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トイの青空(終章)──128.

 **** 「シスター!」 「トイ……!」  トイの顔を見た途端、顔をくしゃりと歪ませ駆け寄ってきたシスターにトイの方から抱き着く。シスターはトイの頭を撫でながらトイを強く抱き締め返してくれた。  柔らかなシスターの匂いにトイはほっと身体の力を抜いた。 「もう歩けるの?」 「うん、だいぶ」  本当の所、この部屋まで歩いて来ただけでも身体は精一杯だったのだが、彼女の顔を見た途端身体の不調など全て吹き飛んでしまった。  ただ、シスターに会えたことが嬉しかった。 「話を聞いたわ、怖い思いをしたのね……」 「だいじょうぶだって」  するりとシスターの柔らかな指に頬を撫でられて目を瞑る。が、ずきんと痛んだ頬に唇の端が震えてしまい、シスターが渋い顔をした。 「トイ……貴方顔が」  トイの青あざが出来た頬を撫でながら、トイの後ろに控えるソンリェンを鋭く睨みつけたシスターに慌てて手を振る。  シスターに早く会いたくてまともな手当をして貰う前に駆け出してしまったが、こんな顔をさせるくらいならガーゼでも張ってくればよかった。 「違う! 違うよ、ソンリェンにやられたんじゃねえんだ」 「本当に?」 「うん、ソンリェンはオレのこと……守ってくれたんだぜ」  じっと見つめてくるシスターに、トイはもう一度本当だよと強く頷いた。  シスターの目の強張りが少しだけ解けた。よかった、信じて貰えたようだ。 「トイ」  痛む頬からそっと指が離れ、頭を撫でられる。いつもの優しい仕草にほうっと目を細める。 「今日はね、貴方を無理矢理でも連れて帰ろうと思っていたのだけれど」  シスターは、トイと目線が合うように屈んでくれた。 「トイは、どうしたい?」  そうだ、シスターはこういう人だ。必ずトイの意見を聞いてくれる。自分の意見を無理矢理トイに押し付けることはしない。  トイをこうして一人の人間として見てくれたのは、シスターが初めてだった。だからトイは、愛情に溢れるシスターのことが大好きだった。 「トイがどうしたいかに、任せるわ」  シスターの真っ直ぐな瞳に、トイは目を逸らすことなく頷いた。 「──オレ、もうちょっとだけここに、いるよ」  心は決まった。とはいっても、決めたのはほんのついさっきだけれど。 「まだ、身体もふらふらだからみんなに迷惑かけるし……それにソンリェンの手な、オレが怪我させちゃったんだ。だから、看病しなきゃ」 「……詳しいことはわからないけれど、きっと自業自得なんだから貴方が気にすることじゃないのよ?」  手厳しいシスターの言葉に苦く笑う。  背後で壁に寄りかかったソンリェンがシスターの一言に苛立ちを覚えた気がしたが、彼が怒鳴り散らすことはなかった。  トイが刺したのはソンリェンの利き腕だった。止血を終えた今でも涼しい顔をしているが、やはりかなり痛むらしい。ずっと腕組みをしているのがその証拠だ。  ソンリェンはプライドが高いので弱っている所を他人に見せようとはしない。でも暫くはペンを握ることも出来ないはずだ。 「ううん。オレ、決めたんだ」  ずっと目を逸らし続けていたもう一つの道に、足を進めることを。 「……正直に言うとね、このまま攫っちゃおうかと思っていたの」 「……うん」 「でもトイがそういうなら、わかったわ」 「シスター……」  シスターには、トイの過去を知られている。  実際にシスターがソンリェンとどのような会話をしたのかはわからないが、彼女のソンリェンに対する強い口調からはソンリェンに対する敵意というものが感じられた。  ソンリェンが言ったように、包み隠さず本当のことをシスターに話したのだろう。  あの時はなんで勝手に言うんだと怒りに打ち震えたが、ソンリェンがトイを苦しめるためにシスターに話したわけではないということだけは、トイにはもうわかっていた。 「あの、オレ」  それ以上言葉が続かなくて言い淀み、カーペットに視線を落とす。  過去を隠していたことでシスターを傷付けてしまったはずだ。だが、謝るのも違う気がする。  シスターはそんなこときっと望んでいない。誰よりもトイのことを考えてくれる人だから。 「あのね、トイ。大好きよ」  優しく、力強い声に目線を上げる。 「何があっても、私は貴方が、大好きよ」  シスターの目はとても澄んでいた。  ただひたむきな愛情と共に、トイにいつも通りの好意を伝えてくれた。  トイの懐いた、シスターの姿だ。 