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繋がれた手──121.

 ソンリェンはトイの肩を抱いたまま、扉の向こうが落ち着いたのを見計らいすっと銃を降ろした。  ソンリェンがかたりと床に手をついた途端、綺麗な顔が苦渋に歪められた。ソンリェンの手の甲から溢れる赤は白いバルコニーにとても目立ち、鮮やかだった。  トイが流してきた血を同じ色を、ソンリェンも流していた。 「トイ」  それなのにソンリェンが真っ先に気にしたのは、彼自身の怪我ではなくてトイの顔だ。 「お前、顔の傷」  言われて痛みを思い出した。そういえばエミーに力づくで殴られたんだった。 「待ってろ」 「──ソンリェン」  立ち上がろうとしたソンリェンの腕を掴む。  ソンリェンは目を見張ったまま、すぐにトイの手を握り返してきた。  ぎゅうと両手で包み込むようにして目の前に再び座りこんでくる。  ソンリェンと、目線がしっかりと合った。 「……どうした」  行動だけでなく、心配を含ませた声までもがやけに神妙だ。  ソンリェンはこの一連の動きに何かしらの意味を見出しているのかもしれない。  トイの手を振り払うことなく、握りしめるということに。 「なんで、ここにいるの。仕事、じゃなかったの」  ソンリェンの前髪からぽたりと汗が落ちた。トイを引き上げた時の汗だけではない。 「……エミーが予定変更して今日戻って来るって情報が入ったんだよ。だから急いで帰ってみれば」  屋敷に戻るまで全力疾走でもしていたのだろうか。いつも怠そうに歩いているソンリェンが走るなんて想像できないが、きっと走ってくれたのだと思う。  落ちていくトイの名を叫んだソンリェンの声は、今までにないくらい切羽詰まったものだった。 「……よく、オレの手、掴めたね」 「あ? ああ、ミサンガが」 「ミサンガ?」 「……一瞬、本当に一瞬引っ掛けた。直ぐに、千切れたがな」  そういえばと、はらはらと散っていったミサンガを思い出した。あれはトイの代わりに落ちたのか。  ソンリェンが難しい顔をしているのはディアナから貰ったそれを手放しに褒めるのは納得がいかないからか、それともミサンガをもう一度引き千切ってしまったことに対するバツの悪さか。  一度壊れたものは二度と直らない。  けれども再び結び直されたミサンガのお陰で、トイはソンリェンに引っ張り上げられることになった。  望んだ死の代わりに、生を与えられてしまった。 「ソンリェン」 「なんだ」 「子豚の話って、知ってる?」 「……あ?」 「子豚は夜中に外に出て、悪い闇の住人に攫われるんだ。闇の王様の食糧にって」  唐突な話題の転換にソンリェンは困惑げな顔をしつつも、トイの言葉を遮ることはなかった。 「子豚は、機転を利かして牢から逃げ出すんだ。そんで、最後は自分を食べようとした闇の王様を許して、仲良くなって、一緒に楽しくスープを飲んで──それで終わり」  ソンリェンの、手を握りしめてくる力が強く、重くなった。  彼の白い手の甲から新たな血が溢れる。もう驚くほどに血塗れだ。あの日壊されたトイみたいに。 「自分を殺そうとした闇の王様とさ、友達に、なれんだぜ。勇気ある子豚は……」  子豚は自分の命を投げ出すことなく最後まで立ち向かおうとした。その行動が物語の希望に繋がった。けれどもこれはあくまで絵本の物語で、現実とは程遠い。 「オレにはできねえよ」  ぽつりと囁く。ソンリェンに向かって発した言葉だったのに、それはトイの中に染み込んでいった。  トイは確かに豚の真似もさせられていたが、この話に登場する勇敢な子豚のようにはなれない。  出来ない、仲良く手を取って、楽しく踊ることなんて。 「友達にもなれない。こんな風に、助けられたって」  ましてや。 「ソンリェンを好きにも、なれないよ」 「わかってる」  どこまでも波立たない声に、トイは唇を噛み締めた。 「ソンリェンにされたこと、忘れられないよ……ずっとずっと、憎むよ」 「わかってる」 「責めるよ」 「わかってる──わかってる」  下がっていた目線を強制的に上げさせられた。顎を捕らえられたわけでもない、あまりにも真摯なソンリェンの声色に顔を上げざるを得なかったのだ。 「それでも、いい」  その台詞を聞くのは二度目だ。  つい先ほど、エミーに見せたものと全く同じ表情をソンリェンはしていた。  知ったような顔で、苦いもの全てを飲み込もうとしている表情に腹が立った。首を振る。 「わかってない、わかってねえよ」  ソンリェンは頑なにトイの手を離そうとはしなかった。だからトイもソンリェンから手を抜き取るのは諦めた。  赤の飛び散った白い床に視線を落とす。 「ソンリェンには、わかんねえよ。オレが、オレがどれだけ……苦しかったかなんて」  ソンリェンはトイじゃない。トイの苦しみを理解できるわけがない。 「オレがどれだけ……今だって」  感情を伝えようとすれば叩き折られて、いつしか彼らの前で苦痛を訴えることすら止めた。  トイは自ら人形になっていた。反応すらも返さない玩具になってしまったから飽きられたのだ。 「わかんないだろ? ソンリェンにわかるはずなんか、ねえもん」  抵抗すらも諦めてしまいたくなるほどの苦痛を。  トイは聖人じゃない、ただの弱い子どもだ。だから怒るという選択肢を選べない。  叫んだ所で誰にも通じないのならば、感情を爆発させた所でとんだ無駄足だからだ。  一人ぼっちのトイは、時間と共に傷が癒えるのを待つしかなかった。押し込めて押し込めて、子どもたちの前で必死に笑顔を作ることしか出来なかった。  気持ちを封じ込めることでしか自分を保てなかった。  残酷な過去を、死に物狂いで心の奥に閉じ込めるしかなかった。  それなのにソンリェンが現れるから。  トイを傷を掘り返してくるから。  玩具ではなく、人間として扱おうとしてくるから。 「どうやったらわかる」  そんな、ソンリェンらしからぬ声でトイを憂いたりするから。 「どうやったら、お前がわかる」  畳み掛けてくる台詞は耳に覚えがあった。どうしてそこまでしてトイを知りたいと望むのか。 「……知るかよ」  かつてソンリェンに言われた言葉をそのまま返しても、気持ちが晴れることはない。 「お前の気持ちを、知れる。どうやったら、お前と同じ目線になる。何をすれば、お前は救われる」  昨日は俺を犯せとバカげたことを言われたが、これはこれでバカげている。  次は何を言われるのだろう。聞く気すら起きなくて、なんとなく思ったことを吐き捨てて苦く笑う。 「さあ……自殺でも、してみればいいんじゃねえの」  冗談のつもりだった。  だがソンリェンの手の温もりが消えて、かちりと乾いた音が聞こえてきて思わず顔を上げた。  エミーの銃を、ソンリェンがこめかみに押し付けていた。  世界が止まったかのような、ゆったりとした時が流れた。  綺麗な青と目が合う。ソンリェンは引き金に指をかけ、迷いなくぐっと引いた。  至近距離にある瞳はどこまでも澄んでいて、トイが見たかった青そのものだった。

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