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トイの青空(終章)──127.
閉まり切っていなかった扉の前で立ち止まり、暫く中の様子を伺う。
シスターの耳にトイの笑い声が飛び込んできた。
こんなトイの笑い声は初めて聞いた。育児院で子どもたちのために気を使って強く弾けさせた笑い声でもなく、思わず出てしまったというような心の底からの純粋な笑い声だ。
トイの屈託のない笑みが、声を通して脳裏に浮かんでくる。
シスターは踵を返し、未だに空を突き抜けるような笑い声が響く部屋の前から静かに立ち去った。
長い階段を降りる。使用人の一人にどうぞ此方へ、と促され一階の客間へと向かったが、目当ての人物はいなかった。
未だにごたついている他の使用人に居場所を聞き、別室へと連れて行って貰う。
ノックをしてから部屋に入れば、ハイデンが自分で自分の身体を治療している所だった。他の使用人は、どうやら対応に追われているらしい。
「客間にご案内をと、他の使用人に伝えていたのですが」
ハイデンは僅かに驚いた顔でシスターの来訪を迎えた。
「ええ、通して頂きました。私が貴方を探しに来ただけです」
「そうですか」
客人の前で治療している姿を晒すことをハイデンは良しとしないらしく、椅子から立ち上がって突然の訪問者を迎え入れる準備をし始めた。
「ハイデンさん、お立ちにならないでください」
「そういうわけには」
シスターは動こうとするハイデンをやんわりと制し、傷の手当をさせてほしいと願い出る。もちろん断られたが、シスターは元々強引にことを運ぶところがある。
自分よりも背の高い男性を椅子に座らせ手を洗い、傍に用意されてあった治療道具の中身を確かめる。
「あの、シスター」
「お礼を、したいのです」
シスターは小さくため息をついた。
「お礼ですか」
そこに混じる複雑な感情に気が付いたのか、ハイデンは大人しく椅子に腰を降ろした。
「ええ。トイのことを守ろうとしてくださって有難うございました」
「……こんな状態で、お恥ずかしい限りです」
ハイデンはまさに満身創痍という出で立ちだった。頬は殴られた痕が目立ち、鬱血している。
怪我の度合いは他の使用人たちよりも激しい。まだ大きな腫れはないが、そのうちもっと酷いことになるだろう。腕の方は赤らんでいて、打撲痕が浮き出ている。骨は折れていないようだ。
「でも貴女が来たのが後でよかったです。巻き込まれなくて」
「ええ、私もそう思います。タイミングがよかった」
シスターが屋敷に連れてこられた時には全てが終わっていた。
かつてトイをいたぶっていたソンリェンの仲間がトイを襲いに来て、ソンリェンがトイを守ったらしい。
シスターは説明を受けた後、危ないからと迎えに来てくれた使用人の一人に車の中で留まるように言われ様子を見ていたが、彼女が見たのは癖のある茶髪の年若い青年が子どものように泣きながら、数人の屈強な男を引き連れて車に乗り込もうとしている姿だった。
あの青年から命がけでトイを庇ったとは聞いていたが、どこまで本当かはわからない。
ただ、数日前ここを訪れた時までは綺麗だった廊下やカーペットに血が散っていたり汚れていたりと、ばたばたと慌ただしい屋敷全体に相当のことがあったのだろうということは察しがついた。
そしてハイデンの身体の傷。
扉の向こうから聞こえてきたトイの泣き声と、笑い声。
扉の隙間から見えた光景は、ある程度予想していたものだった。
ソンリェンとトイは、抱き合っていた。
「……あの方はトイを大切にしてくれるのでしょうか」
ハイデンの腕に薬を塗りガーゼを当て、包帯を巻きながらシスターは苦く笑った。
「ソンリェン様ですか」
「それ以外に誰がいます」
ついついキツい口調になってしまう。
権威も地位も無い女に手当をされても嫌な顔一つせず丁寧な態度を崩さない辺り、ハイデンが根は真面目な男であるということはわかったが、手放しに信じきることは出来ない。
もちろん、彼が仕えるソンリェンも。
「ソンリェン様は、あの子のことが好きなようです」
