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繋がれた手──119.
支えを失い、重力に従って落下するはずだった身体がぶらりとふりこのように垂れた。
右腕が、いや右手首が激しく痛み、軋む。
ぎりぎりと肩から引き千切られるのではと思ってしまうくらいに。
はらりと何かが視界の隅に落ちていった。キラリと光ったのはもしかしたらミサンガだったのかもしれない。
確認しようとは思わなかった、それ以上に目を疑う光景がそこにはあったから。
見上げた先にソンリェンがいた。
トイが、最後の最後に思い浮かべたその人が。
「……そんりぇん」
「バカが! 手ぇ伸ばせ!」
腕が痛むはずだ。
トイはそれなりに幅のある突き出したバルコニーから身体全てがはみ出るほど落下している途中で、ソンリェンはかなり身を乗り出してトイの腕を掴んでいた。手すりに膝を引っ掛けてなんとか体勢を保っている状態だ。
小降りになったとは言え雨のせいもあり、滑る。側から見るとかなりみっともない格好になっているだろう。
手を伸ばせと怒鳴られた理由もわかった。トイの身体が軽いとは言えこれほどの状態では何かしらの策を取らないと共に落ちてしまう。トイが、自ら登ろうとでもしない限り。
けれども、そんなことをするつもりはなかった。
強張っていた身体から力を抜き、下がりつつある足に体重を預ける。
ソンリェンが表情を強張らせた。
「離せよ」
「……、クソが!」
ソンリェンのクソが、を久々に聞いた。
手を伸ばさない、よじ登るために力も込めないトイに、ソンリェンがもう片足でバルコニーを乗り越えようとして体勢を崩して、慌てて堪える。
ソンリェンはトイのことをバカだと言ったが、ソンリェンこそ本気でバカだ。
助かる気力もない人間を、必死に救おうとしているなんて。
「手、離してよ」
「いいから、伸ばせ!」
「やだ」
「トイ、この……!!」
「もういやだ」
はっとソンリェンが目を見開いた。
落とすことなくもう片方の手に持っていたナイフをトイが翳したからだ。
突き刺そうと狙っているのは、他でもなくトイの手首を掴むソンリェンの手の甲だ。
「もう、いやなんだ」
「……トイ」
「もう……疲れた。いいよ、もう」
「死にたいのか」
「……離せよ」
「刺す気か?」
体勢が体勢だというのに、ソンリェンの声は落ち着いていた。
「──うん」
トイの返事を聞いても、顔色一つも変えなかった。
「……いいぜ、刺せよ」
ソンリェンの額に滲んだ汗がぽたりと垂れてきた。ソンリェンの瞳は真っ直ぐだった、昨日と同じように。
ベッドの上で組み敷き見下ろしていたソンリェンの瞳を今は見上げている。
壊された日、路地裏に捨てられた。
あの瞬間もこんな風に、降りしきる雨と暗い空を見上げていた。やっとあそこに、飛んでいけるんだと歓喜した。
そんな消えかけたトイの命を見つけたのはシスターだ。そして今は、ソンリェンだ。
でももう、いい。もう疲れた。
「離さねぇから」
雲の隙間が広がり、頭上を覆う空の青とソンリェンの瞳が被った。
トイから視線を逸らすまいと目を見開いているソンリェンに、は、と失笑が漏れる。
「嘘つき」
迷いは微塵もなかった。
手を振り翳し、エミーにされた時のようにえぐり取る勢いでソンリェンの手の甲を刺す。
さくりと嫌な音がして、ぽたりと血が垂れてもトイの手を掴む力は一切緩まなかった。
引き抜いてもう一度刺し込み、肉の感触を確かめながらぐりっとナイフを斜めに動かす。
ぼたぼたと真っ赤な血液が顔に降り掛かってきた。ソンリェンが低く唸り、一瞬手の力が緩んだ。
ほっと安堵して、そのまま手を振り払おうとしたが瞬時にまた捕らえられた。
しかもどうしてか、先ほどよりも強い力で。
なんで、と。囁いた声は言葉にはならなかった。
「ばぁ、か」
彼の口元は激痛のために震えているというのに、トイを安心させるためにかソンリェンがぐっと口角を釣り上げた。
それにトイの手首を掴む手のひらは、微塵たりとも震えていない。
「……泣いてんじゃねえよ」
「……離せってば」
「断る」
「離せって、言ってるだろ!」
「もう離さねえっつったろ!」
「なんで! オレのことなんてどうでもいいくせに!」
ソンリェンに手を振り払われたことは二度あった。
一度目は初めて輪姦された日。そして二度目は壊された日。
どちらも救いを求めて縋り付いても瞬時に振り払われたのに、どうして今はトイが必死に振り払おうとしても離してくれないんだ。
ソンリェンはずるい。
トイがしてほしいことは何もしてくれなくないくせに、してほしくないことばかり、する。
笑ってもくれないくせに、そうやって真っ直ぐにトイを見つめてくる。
