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繋がれた手──124.

「う、ぁああ……」  ずっと人間だと認めて貰いたかった。  シスターも子どもたちもトイを人間として扱ってくれていたけれど、トイを壊した人たちはずっとトイを玩具としか思っていなくて。  それなのに壊したトイのことなんてすっかり忘れて、何事もなかったかのように生きている。  それが悔しくて、憎くて、切なくて、哀しくて──痛くて。 「トイ……悪かった」 「あぁあ……ああ……ん、あっ……ぁ」  トイは鼻をすすりながら子どものように泣き喚いた。  もう顔をシーツに押し付けながら、一人声を殺して泣かなくてもいいんだ。だってソンリェンがいるから。そう思ったら尚更涙が止まらなくなった。  もう顔はぐちゃぐちゃだ。背中の傷痕を一つ一つ確かめるように撫でられあやされて、鼻水だって出てきた。 「うあぁあ、あああ……ぁ、あ ぁ…ああ」 「トイ、トイ……トイ」  それなのにソンリェンは、涙が溢れる瞼の上に、鼻の頭に、そしてソンリェンの流した血がこびり付いた額に、何度も何度も柔らかな唇を押し付けてきた。余計に涙腺が決壊する。  繰り返し呼ばれる名前は、まるでトイの存在を確認してくれているようだった。  人間のトイがここにいることを、ソンリェンが示してくれている。みっともない顔で泣き続けるトイを。  過去が消えたわけでも、心の傷が全て塞がったわけでもない。  けれどもトイは今のソンリェンの一言に、汚泥に塗れ重すぎた心が少しだけ軽くなった。それだけは、確かだった。  頭の後ろに大きな手のひらを差し込まれ肩に顔を押し付けられる。トイは抗うことなくソンリェンにしがみ付いて泣き叫んだ。 「う、ぁあん……! ぁああ……ァああああん」 「トイ……トイ」  望んでいたソンリェンの体温に、トイの存在を肯定して貰えた。いつのまにか嗅ぎ慣れてしまっていた煙草の匂いが鼻の奥にまで染みてきて、トイは押し上げられるがまま声が枯れるまで泣き続けた。  頬を伝う水滴が口に入る。  塩っぽいそれは、トイの喉奥を伝い身体の中に入って来た。  しょっぱいはずなのに、からからに乾いていた喉が潤された気がするのはなぜだろうか。  たぶん、独りぼっちで泣いているのではないからだ。  ここまで大きな声を上げて涙を流したのは、本当に久しぶりだった。  **** 「そんりぇん」 「どうした」  だいぶ大泣きしたせいで目が腫れぼったい。ぐずっと鼻を啜り、トイは未だに自分を抱きしめているソンリェンに身体を預けながら話しかけた。 「傷の……手当て、しねぇと」  流れ出る血の量はだいぶ治まったようだが、ぱっくりとナイフで裂かれた手の甲の傷はやはり見ていて痛々しい。  本来であれば今直ぐ消毒してガーゼで止血しなければいけないほどの怪我だ。 「こんぐらい、どうってことねえ」  そんなわけがない。ソンリェンの額には汗が滲んでいる。やせ我慢をしていることは明白だ。 「でも」  しかも一度だけではなく二回刺したのだ。貫通はしていないが力を込めて抉りもした。これは相当痛んでいるはずだ。 「お前は」  トイを抱き込みながら起き上がったソンリェンに、そっと顔を覗き込まれる。 「人のことばっかだな、いつも。お前だって殴られてんだろ……首の傷も」  言われて首をナイフで切られたことを思い出した。  ただ痛みは強くない。きっと薄皮一枚切られた程度だろう。血だって乾いている。 「オレのはすぐ、治るし」  ソンリェンの手が顔に伸びてきた。  産毛に触れるような仕草で頬を包まれる。そこに殴打痕が広がっているのだろう。  正直言うと、ソンリェンを含む彼らに殴られることなんて日常茶飯事だった上、機嫌の悪いソンリェンに比べてエミーの殴打はまだましな方だった。痛いことには痛いが耐えられるレベルではある。  ソンリェンはトイの考えていることを察したのか、それとも自分がかつてトイを殴っていたことを思い出しているのか眉を顰めてじっとトイの頬を見つめていた。  分りにくいが、彼のこれが後悔の滲む瞳というやつなのだろう。  そんなソンリェンの顔を見ていたくなくて、話題を逸らす。 「あの……エミーは、どうやって部屋に入って来たの」 「ん? ああ……表に使用人集めさせて裏から忍び込んだらしい。鍵は使用人がハイデンから奪ってエミーに渡した。窓割って入って来たんだよあいつ。レオ以下だな」 「ハイデン、守ろうとして、くれたんだよな」 「結局殴られて終わったけどな。アイツクソ真面目な癖に体術はからっきしなんだよ」  顔に痣を作り、かなり痛まし気な顔でエミーの家に仕える使用人たちに押さえつけられていたハイデンを思い出す。後でお礼を言わなければ。 「……オレがもっと気を付けてれば」 「今頃手当ても受けてるはずだ、心配してんじゃねえよ。それにお前のせいじゃない」  さらりと長くなった髪を耳にかけられ、こつんと額を合わせられた。  ここ2ヶ月よくソンリェンにやられるこの仕草。彼の瞳にトイの目が映るくらい、美しい顔が間近にある。 「なあ」 「ん?」 「ソンリェン、よくこうやって額、くっつけてくるよな」 「……ああ」 「なんで? なんか、意味とか、あんの」  ほんの数秒ソンリェンは押し黙り、静かに口を開いた。 「よく、見えるんだよ」 「なに、が」 「お前の目が」  じわりと、ソンリェンの独特の低音が吐息となり、トイの唇に熱を伝えてくる。 「──綺麗だ……」  そんなことを言いながら眩しそうに目を細めてくるものだから、トイは何と返せばいいのかわからず口を噤んでしまった。頬にじわりと熱が溜まる。 「お前を屋敷に閉じ込めてる間もずっと、そう思ってた。綺麗な夕暮れ、みてえだ」  移民の血が色濃く残るこの瞳。まるで血の色のようだと侮蔑されていた。 「気が付いたのは、随分後になってからだったがな」  自嘲気味に伏せられたソンリェンの目に長い睫毛の影が出来た。睫毛の先が、陽の光に反射してキラキラと光っている。 「……そっか」  綺麗な人に、綺麗だと言われた。  そんな言葉、育児院の皆以外誰も言ってはくれなかった。もちろんスラムで生きていた頃も。 「そっか……」  いつのまにか重い雲が四方に散らばり、ソンリェンの背後に広がる空がずっと眩しく見えた。ソンリェンの抜けるような金色の髪と、天高くまで透き通るような瞳にトイも目を細めた。 「ソンリェン、あのさ」 「ああ」 「して、ほしいことあるんだ」 「なんだ?」  短く息を吸い込む。少しばかり緊張した。 「キス、して」  ぴたりとソンリェンの動きが止まった。    

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