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玉ねぎのスープと林檎とサンドイッチ──111.
扉が開かれた。きい、と静かな音を立てて誰かが入ってくる。
ノックがないということはハイデンではない。それにそもそもここはソンリェンの自室だ、確認しなくとも誰だかはわかる。
今は深夜に差し掛かっている時間帯だろう。トイは目を開けることはせずにそのまま寝たふりを続けた。ある程度熱も下がり、ずっと横になって睡眠をとっていたせいで全く眠くならないのだ。
このままではいけないとベッドから起き上がり殺風景な部屋の中を壁伝いに2周ほど歩いてみたが、それでも睡魔はやってこない。
ただ3日ぶりの運動にも満たない運動に、身体は疲れた。
ソンリェンが近づいてくる。トイの顔を近くから覗き込んでいるのか、前髪に僅かばかり彼の吐息がかかった。
トイが起きていることに気が付いていないのだろうか、ぎしりとベッドが沈んだ。たぶん腰かけたのだろう。目を開けないまでも強い視線をひしひしと感じた。
「トイ」
何度か小さく名前を呼ばれたが、答えなかった。トイが寝ていることを確認しているようだ。
長い指が額に触れてきた。ぴくりと震えてしまったが、誤魔化すように唸りながら少し身動ぎをする。ソンリェンは指を離すことなく、手のひらを額にくっつけてきた。熱を測っているのかもしれない。
柔らかな触れ方だった。今ここで目を開けたとしても、どんな顔でソンリェンと向き合えばいいのかわからないのでじっと瞼を閉ざす。
暫くトイの額を抑えていた手が、するりと頬に降りてくる。
張り付いた髪ごと包み込まれるように手のひらを添えられ、ぎしりと一層ベッドが軋んだ。顔の横に手を置かれた。なんとなく何をされるのかは予想がついた。
唇に濡れた吐息がかかり、トイの瞼が開かれないことを再三確認しているのか数秒ばかりの躊躇の後、ソンリェンとの距離は一瞬でなくなった。
厚い唇に、唇をしっとりと包み込まれる。舌は差し込まれてこないのに触れ合っただけで吐息が吹き込まれ、なんとも言えない苦みがじわりと口内に滲んできた。
いつも以上に煙草の味が濃い。一体何本吸ったのか、ソンリェンは苛々している時に限って咥える煙草の本数が多くなる。
ということは彼は今機嫌があまりよくないのだ。なのに触れてくる手のひらも唇も、昔のような乱暴さはない。トイを起こさぬための慎重さがうかがえた。
ちゅ、と少だけ距離が空き、角度を変えてもう一度重ねられる。相変わらず舌は絡められないが、今度は先ほどよりも深い接触だった。
血の味がしたのはソンリェンの切れた唇の端に当たったからだろう。トイがカップを投げた時に出来てしまった傷だ。
名残惜し気に唇が離れていく。僅かに濡れた唇が空気に晒されて冷たい。
最後に髪を、またも柔らかな仕草で梳かれた後、指のぬくもりが髪の先へと消えていった。
ベッドが浮き上がる。ソンリェンが起ち上がったのだろう。やはり、トイを起こすつもりはないようだ。ソンリェンはトイに触れるために、トイが寝ている時をわざと見計らって部屋に来たのだ。
──彼は何度、こうして寝ているトイの唇を掠め取っていたのだろう。
ぐっと、胸の奥からこみ上げてくる感情は、トイの瞼を直に震わせた。目を開けるつもりはなかったのに、ソンリェンが今どういう顔をしているのかが無性に気になった。
そっと瞼を上げてみると、ソンリェンの背中が見えた。
彼がベッドから離れる前に口を開き、声をかける。
「ソンリェン」
ぴくりと、ソンリェンの肩が目に見えて狼狽した。まさか起きているとは思っていなかったらしい。
こわごわと肩越しに視線だけをトイに向けたソンリェンは、唇を強く引き結んでいた。部屋が暗いせいで表情はよく確認できないが、ばつの悪そうな顔をしているのは確かなようだ。
「寝てたんじゃ、ねえのかよ」
予想を裏付けるように、呟かれた声は苦々しいものだ。
「……寝たふり、してた」
トイは素直に事実を話した。しんとした部屋に時計の針の音だけが響き渡る。未だ雨が降り薄暗い闇の中であっても、窓から差し込む細い月明りのおかげでソンリェンの金色の髪はちらちらと光って見えた。
雨模様でなければもっと輝いていただろうに、なんとなく惜しいなと思った。
ソンリェンの髪は、その空色の瞳と相まって眩い太陽のようだ。
初めて彼を視界に入れた時は犯される恐怖で余裕がなかったが、慣れて来る内に純粋に綺麗だと思うようにもなっていた。
なかなか外を拝めず、狂いそうになる毎日の中で、彼の纏う色がトイの大好きな空を思い出させるものだったから。
「安心しろ」
ソンリェンは彼を騙したトイに悪態をつくことはなかったが、その代わりに妙な台詞を吐き捨てた。
安心しろとは何をだろうか。
「明け方、屋敷を出る」
「……どういう、意味?」
「そのままの意味だ。仕事があんだよ。帰ってくんのは明日の朝だ。だから、安心しろ」
トイはソンリェンの言いたいことが掴めずに眉を寄せた。しかし数秒考えて理解する。明日──いや、日付を越えているので今日の午後にはシスターが来る予定で、体調が戻ったら一緒に帰れと言われているのだ。
つまり、彼とまともに顔を合わせることはもうないのだと伝えたいのだろう。
お前に会わない、と言う約束に違わず、もうソンリェンから関係を強要されることもないのだろうという強い確信が、トイの中にはあった。
きっとこれが彼との最後の邂逅になる。だから、ソンリェンは安心しろと言ったのだ。
「そう」
「……ああ」
沈黙が広がった。ソンリェンはトイから背を向けたまま動こうとはしない。部屋から出て行く気配もない。
何かを言おうとして口を開いては、閉じるを繰り返している。トイと話せる話題を探しているのかもしれない。その姿に1年前の堂々たる面持ちはなく、トイは握りしめていた手を緩めた。
その背中に、不器用なのだというハイデンの言葉が見えた気がした。
「お前、食えたんだってな」
「なに、を?」
「夕飯」
そうだ、と思い出す。林檎の擦りおろしの他に、結局スープも全て飲み切ることができた。味の濃くない素材の味が強いスープはすんなりとトイの喉を取った。
サンドイッチも一枚だけ食べることができた。もっとも、スープに浸して柔らかくして口に突っ込んだようなものだったが。
「うん、少しだけ」
「そうか」
再び訪れた静けさ。しんとした空気感ではあるが、以前のような張り詰めたものとはどこか違っていた。
しとしとと雨音が部屋に響いているからだろうか、いやそうではない。
トイとソンリェンの関係が変わったからだ。
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