123 / 135
繋がれた手──123.
「トイ、言えよ」
ふるふると首を振る。身体中の水分を出し過ぎているせいで喉が渇く。口元に伝う涙を舐めてもしょっぱくて喉が焼けて、何も喋れない。あと一歩が、踏み出せない。
壊された心を必死に繋ぎ止めて、ここまで来た。
もしもまた、お前に飽きたと酷いことをされて捨てられたら。
トイをやっとトイとして見てくれた人に、お前は玩具だと突き放されてしまったら。
もうトイは、立ち上がれないから。
「言いたいこと言えよ」
ソンリェンが、そっとトイの強張る拳に手を重ねてきた。
「何言われても、もうお前を壊したりしない。傷つけたりもしねえよ」
ソンリェンの言葉一つ一つが心に染み込んでくる。
粉々に砕かれたものは戻らない。けれども優しい人たちに拾われて、必死で散らばってしまった心をかき集めて、なんとかこの1年で元の形になるようにくっ付けた。
それは痛々しく穢れ、今にも崩れてしまいそうな、ハリボテのような歪な心だったけれど。他人から見たらガラクタのようなものかもしれないけれど、毎日毎日頑張ってきたんだ。崩れないように。
「全部聞く──離さねえから」
もう、信じてもいいのだろうか。
こうして掴まれた手は本物なのだと。
「溜めてるもん全部、言えよ。あるんだろ、ずっとここに」
自分の心と、向き合ってもいいのだろうか。
「……言ってくれ」
心の内を叫んでもいいのだろうか。
汚いとバカにされないだろうか、知るかと冷たく突き放されたりしないだろうか。
もう手を、振り払われないだろうか。
「今更、なんなんだよ……」
いいのかな、言っても。
「そんな言葉で、今までのこと、なしになんか、なるかよ……!」
トイは声を振り絞った。握られた手ごとソンリェンの胸を叩く。どんと、拳にソンリェンの固い胸の振動が伝わってきた。生きている音だった。
「オレに酷いこといっぱい、してきたくせに……」
「ああ」
「殴られた、蹴られたの、に……!」
どん、どんと、叫びに合わせて叩く。ソンリェンは抵抗しなかった。1年前であればトイが触れた場所でさえ汚いと拒むのに、トイの成すがままに叩きつけられている。
「覚えてないんだろ!」
「ああ」
「トイのことなんて、人間だなんて思って、なかったくせに!!」
「……ああ」
「トイが! トイが、どれだけ……! 犯されたら、苦しいのに、痛いのに、こわい、のに……毎日、毎日……辛くて、こ、こわれて、ち、膣も、お尻もひ、ひろがって、切れて、おかしくなって!」
嗚咽の隙間から、声を絞り出して叫ぶ。
「あ、歩けなくて……嫌で、いやで、でも、足開けって言うから、逆らえば、逆らったらお……お仕置きだって、ひ、酷いこと、するし」
酷いことなんて生易しいものではなかった。あれは拷問だ。トイはずっと恐怖に苛まれてきた。垂らされた蝋燭、浴槽に押し付けられた顔、振るわれる鞭、爪を剥いでくるペンチ、挿し込まれる拡張具。
この小さな身一つに、次々と試される恐ろしい玩具、薬。
何度も何度も身体と心を抉られて、傷から溢れ出る鮮血に溺れそうになっていたのに。
「苦しかった、逃げたかった、お腹も、空いて……閉じ込められて、それなのに、毎日……毎日! アンタたちは!」
「ああ」
狂った青年たちに囲まれ外の世界と隔絶されて、だんだんと思考もぼうっとしてきて、トイがおかしいのかと思うこともあった。
トイのような孤児は彼らの玩具になるのが普通で、犯されたくないと懇願するトイの方がおかしいのかと。
「ソンリェンだって、トイのこと、バカにしてきたじゃねえかよ!」
殴られても蹴られても直ぐに気絶してしまう、吐いてしまう、いい子でいられない、満足に彼らに奉仕もできない。穴を好きなように皆に使ってもらうのがトイの役目なのに、怖くて痛くて苦しくて、彼らの欲求にきちんと応えられない自分の方がむしろ狂っているのではないかと。
ごめんなさいと、ただ暴力を振るわれないように謝り尽くすことしか出来なかった。
「好き、ならなんで、最初から、優しくっ……やさしくして、くれなかったんだよ! いまさら言われたって! そんな言葉、一つで……」
