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繋がれた手──118.
通りでエミーが焦りを見せなかったわけだ。死に物狂いで奪ったナイフで応戦しようとしていたトイの反撃はそこで止まってしまった。
だが、次にどうするかの判断も早かった。
扉へ向かえば撃たれる。ならば後ろへ向かうしかない。どうせそこへ逃げ込んでもどうすることもできやしないとエミーは思ってるだろうから。
背を向け、窓の鍵を開けてバルコニーに飛び込む。
「くるな!」
振り向いてナイフを翳す。降りかかる雨粒のせいで視界が濁る。
エミーがせせら笑う代わりに銃をくいと振った。
「エミーの分際ね、ほんと言うようになった……ほら戻っておいで、ナイフと銃じゃ結果も見えてる。それぐらいはわかるだろ? 穴風情でもさ」
エミーが舌なめずりをした。
トイを捕まえたあとどう鬱憤を晴らすか想像でもしているのだろう。
「しょーがないね、ここで書かせるのは諦めた。はやく俺の屋敷に行くよ。ほらおいで」
片手に持っている契約書をエミーがぺらりと振った。このまま捕まったら強制的に連れて行かれる。そしてたぶん、ソンリェンが助けにきてくれない限り二度と日の目は拝めない。エミーに連れていかれたら最後、契約書に無理矢理サインさせられ、トイは玩具以下のサンドバッグにされる。
そうなったとしても、ソンリェンは助けに来るだろうか。
いや流石にエミーには逆らわないだろう、しかも契約書なんてものを作られたら特に。
彼らの中には見えない階級がある。ロイズ、エミー、ソンリェン、レオの順番だ。あの屋敷でも好き勝手していたのは主に上位の2人だった。
「オレに近づいたら、ここから飛び降りる」
「この高さだと普通に死んじゃうよ? 結構高いからね」
「アンタに……また誰かに玩具にされるぐらいだったらそれでいい」
「そんなこと言って1年以上もしぶとく自殺しなかったじゃん。大丈夫殺しはしないから」
口先だけだ、エミーの所有物になった時点でトイの死は確定する。
近づいてくるエミーから離れるようにバルコニーの取手を掴み壁に足をかけた。
そこまで高くはない。簡単に壁の上に登れる。
「力のない孤児は最後は自分の命をかけるぐらいしかできないもんなあ、大した命でもないくせに。調子に乗ってるからこうなるんだよ、弱いよね」
「違う」
ぐっと腕に力を入れた。
エミーは忘れてる、トイはあの凄惨な場所から二度脱走を試みたのだ。しかも一度目は窓から。
もしもあの屋敷がソンリェンの屋敷と同じくらいの高さであったとしても、トイは飛び降りたはずだ。
「プライド、だ」
エミーが意味がわからないとでもいうように眉を顰めた。
きっとトイの言ってることなんて、彼には理解できないだろう。
「これはオレの、プライドなんだよ」
命をかけたプライドだ。
自分で自分を苦しめるのは仕方のないことだけれど、誰かを守るためでもなく意味なく他人に傷つけられることだけは耐えられない。
自ら死を選ぶことは、逃げなのだろうか。
ソンリェンをトイの大好きな水辺へ連れて行った時も、水の中に落ちかけた際に逃げるなと激昂された。あの時は育児院の存在を盾に取られていたから死を選ぶはずもなかった。
けれども今は違う。
ソンリェンは育児院には手を出さない、しかもトイを解放しても支援を行うと言ってくれた。
きっとあの言葉は、嘘じゃない。
それだけは信じてみてもいいんじゃないだろうか。
「わかんないよな。エミーには」
いや、そう思うこと自体が逃げなのか。
でももう、トイは頑張ったと思う。
「アンタらには一生、わかんないんだろうね」
搾取される側の気持ちなんて。
廃れた泥にまみれた小汚い水辺に座り込み、日がな穏やかな世界を眺めて心安らぐトイの気持ちなんて。
ロイズにも、エミーにも、レオにも。そして──ソンリェンにも。
「トイは……人間だ……」
最後まで人間でありたいと望む、トイの気持ちなんて。
「人間、なんだよ」
わかるはずがない。
もう疲れた。眠れぬ夜に汗だくになって飛び起きるのも。忘れたい記憶に息が出来なくなるのも。
足をかけて欄干に飛び乗る。雨のせいでつるりと滑った。
座ったことで下がよく見えた。硬いタイルが敷き詰められた舗装された道。あまりの高さにくらりと目を細める。けれどもバルコニーに戻ろうとは思わなかった。
「ちょ」
初めてエミーの声が焦りに染まった。まさか本当に飛び降りようとするとは思わなかったらしい。
いつでも行けるように両手を広げる。
トイはこの瞬間初めて自覚した。本当はずっと、こうしたかったのかもしれないと。
『どうせ直ぐに壊されてまた捨てられちゃうよ』
エミーの言葉が脳裏に響く。
わかってるそんなの、どうせ今だけだ。ソンリェンはいつかまたトイに、飽きる。
窓を慌てて開ける音がする。何かが倒れるような音も。
足音がトイの背後へ駆けつけてくる前に脚を宙に浮かせ空を仰ぐ。
重い雲から覗いた晴間が見えた。
降り注ぐ雨の雫。瞬間的に脳裏を過ぎったのは育児院の子供たちの笑顔でもシスターの微笑みでも、ましてや友達の瞳でもなく。
彼女と同じ色をした、あの鋭くて青い目で──。
「トイ!」
幻聴かと、思った。
耳に飛び込んで来た思いもがけぬ声に驚いたのと、勢いをつけて手すりから身体を離したのは、ほぼ同時だった。
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