そんなことは知っている。あの男の態度を見ていればわかる。
「ソンリェン様はなかなかに性格が歪んでおりますが、あの子のことは今度こそ大切にしたいと思っているはずです。シスター」
トイはソンリェンに抱きしめられても嫌がる素振りさえ見せていなかった。それどころか安心しきった顔でソンリェンの腕の中でまどろんでいるようにも見えた。
彼らが互いに貪るようなキスをしていた所なんて、見なければよかった。
「……私はもうシスターではありません。とっくの昔に教会を去りました。けれども、皆にシスターと呼ばせています」
唐突に語り始めたシスターに、ハイデンは真剣な様子で耳を傾けてきた。
子どもたちの笑顔を思い出す。彼らはとても純粋で真っ直ぐて、愛おしい子どもたちだ。
「教会は、スラム街や金を持たない孤児には厳しい。だから私は育児院を作りました。なんの力もありませんけれども、少しでも子どもたちを救いたくて」
元々、外で駆け回ることが大好きな性格だった。
家がクリスチャンホームだったので幼い頃から教会に慣れ親しみ、15を過ぎてからシスターになる道を選んだのも自然だった。
しかし教会の在り様に一度疑問を抱いてしまえばもうそこにはいられなかった。引き留める声を振り払ったのはもう10年以上も前だ。
厳粛かつ敬虔なクリスチャンであった両親とは、もう何年も会っていない。
「教会からの庇護も受けられない存在だと、あの子たちには思わせたくなかった。だから私のことはシスターと、呼ばせています」
将来成長した時に、親はいなかったけれどもシスターに育てられたんだと皆が言えるように。出来ればその時の彼らが、笑顔であるように。
「そうでしたか」
「ええ。でも驕りでした」
未熟な自分が、子どもたちを救おうだなんて驕りもいい所だ。
「……トイは、笑っていました。ソンリェンさんに抱きしめられながら」
ずっと、トイが苦しんでいることにも気が付けなかった。
あの男のことだ、どうせ逆らえば育児院をどうにかするとトイを脅していたのだろう。トイはもちろん、シスターを安心させるためにそんなことないよと言うのだろうが。
「トイが求めているのは、あの方なんでしょうね」
ハイデンの腕に包帯を巻き終える。
「正直に言えば、あんな方にトイを任せたくはありません。でも、トイがどうしたいかが一番だとも、思っているんです」
「……あの子に、聞いてみてください。シスター」
顔を上げる。ハイデンの眦が僅かに緩んでいた。
殴られて皮膚が皺になっているわけではないだろう。
「もう今は、あの子の望む通りにソンリェン様は動くはずです」
「そうでしょうか……いえ、そうです、ね」
ハイデンの言葉を噛みしめて、頷く。シスターはトイの笑顔を思い出してそっと拳を握りしめた。
トイの話を聞いてから決めようと思っていた。けれども聞くまでもないのかもしれない。トイが望んでいるのは、あの男なのだから。
「動かなければ喝を入れるまでですしね。あの時は殴りませんでしたけど」
「喝、ですか?」
「あら……」
手を握りしめたことで、シスターは自身の手の状態にやっと気付いた。
こんな傷だらけの手のままでトイと会うことは出来ない。
「あの、ハイデンさん申し訳ありません、この塗り薬少々頂けますか?」
「あ、どうぞ……あの、シスター」
「はい?」
「その傷は……?」
「ああ、先ほども申し上げましたが、タイミングがよかったんです」
そう、タイミングがよかった。もしもトイが目の前にいればきっと全力で止められていたはずだ。ハイデンの視線の先で、手の甲についた傷に薬を塗り込めていく。
とは言ってもハイデンと話している時は痛みさえ忘れていたのだから、シスターもだいぶ興奮していたようだ。やはり自分はまだまだ未熟者だ。
「ええと」
顔を上げて、困惑気に眉を顰めたハイデンに言い切る。
「申し訳ありません、ソンリェンさんの名を使ってしまいましたので、後始末はお願い致しますね」
「……は?」
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