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繋がれた手──120.

 ソンリェンが片足を折り曲げ座り込み、みっともなく咳き込んでいるのは初めて見た。  額には玉のような汗が滲んでいる。煙草を吸い、罵詈雑言と悪態をつくためだけに開かれていた唇からは荒い呼吸しか零れていない。  息が木枯らしのようにか細いのは煙草を吸い過ぎている弊害だろうか。  トイはソンリェンにきつく抱き締められながら、ぼうっと耳元で繰り返される激しい呼吸を聞いていた。 「ソンリェン」  ソンリェンにまず声をかけたのは、ぺたりと座り込んでいたエミーだった。  観葉植物が植えられたプランターが倒れ土が散らばっている。ソンリェンに押し退けられでもしたのだろう。  飛び降りる直前何かが倒れた音が聞こえたが、エミーだったのか。 「そこまで、する? そこまで、すんの?」  エミーの声は、語尾だけではなく言葉全部が震えていた。  銃は、ソンリェンの側に転がっている。 「嘘だろ?」  へらりとエミーが頬を歪ませたが、ソンリェンは答える代わりにトイをさらに抱きしめてきた。彼に染み付いている苦い煙草の匂いが濃くなる。  エミーの腕に囚われていた時よりも、心が落ち着いた。 「なんで? 俺の気持ち、知ってたんだろ」  断定的な台詞だった。それもそうか、あれほど執拗にじゃれつかれていれば。  それでもソンリェンはまとわりつくエミーを軽くいなすだけに留めていたのだから、エミーのことは嫌いではなかったはずだ。  きっとソンリェンにとって、エミーは友達だった。 「ずっと一緒にいたじゃん、そいつよりも俺のほうがさあ。なのになんで、こんな玩具……!」  エミーの目からぽろりと涙が落ちた。エミーは喜怒哀楽が激しいが、彼が本当に泣いたところは見たことがなかった。それほどまでにソンリェンの行動に悲しみを覚えているのかもしれない。  無関心を貫かれる苦しみをトイは知っている。それこそ、エミーよりも。 「俺の方が、ソンリェンのこと好きなのに、昔からずっと……!」 「エミー」  ぽそりと耳元で囁かれたソンリェンの声はとても冷たくて。 「お前は仲間だった。だがそれ以上でもそれ以下でもねえよ。お前の気持ちに応える気なんざ微塵もねえ」  ソンリェンの感情が、エミーには一切向けられていないことは声だけでも明白だった。 「散々言ってんだろうが、同性は趣味じゃねえンだよ」 「その玩具だって!」 「トイは別だ。お前のことを抱きたいとも、抱かれたいと思ったこともねえよ。これからも思わねえ」  きっぱりとエミーを否定したソンリェンの片腕が、ゆっくりと床に伸びた。 「契約書、ね……しかもご丁寧にしっかり紋章付きの用意しやがって。バカげてんな、これさえ用意すりゃ俺が諦めるとでも本気で思ってたのか」  落ちていた一枚の紙をソンリェンは手に取った。雨に濡れて滲んでいる。 「あ……あたり、前じゃん。家同士の契約だよ、それに逆らったら……」  びりり、と鈍い音がエミーの台詞を遮った。ソンリェンが契約書を破いたのだ。呆けるエミーに見せつけるようにびりびりと細切れにしていく。  元よりトイのサインなど書いていなかったので効力を発揮することはないだろうが、他でもないエミーの前でそれを破くという行為が、彼らにとっての決別を意味しているのだろう。 「な……」  ソンリェンが紙くずを宙に放った。風に乗ってバルコニーに散らばり、そして残りは塀の外へと舞い上がっていった。エミーは床に手をついたまま飛んでいくそれらを目だけで追っていた。 「聞け、二度とトイには手出しすんな」  かたりと、ソンリェンが床に落ちていた別のものを掴み、掲げ、エミーに向けた。 「前にも言ったよな、トイを傷つけたら殺すってよ」  じゃき、と黒光りする銃口にエミーは聊か狼狽したようだった。 