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トイの青空(終章)──129.
「……ハイデン」
低い声で唸ったソンリェンは、部下に説明を求めた。
「事実ですソンリェン様。先ほど確認致しましたが……どうやら鼻と前歯と奥歯だけではなかったようです」
「あら」
シスターは鈴のような声で口を抑え驚いたが、これは絶対に確信犯だ。シスターがあと彼らのどこを攻撃したのかについては、あまり考えたくはなかった。
女手一つで育児院を切り盛りしている彼女は、とても強い。
シスターは普段はとても優しく、滅多ことでは怒らない女性だが、育児院の子どもたちに危害が及ぶと判断すれば誰が相手であっても容赦をしない。
もちろん、今回はソンリェンがバックに付いていると判断したからこそ、確認を取らずにエミーたちをボコボコにしたのだろうが。
「シスター」
「なあに?」
「あの、なんで? ソンリェンのことは、殴んなかったって……」
そうだ。シスターはソンリェンのことは殴らなかった。ソンリェンがそう言っていた。だからシスターがエミーに手を出すこともないと思っていたのだけれど。
「あのエミーって人は、殴られたほうが痛そうだったの」
「……どういうこと?」
「大丈夫よ、トイ。あの人たち最後にソンリェンさんの名前を出したら結局やり返してこなかったから心配しないで。それにふらふらの状態だったけどきちんと車で帰っていったわ」
「えーと」
先ほどから微動だにしないソンリェンに、トイも不安になってくる。
「ソンリェン、あの……大丈夫、かな」
「大丈夫ですよね、ソンリェンさん。問題は、一つも、ありませんよね? 大丈夫ですよね?」
笑顔を湛えたまま畳みかけてきたシスターに、ソンリェンはゆっくりと頷いた。
その動きは硬いままだが。
「……ああ」
トイは、今ソンリェンがシスターと対峙した際、彼女の鋭い視線に何度か気圧されていたことを思い出していることなど露も知らない。
「よかった。ハイデンさん、体術ならシスターに習えばいいよ」
「……そのようですね」
深く頷いたハイデンも、ソンリェンと同じくらい硬い。
「では、私は帰りますね。くれぐれもトイのことをよろしくお願い致します。ソンリェンさん」
口元は笑っているが、もしもトイになにかあれば前歯の数本は覚悟しておいてください、という目だった。
トイは、ソンリェンが真顔のまま唾を飲み込んだことに気が付いた。やっぱりシスターは凄い。
「あ、トイ。でもね、来週の頭までには、一度育児院に来てほしいの」
「え……なんかあんの?」
シスターが困ったような笑みを浮かべた。
「……あの子が自分から話すって言って聞かなかったから、黙ってたんだけど」
トイはこの時ようやく、もう一つどうにかしなければいけなかった問題を思い出した。
****
「とい」
「トイだー!」
「みんなー! 久しぶり」
トイの姿を見つけた途端、駆け寄ってくる子どもたちを抱きしめる。
「トイ、どうして、なんで、いなかったの?」
「ごめんな、ちょっと体調悪くなっちゃって休んでたんだ」
泣き出しそうな顔をくしゃりと歪ませて、結局泣き出してしまったアンナが首にしがみ付いてきたので、そのまま抱き上げて小さな背を撫でてやる。
「トイ、もういなくならない?」
「おう! 帰って来たぜ。心配かけちゃってごめんなメアリー」
「ふーんだ、そんな心配してなかったもん!」
「はは」
とは言いつつメアリーの目尻も赤い。くいと袖を引っ張って来たのはトニーだ。
少し茫然とした顔でトイを見上げているのは暫く顔を見せなかったトイが突然現れたことに驚いているのかもしれない。
アンナを抱きしめながらよしよしとトニーの頭を撫でると、徐々にその丸っこい頬が震え、ぼたぼたと大粒の涙が流れ始めた。
「と、い」
「トニー、ごめんな。ずっと来られなくて」
「う~……」
トイの脚に顔を埋めて、ぐずぐずと鼻を鳴らし始めたトニー。
ここに来られなかったのは1週間だ。その間ずっとトイが来るのを待ってくれていたのかと思うと、トイも思わず涙腺が緩んでしまう。
一人ずつ抱きしめて宥め終えてから、アンナが悲しそうな顔でトイの服を引っ張った。
「トイ、ディアナがね、いなくなっちゃうのよ」
「……うん、聞いたよ」
だから、間に合うように今朝急いで育児院を訪れたのだ。
「トイ……」
「ディアナ」
唯一の友達を顔を合わせるのも、一週間以上ぶりだった。
「よかった、間に合って」
完全に体力も回復し歩けるようにもなったのだが、如何せんソンリェンの屋敷にずっといたため、外を歩くことに未だ慣れていない。ゆっくりと地面を踏みしめながらディアナの傍へ駆け寄る。
二歩ほど離れた距離で顔を見合わせる。互いに言いたいことはあるのに押し黙ってしまう。
ディアナにソンリェンとの、凄惨極まりない現場を見られた。
ここ1週間ディアナにあの時のことをどう話そうかとずっと考えていたのだが、いざディアナを前にするとどう切り出したらいいのかわからなくなる。
改めて蒸し返して此方から話してもいいものなのだろうか。
数秒の間、沈黙が広がる。ふいに視線の先に小さな車と、シスターと話し込む男性の姿が見えた。
「……あれ、お父さん?」
「え? あ、うん、そうなの」
ディアナと同じ茶髪に、遠くからなのでよくは見えないが確か目の色も同じだと言っていた。トイには一瞬でわかった、あれがディアナの父親なのだと。
だって雰囲気が柔らかい。
「ディアナに、似てるな」
「そうかな、そんなこと、ないよ」
「あるって」
「どこらへんが?」
「優しそうな雰囲気とか」
ゆっくりとディアナが顔を上げた。強張っていた表情が少しだけ柔らかくなる。
ディアナは真剣な顔をしたトイに仄かに笑い、しかし顔をくしゃりと歪ませた。トイの方から近寄り、ディアナの手を握る。
ころりと涙を一筋零したディアナが、ぽすんとトイの肩に顔を埋めてきた。背中に腕を回し華奢な身体をそっと抱きしめる。ディアナもトイを抱きしめてきた。
出会ってから今日に至るまでたった1ヶ月と少しだった。
けれどもトイにとって、ディアナはとても大切な女の子になった。
「トイ……」
「うん」
「……お見送り、来てもらえないんじゃないかって、思ってたの」
以前ディアナがトイに言いかけていたのは、このことだった。
明るいはずのディアナの声色に切なげな色が混じっていたのが気になったのだが。色々あってすっかり忘れてしまっていた。
きっと言いだし辛かったんだろう。出発は明日だと聞いていたのだが急遽早まったため、トイも急いで育児院を訪れたのだ。
一日でもはやく、ディアナの父親はディアナと暮らしたかったのかもしれない。
「お父さんね、前と似たようなお仕事、見つかったんだって」
「そっか」
「まさかこんな早く、帰って来てくれると思ってなくて、あたし……」
「ディアナ」
そっとディアナの肩を掴んで、顔を覗き込む。出会った時はトイの方が目線が下だったのに、今はほんの少しだけトイが見降ろす形になっていた。
この1ヶ月で、トイの身長も少しだけ伸びたらしい。
「本当によかった。お父さんと仲良くな」
ぶわりと、ディアナの眦から雫が溢れた。
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