ソンリェンにはチャラになるわけないと自嘲気味に吐き捨てられたがその通りだ。そんな次元の話と一緒にしないでほしい。
忘れられるわけがない。一生トイはソンリェンに、彼らにされてきたことを背負っていく。
「すき、なら……なんでオレ、あんな目に……」
そしてそんなトイの絶叫を受け止めるということは、ソンリェンもトイの過去と、彼自身の過去を背負っていかなければならないということだ。
この男は本当に、わかっているのだろうか。
それがどれだけ大変なことなのか、わかっているのだろうか。
覚悟はあるのだろうか。
「玩具だって、黙って足開けって……」
「……悪かった」
「穴だって、言ってたくせに!」
「ああそうだ、悪かった」
「煙草だって、火、熱かったのに、痛かったのに……!」
「悪かった、二度としない」
「汚いって、トイの身体汚いって、触りたくないって、淫乱だって、いっつも、言……」
言ってたくせに。嗚咽を零しながらそう叫んでソンリェンの胸に突っ伏す。ぎゅうっと強く手のひらを握りしめられた。少しだけソンリェンの手が震えていた。
「好きで、喘いでたわけじゃ、ねえよ……」
「わかってる。悪かった」
いつもより低いトーンの声色。彼の口から淡々と零れているのはあまりにも簡単すぎる謝罪だ。けれどもそんなことしか言えないのだということも、トイは十二分に理解していた。
だってソンリェンの噛みしめられた唇からは血が滲み、小刻みに揺れる睫の下からは痛切に満ちた瞳が覗いているからだ。
今更どんな言葉で言い繕ったって、トイがソンリェンにされてきたことは消えない。
こうして遮ることなくトイの恨み言を一つ一つ頷いて聞いてやることが、彼なりの誠意の示し方なのかもしれない。
ソンリェンはたぶん、とても不器用な男だ。
「犯してやりたい……アンタを」
あの時はそんなこと出来ないと突っぱねたけれど、口に出して初めてトイはソンリェンへの怒りを自覚した。
「ソンリェンだけじゃねえよ……全員、同じ目に合わせてやりたい」
「ああ」
ソンリェンの手を振り払う勢いでどんと彼の胸を叩く。力を込めた、きっと痛むだろう。
「同じくらい……苦しめて、やりたい。憎い、アンタが死ぬほど──憎い」
「……ああ」
「赦せない、赦せない、よ……辛いよ、苦しいよ」
「ああ」
「トイは人間だ」
どんと、またぶつける。これまでの絶望をぶつけるように。
それでもソンリェンは手を離さなかった。
「ああ」
「ものじゃない、トイはソンリェンのものじゃ、ない」
「ああ」
「トイは、汚く、ない……!」
「ああ、わかってる」
「……豚じゃない、玩具じゃない、共有物じゃない」
「ああ」
「くだらないものじゃない、汚い穴じゃない……べ、べんきじゃ、ない!」
「ああ……ああ」
言葉にすればするほど悲痛な思いが溢れてくる。けれども叫ばずにはいられなかった。
ソンリェンが、どこまでも受け止めてくれるから。
「トイは、トイは……!!」
トイは最後に一度だけ、ぽすんと弱々しくソンリェンを叩いた。もう叩けない。ソンリェンの胸へ崩れ落ちる。
「──人間だ!」
「……ああ」
「人間、なんだよぉ……」
叫びながら突っ伏したトイを、ソンリェンは強くかき抱いてきた。
両手がトイの背と頭に回り、骨が軋むほどの勢いで抱きすくめられる。トイは体を丸めながら広い胸に顔を埋めた。涙で目が溶けてしまいそうだった。
「わかってる、わかってん、だ」
耳に囁かれた掠れた低い声が、柔らかな熱となって胸の奥へと広がっていく、沁み込んでいく。
ソンリェンの声が微かに震えていたのは、やはり聞き間違いではなかった。だってソンリェの身体も、細く震えているのだから。
「お前は……お前自身のもの、だ。わかってる」
雨で凍えた身体を温めるように身体を撫でられる。ソンリェンの手のひらの熱に張り詰めた心が溶かされていく。砕かれた心と心が、満ちるように繋がっていく。
「──お前は人間だ、トイ」
ああ──ああ。
それは、トイがずっと渇望していた言葉だった。
ともだちにシェアしよう!