「……はは、ソンリェンバカだよ……契約書破いた上に、俺にそんなの向けたら家断絶するよ」 「したけりゃしろよ、クソが」  ソンリェンが低い声で唸った。 「てめえこそトイに銃向けただろうが。クソ親父は隠居、今の主人は俺だ。綺麗さっぱり切ってやる」  長年関係を持つ家同士の断絶なんて軽々しく行えるものではないはずだ。それなのにソンリェンは、まるでなんてことないように銃の引き金に指をかけて見せる。  ソンリェンの本気を見せつけられたエミーはソンリェンを睨みつけた。しかしそこにトイを組み敷いた時の覇気は感じられない。 「家なんざどうでもいいんだよ……」 「は……なにそれ、ソンリェンだって、この玩具のこと散々傷つけてきたじゃん」  エミーの声に嘲笑が混じる。ぐっと、トイの肩を抱く手に力が込められる。 「あのさあ、そいつ言ってたよ。ソンリェンのことだけは絶対好きにならないって。這いつくばって土下座されたって無理だって。ああ、ソンリェンのこと好きな俺を趣味悪いとかも言ってたし……ソンリェンさ、玩具ごときにコケにされてるよ? 死ぬほど嫌われてて可哀想……それでも、その玩具がいいの」  ソンリェンはとても自尊心が高い男だ。だからエミーはそれを煽ったのだ。 「撤回しろ、トイは玩具じゃねえ」  ソンリェンの表情が、少しだけ変わった。 「はっ、嫌われてる? 今更何言ってんだ──そんなのわかってんだよ」  ただそれは、トイや、ましてやエミーに対する怒りに満ちたものではなかった。むしろ程遠い。細められたソンリェンの眦が、切な気に揺れた。 「……それでもいい」  空気に溶けてしまいそうなソンリェンのか細い一言に、エミーがかろうじて浮かべていた笑みを消した。  トイも、ソンリェンの顔から目が離せなくなった。 「それでも、いいんだ……」  もう一度、ソンリェンは同じ言葉を吐いた。エミーが唇を噛みしめて黙り込んだ。  それが合図だった。 「──おい、お前ら」  銃の狙いはエミーの頭から外さず、ソンリェンは振り切るように部屋の中に向かって大声を張り上げた。開かれた扉の外では、数人の男たちがどうしたものかとたたらを踏んでいる。 「人ん家でよくも大暴れしてくれたな。大事なご主人様が殺されてもいいならそこにいろ。そうじゃねえならさっさと連れて帰れ。脅しじゃねえぞ? 明日の新聞が楽しみだな」  エミーの使用人らしき男数人が地面に押さえ込んでいた人物を解放し、部屋へと足を踏み入れてきた。激しく咳き込んで床に転がりながら突っ伏したのはハイデンだ。どうやら拘束されていたらしい。  遠い場所からハイデンと目が合い、トイの姿を見たハイデンが眦を下げて破顔した。世間一般に言うほどの破顔とまでは行かないだろうが、彼にとってあれは安堵の表情なのだろう。  鼻血が溢れ、殴られた痕の残る頬に相当争っていたことが伺える。他の使用人の姿もあったが、どれも同じような様子だった。  そうか、ハイデンはエミーを招き入れたわけではなかったのか──そうか。 「エミー様、今日のところは、これで」 「……なに? 今日のところは、じゃないよ。あーあ、もう」  使用人から伸ばされた手を振り払い、エミーがゆっくりと立ち上がった。  ぱん、と土のついたズボンを払い、ソンリェンには一切目を合わせず背を向けため息と共に吐き捨てた。 「なんなんだよ、バカらし……」  最後に見えた横顔は沈痛に満ちたもので、エミーの広い背中が小さく見えた。  消沈した様子でふらりと歩き始めたエミーが、使用人を引き連れて部屋を後にした。  ハイデンはちらりと此方を見たが、ソンリェンの目を見てから小さく頷き、静かに扉を閉めた。  外ではまだ何やら揉めているようだが、それも直ぐに消えた。  今までの喧噪が嘘のように、ソンリェンの部屋の中も、バルコニーも静まり返ってしまった。

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