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玉ねぎのスープと林檎とサンドイッチ──110.
「ご当主は、この件を表沙汰にはしませんでした。もちろん教育係は社会的に殺されましたが。ソンリェン様は家を継ぐお方です。家の名誉に傷がつきますので、このことを知っているのはご本人と、私と、当時から屋敷にいた一部の使用人のみです」
「じゃあなんでオレに、それを話そうとしたの」
ハイデンが飲み込んだ台詞を聞こうとしたのはトイだが、先にソンリェンの過去を話そうとしていたのはハイデンだ。
プライドの高いソンリェンのことだ。きっとそんな過去なんて、誰にも知られぬよう手を回していたに違いない。それなのにハイデンはトイにそれを話した。
ハイデンはソンリェンの言うことならなんでも聞き入れる男だろうに。
「オレから、同情を引くため?」
「──はい。その通りです。申し訳ございません」
正直な答えだ。なんとなくそういった返答が返ってくるのだろうとは思っていた。
「だからといって、ソンリェン様のこれまでの愚行を見逃してよかったわけではありませんが」
「うん、その通りだと思う」
自分がされたからと言って、それを他者の人権を踏みにじる理由にしてはいけない。
ただ理解はした。ソンリェンが、今の彼である所以を。
「悪いんだけどさ……オレ、ソンリェンに同情したり、できない」
「はい、承知しております。あの方が今のようになっている理由は、そういった過去だけが理由ではありませんから。そもそものあの方の性格といいますか、気質の問題でもあります」
「ハイデンさんは、それでいいの」
「私が、勝手にお話しただけです。あなたの今のお体の具合やお気持ちを考えれば、こんなことを話す私の方がどうかしております。人間として」
「……ほんと正直だね、ハイデンさんって」
ハイデンという男は、決して正しい人間というわけではないのだろう。
だが、不思議と不愉快にはならなかった。
「……怒らないのですか」
「なんでハイデンさんに怒んなきゃなんねえの。オレが怒る相手は、ソンリェンだ」
ハイデンはソンリェンに仕える使用人だ。それに、きっとソンリェンが一番重宝している人物だ。
「ハイデンさん、ソンリェンのこと大事なんだろ。小さい頃からあの人のこと見て来たんだよな」
話を聞く限り、彼はソンリェンが7歳の頃から傍にいる。そんな二人であれば、トイには理解しえない何かしらの関係があるはずだ。
トイだけは、怒りの矛先を間違えてはいけない。
「それがハイデンさんの本音なら、オレがとやかく言うことじゃ、ねえもん」
ああいう人に誠心誠意を持って仕えるのは正直どうかと思うけど、という言葉は飲み込んだ。
「それにさ、車の中でハイデンさん、ソンリェンに注意しようとしてくれてただろ」
ソンリェンに首を絞められてトイが苦しんでいる時に、ソンリェンを制止するために一声かけてくれたハイデンを思い出す。
「まだ、ありがとうって言ってなかったよね……あの時はありがとう」
一瞬だったし結局助けては貰えなかったけれど、彼がソンリェンを諫めようとしてくれたことは事実だ。
「……口先だけです。あの方を止めることはしませんでした」
「知ってる。でも、止めようとしてくれたことは事実だから……ありがとう」
本気で止めようと思っているのならば、どんな手を使ってでもソンリェンを止めようとしたはずだ。しかしハイデンはそうしなかった。
ソンリェンの行動をろくに制さず、従っているこの家の価値観はトイの理解の及ばぬ世界だ。
けれどもそんな世界の中で、一瞬であってもソンリェンを戒めようとしてくれたハイデンの行動は、とても大きなものだったのだと、思う。
「……あなたは」
そう呟いたきり、ハイデンは暫く黙った。
「あなたは、とても生きづらい人ですね」
ようやく口を開いたと思ったら、妙なことを言われて戸惑った。
「あなたは……ソンリェン様にはとても、勿体ない方ですね」
少しだけ柔らかくなった声色に何も言えずに、口を噤む。
「あなたが、幼い頃のソンリェン様の傍にいらしたら変わっていたかもしれません。ソンリェン様も、この屋敷も」
「それは、ないと思う。だってオレ、孤児だもん」
「いいえ。あの方が見知らぬ誰かを屋敷に連れてくるのは初めてのことです。大事そうに、あなたを抱え上げていました」
「……そりゃ、オレ動けなかった、し」
どうやったら変われる。
どうすればお前がわかる。
お前になら、犯されてもいい。