「オレが、死のうが生きようが、関係ねえじゃん……!」
トイのことを生きる価値のない玩具だと、殺してやりたいとさえ口にしていたのに。
その度にトイは、深く傷付いていたというのに。
「ソンリェンには、関係ねえじゃんか!」
「何が関係ねえ、だ!」
ソンリェンがもう片方の膝をバルコニーにかけた。がくんと身体が崩れる。
力いっぱい引き寄せられるが手すりには届かない。
ソンリェンのもう片方の腕もトイの手首に絡まってきた。絡まってしまった。
トイはもう彼の手の甲を刺せなかった。ソンリェンから降りかかってくる血の量があまりにも多くて焦点が定まらない。
いや違う、トイの目が滲んでいるのか。
「お前の命は、俺の」
もンなんだよ、と。いつもなら続いていたはずだ。トイもそれを望んでいた。そう言ってくれれば、最後の力を振り絞ってソンリェンの手を振り解けたのに。
だというのにソンリェンの唇は痛みではなく歪み、やがて明確な意思を持って震えながら開かれた。
開かれて、しまった。
「大事な、もンなんだよ」
──目を開ければ血が垂れてくる。
トイは堪えきれず目を閉じた。ソンリェンの金色の髪が重い雲の隙間から差し込む太陽の光に照らされて、あまりにも眩しかった。
「大事、なんだよ……トイ」
何も見えないはずなのに、ソンリェンの強い眼差しが瞼の裏に透けて見えた気がした。
聴覚だけが敏感になってしまったせいで、ソンリェンの低い声も耳朶によく響いた。
震える空気を一つ吸い、吐く。
「トイ……お前が、大事だ、誰よりも──なに、よりも」
自分の命よりも。
声無きソンリェンの叫びが、ぽつりと雨と共に頬に浸透してきた。
ぽつりぽつりと、口に滲んでくる空の雫と鉄臭さと、しょっぱさ。
トイの涙か汗か、それともソンリェンか。二人分か。
「だから……だから、頼む」
『こんな汚れ切った身体じゃ誰もてめえなんて助けねえよ』
かつてそんな言葉でトイを蔑み、トイをどうでもいいものと切り捨てたはずの男が、今必死になってトイを助けようとしている。
「頼む……!」
トイが死んだら、舌打ちの一つや二つで済ましてほしいのに。
ソンリェンはあまりにも、変わってしまった。
「そんなに、オレの具合よかった、の……?」
目を開き、あえて傷付けるための言葉を吐き捨てたのは最後の意地だった。
そして狙い通りソンリェンの顔は凍った。
噛みしめられた厚い唇に彼の吹き荒れる痛恨を感じて、トイの方が苦しくなった。
「違え、よ」
嘲笑しようとして、失敗したような顔。
そんなひしゃげた表情をしているくせに、ソンリェンの手の力は緩まなかった。
それこそが、彼の答えなのだろう。
「嘘、つき、そんりぇんの、ばか。どうせ今だけなんだろ……」
トイはもう、辛うじて残っていた意地すらもソンリェンにぶつけられなくなってしまった。
その上しゃくりあげているせいで、まともに相手に声が届いているかどうかも怪しい。
「どうせまた、捨て、るんだ……トイのこと」
ソンリェンは今まで以上に引き上げる腕に力を込めてきた。その分赤い液体も流れる。
不思議だ。こんなにも血が出ているというのに、傷も深そうなのに、ソンリェンはトイの手を絶対に離してくれないという絶望にも似た確信が胸の奥で広がってくる。
打ち捨てられたあの時は、死が希望だった。
けれどもこの瞬間、絶望にも似た確信が、トイの希望になってしまった。
それは生きると、いうことだ。
「何度も、言ってんだろうが……捨てねえよ」
トイの声は、ソンリェンに届いていた。さらに視界が震える。
「わかんねえ、じゃん」
「それは助かってから判断、しろ」
苦しそうに声を絞り出している癖に、傲慢さだけは本当に変わらない。
ソンリェンはソンリェンのまま、変わってしまった。
「トイ、手え伸ばせ。そろそろヤバい……からな」
その言葉通り、いよいよソンリェンの語尾も震えてきた。そろそろ腕も脚も限界なはずだ。
「じゃねえと俺も、落ちるぞ。二人そろって死ぬか」
それなのに、トイが一人で落ちるという選択肢は与えて貰えない。
「くそ……細いくせに重いんだよ、お前……重いんだよ」
眩しそうに目を細められ、そんなことを言われてしまったら。
「諦め、ろ。離さねえからな……絶対」
そんな潰れた声で、この手を離さないと明言されてしまったら。
「トイ、頼む」
そしてそれが嘘ではなく、本当なのだと見せつけられてしまったら。
「トイ──頼むから……」
こんな風に懇願されてしまったら。
そんなのもう、諦めるしかないじゃないか。
トイは、ソンリェンの血に濡れた手を掴み返した。
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