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繋がれた手──126.
「お前じゃなきゃ、ダメなんだよ……トイ」
ぽすんと、ソンリェンの頭が肩に乗せられる。
「そん、りぇん……」
「……そんなに言うんだったらさっさとデカくなれ、俺ぐらい」
「え?」
「お前細すぎんだよ。ヤッてる時に抱き潰しそうでこええ」
「ヤッ……って、そんりぇん」
ソンリェンは、もうトイには触れないという彼自身がしていた約束をもう忘れたのだろうか。
呆れたように眉を下げて見せればソンリェンが顔を上げ、多少堂々とした面持ちで鼻を鳴らした。
とんとんと会話を繰り返すことで、どうやらいつもの傲慢さが戻って来たらしい。
でもその方が、ソンリェンらしくて、いい。安心する。
「ソン、リェン」
「ああ」
するりと、ソンリェンの厚い唇をなぞる。濡れていた。かしりと白い歯でやわく指を噛まれる。
「傍に、いてくれんの……オレの」
「──いさせてくれ」
瞬時に返された懇願めいた台詞に胸の奥が高鳴った。ソンリェンに手を捉えられ、ちゅと指の先に口付けられる。柔らかくてあたたかくて、散々泣いたというのにまた泣きたくなった。
トイの指から愛しさを伝えてくる青年を見つめながら、トイはほうと息を吐いた。もうずっと、トイはソンリェンという存在に見惚れていた。
いつからだろう。たぶん、前から。
どうしても認めたくなかっただけだ。認めてしまえばソンリェンに再び捨てられることに耐えられなくなるから。
でももう、怯えなくても、いい。
ソンリェンはきっとトイの手を離さない。側にいてくれる。
「そんりぇん」
「ああ」
「あのな、オレも、な。ずっとな」
「ああ、なんだ」
ソンリェンは律儀に、トイの言葉一つ一つに相槌を返してくれた。
今まではどんな台詞すらも叩き落とされて無視されていたのに。それが、とても嬉しくて。
「ソンリェンの目、綺麗だなって思ってたんだ──空の青、みたいで」
ぼうっと目の前にある綺麗な青を眺めていると、青の輪郭がぼやけた。抱きすくめられ、首筋にソンリェンのさらさらした頭を押し付けられる。
トイが愛しくてたまらないというような仕草に身体中の痛みが溶けていく。
トイは圧し掛かってきた頭に頬を擦り合わせた。お返しとばかりに首筋に鼻をくっつけられ、すり、と擦り付けられた。くすぐったさに唇が緩む。
なんだかソンリェン、犬みたいだ。
「ソンリェン、なんか犬みたい……」
「誰が犬だ」
「な、ソンリェン……」
「……ん」
「煙草、やめたら」
視線だけをトイに向けたソンリェンは、繋がらない話の流れに眉を顰めていた。はたから見れば機嫌が悪くなったように見える表情でも、トイにはそれがただの困惑であるとわかっていた。
彼は怒ったり苛立ったりする時以外でも眉間に深く皺を刻みっぱなしで仏頂面が常だが、その実内面に様々な感情を抱いている男であるということはこの2ヶ月の間でよくわかった。
「煙草って、体に悪いんだってさ」
「だろうな」
「そんなに吸ってたら早死にしちゃうし……するたびに苦えの、オレやだよ」
ソンリェンは一瞬考える素振りを見せてから顔を固まらせ、ぱっと顔を上げてトイの言葉をしっかりと咀嚼した。
本気で驚いたというようなその表情がゆっくりと真顔に戻り、ソンリェンは神妙かつ大真面目に一つ頷いた。
「……善処、する」
その台詞と表情があまりにもおかしくて、トイは思わず吹き出してしまった。
流石にこれは抑えられない。声を上げ、肩を震わせて笑い始めたトイにソンリェンは目を白黒させた。
「あ……はは、あはっ」
「トイ」
「ご、ごめっ……笑っちゃ、あ、はは」
直ぐに笑うのを止めようとしても一度ツボに入ってしまったものはなかなか難しい。慌てて口を抑えようとしたがソンリェンにやんわりと手を引き剥がされ顔を覗かれた。
そしてトイの笑いは一瞬で驚きへと変わった。
ソンリェンの切れ長の瞳と眉が下がり、眦がしっとりと緩んでいた。
静やかに深まった口の端はいつものような歪な形をしているわけではなかった。自然と溢れてしまった笑みがそこにはあった。
満面の笑みとまではいかないだろうが、ソンリェンの滅多に拝めない微笑はトイの驚きと笑みを深めるには十分だった。
「ソンリェン、笑ってんの……?」
「あ?」
やはり無意識だったようで、薄い笑みは直ぐに元に戻ってしまった。子どものように頬に手を当てて自分の顔を確認しようとしているソンリェンの様子にさらにむずむずとした感動が広がってくる。
「笑った顔、初めてみた」
なまじ恐ろしいほど整った顔をしているだけに、思わず見惚れてしまうような笑みだった。
エミーがソンリェンに袖にされてあそこまで落ち込んでいた理由が今ならわかる。
ソンリェンは未だに、微笑んだらしい自分を自覚できていないようだ。
「笑ったのか、俺は」
「うん、すっげえかわいかった」
トイは素直に答えた。ソンリェンは面食らったようにトイを見た。
やっとソンリェンの笑った顔に、出会えた。
「ソンリェン、笑うとかわいいんだな」
ソンリェンが女性的な賛美を送られることを極度に嫌っていることは知っていたが、偽りのない本心を隠すことはしなかった。
だってディアナの笑顔を見た時以上に心臓が高鳴って、それでいて温もりに心が満ちてくるのだ。ソンリェンは思ってることは言えと言った。だったらこんな想い抑えていられるわけがない。
ソンリェンは目を綻ばせたトイを暫く見つめていたが、僅かに赤らんだ耳を隠すように唇を尖らせた。
「……何言ってんだ」
相変わらずの悪態は治らないらしいけど、耳元に落とされた声に冷たさはない。それどころか掠れて熱っぽくて、柔らかい。
トイの頭上を漂う、白いわた雲みたいだ。
自分は壊れてしまったのだと思っていた。
だって、壊されたから。
でも、優しい人たちに拾われたから。優しさに触れたから。
壊れた体を戻すことができるのかもしれないと、思っていたのに。
やっぱり壊れた人形は、いつまでたってもガラクタのままだった。
だけど、そんな砕け散ったトイの心をかき集めてくれたから。
手を、離さないでいてくれたから。
大事な命だと言ってくれたから、かわいいと言ってくれたから。
優しくしたいと、傍にいたいと言ってくれたから。
トイを人間だって認めてくれたから。
愛おしいと言ってくれたから。
崩れた心に、まだ痛みは残るけど。
憎しみも、悲しみも消えたわけじゃないけれど。
一緒に抱えて、歩いてほしいと思ったんだ。
あの窓もない薄暗い部屋ではなく、広く優しい空の下で。
「あ……ソンリェン」
ソンリェンに抱きしめられながら空を見上げる。
「雨、上がったよ」
「ああ……上がったな」
いつのまにか雲の隙間から覗いていた晴れ間は空全体へと広がり、穏やかな日差しが白いバルコニーに反射してキラキラと光っていた。
「キレイだね……」
ようやく空が戻った。
トイの大好きな、突き抜けるような青空へと。
*次回から最終章に入ります。
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