ソンリェンの真剣な瞳が脳裏にちらついた。彼の真っすぐな瞳から見えてしまった覚悟をトイは激しく拒んでしまった。受け入れることがあまりにも苦しくて。
「あなたは、トマトがお嫌いですか」
「え?」
唐突に変わった話題に目をぱちくりとさせる。ハイデンはスープの位置をトイの方へずらした。ちらりとカップの中を覗いてみると、ふんわりと香る湯気と胡椒の匂いが鼻をくすぐった。
手に持ちやすいようにか、底の深いカップのため野菜は沈んでいてトマトが入っているのかは判別ができない。
「ソンリェン様が厨房に、トマトは使うなと指示されていたので」
「なんのスープ、なの、これ」
「玉ねぎが入っています。そう指示されていました」
「……たまねぎ?」
「はい」
玉ねぎはトイが好きな野菜の一つだ。そしてトマトは、ハイデンに指摘された通り苦手な野菜だ。昔のことを思い出して気持ち悪くなってしまうのだ。
トマトのスープはロイズが好きで、よく床に這いつくばらされて舐めることを強要された。
あの光景をソンリェンは覚えていたのだろうか。いやそんなはずはない。
だってトイがされてきたことなんて8割方覚えてないと、彼は確かに言っていた。
「林檎のすりおろしも、ありますよ」
「りん、ご……?」
ハイデンが小さな皿をトイの目の前に持ってきた。
ふわりと鼻腔に林檎の甘酸っぱい香りが漂う。瑞々しく艶やかな黄色い林檎のすりおろしが、白く深い皿の中にこんもりと添えられていた。
「林檎は、お好きですか?」
トイは答えられなかった。ハイデンの言う通り、林檎はトイが一番好きな果物だった。爽やかな匂いと、しゃくっとした歯ごたえが好みだった。
ただ、トイがよく買いに行く場末の市場で売られている林檎は基本的にどれも酸っぱい。けれども焼けば多少は甘さが増すので、いつか焼かなくとも蜜のように甘い林檎を食べてみたいなと思っていた。
「起き上がれますか」
「……うん」
上半身に力を込めて、シーツに肘を付き起き上がろうとする。ハイデンが手を伸ばして支えようとしてきたので、そっとその手を拒んで自力で上体を起こす。
「大丈夫、自分で、起きれる」
くらりとしたのは一瞬で、あとは背もたれに身体を預けることもできた。
明日の午後、シスターが来る。シスターと一緒に育児院に戻れるように、それまでなんとか体力を回復させなければ。
せめて倒れずに歩けるようになりたい。だがそのためにはまず食事を腹に納めなければいけない。
視界の隅に飛び込んできた綺麗な皿に、小さな二切れのサンドイッチが用意されているのが見えた。あれ、と首を捻る。
「ハイデンさん」
「はい」
「その、サンドイッチって、ここで作ったやつ?」
「ええ」
ハイデンが皿をそっと持ち、トイの目の前に差し出してきた。まじまじと見つめる。ふわふわの卵とハムとレタス。そして薄くスライスされたアボカドが入っているようだった。
ソンリェンがトイの部屋を訪れるたびに、食えと無理矢理置いて行ったサンドイッチと同じだ。
「夕方、ソンリェン様が出かける際、これを用意するのが厨房の役目で」
たかがサンドイッチだが、されどサンドイッチだ。
毎度綺麗な紙で包まれていたそれは、この大きな屋敷の厨房で作らせていたのか。
トイがソンリェンが持ってきたものを食べるとは限らないのに。
「不器用、すぎて」
ハイデンが、かたりとサンドイッチが乗った皿を元の位置に戻した。
「どうしようもありませんね」
誰が、とはハイデンは言わなかった。トイも何も言わなかった。
ただ、綺麗に揃えられたサンドイッチを見つめるだけだ。
「これは、食べられたらで大丈夫です。まずは林檎にしましょうか」
「……うん」
そっと手渡された皿を手に持ち、みっともない体勢だが膝を曲げてその上に置いた。手渡されたスプーンでほろりととろけるそれを救い、口へと運ぶ。
ふわりと口内に広がる冷たさと蜜のような優しい甘さ。生を擦り下ろしたものだというのに酸っぱさよりも甘さが際立った。
喉を通るそれに、嘔吐感はこみ上げてはこなかった。
もう一口、二口と喉に流し込む。
「急いで食べてしまうと胃が痛くなってしまうかもしれませんので、ゆっくりと噛んで下さい」
「うん」
長い時間をかけてすりおろされた林檎を咀嚼している間、ハイデンはずっとトイの傍に居た。
時折トイが零してしまった汁を丁寧にふき取り、邪魔にならない程度でトイの食事を補助してくれた。
窓の外の雨はまだ、弱まる気配を見せない。
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