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繋がれた手──122.
ばあん、と破裂音が響く。
それはソンリェンの頭部を撃ち抜くことはなく、彼の後ろにある窓ガラスを激しく叩き割った。
煙草の煙とは違う硝煙が暫く辺りを漂い、降り積もるように床へと落ちて行った。
「──それでも止めるんだもんな、お前は」
はあはあと、荒い息をつく。
ぶるぶると震える手でソンリェンの腕に飛び掛かり床に押さえつけていた。
一瞬の出来事だった。がちゃ、と砕け散ったガラスが風に揺れた。本当に弾が入っていた。歯の付け根が合わなくてガタガタと噛みしめる。激しい動悸も治まらない。
ソンリェンは本気だった。もしもトイが止めなければ今頃、頭を実弾に打ち抜かれて彼は血だまりの中に横たわっていただろう。
ソンリェンには、一切の躊躇がなかった。彼は決して赤の他人のために死ぬような男ではないのに。
ないはず、だったのに。
「んで……こんな真似!」
「お前に近づきてえんだよ」
お前が言ったからだろ、とソンリェンは言わなかった。
それが尚更トイの震えを大きくさせた。
「バ、バカじゃねえの、本当に死んじゃったら……冗談だったのに!」
「本気だっただろ、心の底では」
ひたりと見据えられて言葉に詰まる。
「……だからお前の前から消えることが、一番だと思ったんだよ」
ソンリェンの手のひらに背中を撫ぜられた。慈しむような手つきだった。
「それでも、止めるんだもんな、お前は……」
同じ言葉を独り言のように呟く男を茫然と見下ろす。トイのたった一言で、こんなにも簡単に命を投げだそうとした青年の奇行に首を振って後ずさる。
「そんなお前だから……俺は……」
これではエミーがあそこまで半狂乱になっていたのも頷ける。こんなのソンリェンじゃない。
──だけど、ソンリェンだ。
今トイの目の前で、行き場を失った子どものような顔をしている男もまた、ソンリェンなのだ。
「……銃がダメなら、爪剥がしてみせればいいか?」
トイの背を撫でていた手が、トイの右手まで移動してきた。親指をきゅっと包み込まれる。
「するぜ。お前が、望むなら」
エミーに剥がされた、その爪を。
ソンリェンの細く固そうな白い首筋がトイによく見えるように曝け出された。ソンリェンがトイに首を差し出したのか、それともトイが吸い寄せられてしまったのか。
引っ張り上げられた時であってもどうしても手放せなかったナイフを手に取り、ソンリェンの首にひたりと添える。
ソンリェンは彼の命を握る鈍色のナイフに視線を移すことはせず、トイに身を任せていた。
「よけ、ねえの」
言いながら、さらにナイフを近づける。
音もなくソンリェンの綺麗な首筋に赤い線が引かれ、ぷくりと赤が溢れた。皮膚を傷付けた感触はなかった。
このままもっと力を込めて横に引けば、ソンリェンの首からはさらに赤が滴り落ちるのだろう。そしてあっと言う間に、ソンリェンの呼吸は止まる。
「ああ」
「……このまま横に、引いても?」
「ああ」
力を込めれば込めるほど、ソンリェンの身体は無防備になった。ソンリェンはもう微動だにしない。
「切られても、いいのかよ。絶対痛いよ」
「お前ほどじゃ、ねえだろ」
「──っは」
間髪入れずに笑って見せようとしたが、口の端が痺れて無理だった。
ソンリェンの表情もいけない。いつもみたいにトイを愚かだと嘲笑ってくれればいいものを、あまりにも一途にトイだけを見上げてくるから。
まるで彼の中の世界に、トイしかいないみたいに。
手の震えが大きくなる。これでは狙いも定められない。
一歩間違えれば、本当にソンリェンの首を掻っ切ってしまいそうだ。
「……殺して、やりたい」
もう、ナイフすら持っていられなくなった。手のひらから力が抜けていく。
「殺してやりたいよ……」
「やれ」
トイの残酷な言葉にもソンリェンは怯まない。トイには出来ないだろうと高を括っているわけではないのだろう。
きっとトイが本当に彼の首にナイフを突き立てても、ソンリェンは最後まで抵抗せず、トイから視線も外さないはずだ。両手を広げて受け入れるかもしれない。
それは本当に、トイが望んでいることだろうか。ソンリェンの命を奪うことが、トイの──幸せ?
「お前には、その権利が、ある」
一言一言噛みしめるように囁かれ、完全に力が抜けた。
「そんりぇん」
からんと、ナイフが床に落ちた。自由になった両手でソンリェンの胸ぐらを掴む。綺麗な服が皺になるほどに強く。
「なんで、オレを壊そうとしたの」
「……んなの、お前が女とイチャついてんの見て腹立ったからだろ」
「なにそれ。嫉妬、したの?」
「そうだ」
そんなことわざわざ聞かなくとも、知っている。
「じゃあなんで、途中でやめたんだ」
「壊しても、意味ねえってわかったんだよ」
「なんで、いつもオレを抱きしめるの」
「……お前に触れたいから」
「なんで、なんでオレ以外どうでもいいの」
「お前が、一番だから」
ぽたりと涙がソンリェンの服に落ち黒い染みを作った。
「なんで、キスしてくるの」
「──かわいいから」
ぐっと唇を噛みしめても、それはとめどなくぽたぽたと零れていく。止まらない。
「誰よりも、お前がかわいいから。その顔も、目も、髪も、唇も、手も足も……お前を形作るもん、全部」
ソンリェンが透明な青を滲ませ、静かに瞼を閉じた。
「かわいくて、しょうがねえんだよ……」
その瞬間、ディアナの目を見るたびいつもソンリェンを思い出していた理由がわかった。ディアナに笑いかけられると心が温かく、そして切なくなった理由も。
簡単なことだった。そしてトイはその理由を初めから知っていた、ただ認めたくなかった。
これ以上傷つくのが恐くて、ソンリェンの言葉も遮って来た。
でももうここまで来たら、聞かずにはいられない。
エミーの言葉ではなく、ソンリェンの口から本当の言葉を聞きたいと強く思った。
「ソンリェン……オレのこと好きなの」
これまで流れるように答えていたソンリェンが、押し黙った。だがそれは返答に困っているというより、伝えたい言葉を探しているような素振りに見えた。
「好き、っつー言葉一つで、片付けられれば楽だな……」
ゆっくりとソンリェンの目が開かれる。
「──愛おしい」
好きの一言で片づけてくれれば、まだ耐えられたのに。
「お前の全部が愛おしくてたまんねえんだよ──トイ」
そんなことを言われてしまったら、もう耐えきれない。
血に濡れた指が近づいてきて、頬に添えられた。トイは避けなかった。
ソンリェンの指先が、零れるトイの涙を何度も拭う。
「優しくしてえんだ……ほとんど、できなかったけどな」
かわいいは、優しくしたい。
「少しでも、お前に関わりたかった。傍にいたかった」
優しくしたいは、一緒にいたい。
「お前をボロボロにしたくせに何言ってんだって、話だよな……けど止まんねえんだよ。お前が」
一緒にいたいは、かわいい。
そしてそれらの気持ちを全てひっくるめて、愛おしいという包み込むような感情に帰結する。
「お前が好きで、愛しくて、しょうがねえんだよ……」
『つまりそういうことだと思うのよ』
どういうことなのシスター。
オレにはまだ、わかんないよ。
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