「うん、オレも……シスター、だいすき。大好きだよ」  本当はもっと話したいこともあった。けれどもシスターのこの一言で何も言わなくても大丈夫だと確信できた。  ぽすんとシスターの肩に頭を預ける。シスターはきっと全て、わかってくれている。 「シスター、オレを助けてくれて、ありがとう」  シスターがトイを見つけてくれたから、トイは今ここに居られる。生きている。  なに言ってるの、と泣き笑いの顔になったシスターに愛おし気に頬ずりをされる。トイも思わず鼻の奥が痛くなった。 「トイ、一つだけ確認したいことがあるの」 「うん、なに?」 「この傷、エミーって人にやられたのよね」 「──へ?」  じっとトイの頬を見つめるシスターの口から飛び出してきた名前に心臓が跳ねた。トイは扉の前に佇み此方を見ているハイデンに視線を移す。  きちんと怪我の手当てを受けたらしいハイデンは、硬い表情で唇を引き結んでいた。 「さっきここに来て暴れた人は、過去に貴方に、酷いことをした人なのよね」  すっと柔らかな目を細めたシスターに、トイはぎこちなく頷いた。 「う、うん。そう、その人」 「そう、よかったわ……間違ってなかったのね」  ひやりとした後半のシスターの声色になんとなく嫌な予感がしてもう一度ハイデンを見る。  ハイデンの表情は変わらない。あの硬い表情は、もしかしなくとも困惑している顔なのだろうか。 「……あ、あの、シスター」 「なにかしら」  恐る恐る、シスターに問いかける。 「……やり返さなくて、いいからな?」  ふと、シスターの口元が緩んだ。  いつもの優し気な笑みにトイは一瞬安堵したのだが。 「ごめんなさいねトイ。もう遅いの」 「へ」  シスターがトイから手を離し、きゅっと手のひらを握って見せた。  よく見ると、彼女の手の甲、特に拳の骨ばった部分が赤らんでいた。まるで何かにぶつけてしまったような痣にも見えた。いや十中八九、そうだろう。 「シスター、その手の、傷……」 「ああ、男の人の肌って硬いのよね」  さっと青ざめる。きっと今のトイは、ハイデンと同じ表情をしているに違いない。 「丁度出ていくところを見かけちゃったから、つい」 「つい?」 「……拳で」 「こ、拳で殴っちゃったのか?」  恐る恐る問えば、シスターは困ったように眦を下げた。 「ちょっとだけなのよ? せいぜい鼻を折るくらいで……」 「は、はなをおるくらい」  茫然と呟く。 「本当に、それだけ?」 「ええと……」  シスターは固まったトイからちらり視線を外し、言いにくそうに答えた。恥じらうような可憐な仕草と、シスターの言動が一致していない。 「……ごめんなさい、実は前歯も」 「折っちゃったのか!?」 「あのでも、ソンリェンさんのお名前をお借りしたから大丈夫よ」  トイに心配をかけぬようにか、ぱちりと片目を瞑ったシスターに力が抜ける。  何が大丈夫なのかわからないが、シスターがトイに嘘を言うはずがないので彼女は本当にエミーたちを叩きのめしてしまったらしい。  トイが危惧していた通りになってしまった。 「──オイ、どういうことだ」  それまで沈黙を貫いていたソンリェンが、流石に会話に混じって来た。  トイは振り向き、若干引き攣った顔をしているソンリェンに口をまごつかせた。 「あの、その」 「ソンリェンさん申し訳ございません、あのエミーという方と残りの使用人の方の鼻と前歯と……たぶん奥歯も折ってしまいました。貴方に指示されたという名目で」 「……あ?」 「苦情が来たらよろしくお願いします」  本当に申し訳ないと思っているのか甚だ怪しい声色で、シスターが丁寧にソンリェンに頭を下げた。  腕組みをしながら壁に寄りかかっていたソンリェンの眉間の皺が増える。  トイは慌てて弁明をした。 「ご、ごめんソンリェン! あのな、シスターってすっげえ強いんだ。前に育児院に忍び込んだ泥棒を素手で叩きのめしたこともあって」 「……泥棒?」 「そう、男の泥棒4人」 「よ……にん」 「だから、あの、その、でも」  あまりの早業にトイならず他の子どもたちも呆気にとられたものだ。男たちは全員屈強で、しかもナイフを持っていたのだが、シスターは流れるような手刀と足技を繰り出し4人の男たちを一瞬で地面に転がし縄で縛って突き出してしまった。  この華奢な身体のどこにそんな力があるのかと目を疑うくらいだった。シスターには他にも沢山の武勇伝がある。

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