので……ソンリェン様も、その教育係にはそれなりにいい感情を抱いていたといいますか、懐いていましたね。二人でチェスなどをしている日も、ありました」
ソンリェンはもしかしたらその教育係を兄のように思っていたのかもしれない。
そんな人に、倉庫で。
ふと、ソンリェンの台詞を思い出した。深く考えずに口にする。
「ミサンガ」
ただ確信はあった。
「ミサンガ、ソンリェンその人に、あげた?」
ハイデンが初めて目を見開き、トイを見た。数秒閉ざされた唇が、ゆっくりと開かれる。
「なぜ、ご存知で」
──やっぱり。
「ソンリェン様から聞いたのですか」
「うん、ちょっと」
「そうですか……」
ハイデンは深く納得しているのか、何度か頷いた。
正確に言えばソンリェンはミサンガを作ったことがあるとは言っていたが、誰かにそれをあげたとは言っていなかった。
けれどもハイデンの話を聞いていると、なんとなくそうなのではないかと思ったのだ。
一度だけ、とソンリェンが限定していたということは、友人のような人物が幼少期にいたということだ。
それは、ハイデンの言う年若い教育係が相手だとしか思えなかった。
トイのミサンガを弾き飛ばしたソンリェンの顔は、今思えば蒼白にも見えた。トイに自慰するよう命じるなど異常なほどに機嫌が悪かったのも、これも理由の一つだったに違いない。
もちろん他の理由も、あっただろうけれど。
トイは手首で結ばれたミサンガを見つめた。
「……ソンリェン様は心に傷を負われました」
ソンリェンは懐いていた大人の人に、裏切られたのか。
何と言えばいいのか分からなかった。自業自得だと笑うことも、ふうんと興味なさげに受け流すこともできなかった。
だからといって、傷ついたであろうソンリェンのために涙を流すことも、今のトイにはできない。
ただ、あの人にもそういう過去があったのだと、噛みしめるだけだ。
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