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覇者の瞳 前編
あれから数ヶ月が過ぎ、城はすっかり落ち着きを取り戻していた。
ルーシェの身分は国民には公表されず、城内ではフェイシアの歳の離れた弟として発表された。
これまではずっとフェイシアの側仕えをしていた事もあり、城の者は皆、ルーシェは今はレインの側仕えだと認識している。
本当の身分に関してはルーシェ本人が公表を拒んだというのもあるが、公表する事で実の父親が名乗り出て来る事をレインが危惧したというのもあっての事だ。
特にルーシェは覇者の相を持っている。
覇者の相に関してはまだまだ謎が多いが、国外に知られたらその力欲しさにどこの国が刺客を送って来るかわからない。
危険がなくなった訳ではなかったが、今のところ平和に暮らしていた。
ルーシェはいつものようにレインの執務室を覗く。
「レイン。昼食の用意ができたよ」
ルーシェは振り向いたレインにそう言った。
レインはルーシェに、「陛下」と呼ぶ事と敬語を遣う事を禁じていた。
最初は戸惑ったルーシェだったが、今では随分慣れたようである。
「そうか。俺も丁度仕事が落ち着いたところだ」
レインは微笑みながら言うと、椅子から立ちあがった。
そしてルーシェを伴い、執務室を後にする。
「ルーシェ。俺の執務中はいつも何をしてるんだ?」
廊下を歩きながら、レインは訊いた。
ルーシェはこれまでに充分な教育は受けているので今更勉強をする必要がない。
ルーシェはフェイシアの歳の離れた弟として公表されているため、今の立場はレインの義理の弟となる。
そしてこれまた表向きの立場はレインの補佐である。
しかしレインは現在、ルーシェに仕事を与えていない。
まだ17歳の少年に、政治に携わる仕事をさせるのは負担が大きいだろうと配慮しての事だ。
政治に関わるのは20歳になってからという事になっている。
対外的には、姉を失ったショックでまだ落ち込んでいて療養が必要であるという事にされているため、仕事は免除という事にもなっている。
つまり、今のところルーシェは何もする必要がない。
自由気ままに好き勝手に遊んで過ごせばいいのだが、性格的にルーシェはそれができないようだ。
「あの⋯⋯護身術の訓練をしたり、医学の勉強をしてるんだ」
ルーシェはためらいがちに答える。
「医学の勉強か。それはわかるが、何故護身術の訓練なんか?」
レインは首を傾げた。
医学の勉強はまだわかる。
まだ政治について本格的な事を学ぶ必要がない今、医学の知識を高めておいても損はない。
しかし何故、護身術の訓練などするのか。
するに越した事はないのだが、訓練によってルーシェが怪我でもしないかとレインは心配しているのだ。
「ヨール先生が、危険がなくなった訳ではないから、やっても無駄になる事は絶対にないからって」
「⋯⋯ヨールめ」
レインは苦笑した。
ヨールとは、城専属の医者の名である。
例の一件以来、侍女のリーリアと同じくルーシェを気にかけていた。
「大丈夫だよ。そんなに厳しい訓練じゃないから」
「わかっているが、無理はするなよ」
「うん」
昼食を終えるとレインは再び執務に戻った。
ルーシェの様子が気になるが、忙しいのでなかなか話を聞けないでいる。
何か考えがあって護身術を学んでいるのだとは思うのだが。
母を救えなかった事が気持ちを重くしているのかも知れない。
レインを見つめるルーシェの瞳は、このところ不安で曇る事が多い。
何に対して不安を抱えているのかはわからない。
レインは考えた。
もしかしたらルーシェは自分の愛を疑っているのではないか。
覇者の相を持っているから必要とされているだけだと誤解してはいないだろうか。
さっきのルーシェを思い出す。
伸びてきた髪をひとつに結って、飾り櫛をさしていた。
飾り櫛はリーリアに貰ったと言う。
服や装飾品は全てリーリアの見立てだった。
このルーシェ至上主義の侍女には、時としてレインも敵わない。
普段は自分よりもルーシェの側にいるリーリアなら、何かわかるかも知れない。
「あとでリーリアに訊くかな⋯⋯」
レインはため息をつくと、執務を再開した。
ルーシェはというと、ヨールの元に来ていた。
医務室の横がヨールの私室となっている。
「覇者の相について知りたいと?」
ヨールはお茶を用意しながらルーシェを見た。
ルーシェはこくりとうなずく。
そして用意されたお茶を飲んだ。
最近、ルーシェは覇者の相について色々と調べていた。
自分が覇者の相を持っているという事は、レインに聞かされて知っている。
だがそれがどんな力なのか自分でもわからない。
だから知りたかった。
具体的にどんな力なのか。
自分で調べてみたがわからなかった。
それでヨールに相談したのだ。
「詳しい事は私にもわかりません。私が知っているのは、覇者の相は側にいる人間の運を強める力があるらしいという事です。一国の主の運が強まれば国の勢力も強くなる。やがて世界を動かすほどの力になる」
ヨールはテーブルを挟んで向かいに座るルーシェを見つめながら語った。
「僕に⋯⋯その力が?」
「ええ。ですがルーシェ殿の力はまだ覚醒しきっていない」
「覚醒⋯⋯」
ルーシェはヨールを見つめた。
この初老の医者は、何をどこまで知っているのか。
「まだ瞳にかげりが見られる。それがなくなった時、ルーシェ殿の力は完全に覚醒するでしょう」
「かげり⋯⋯?」
「何か不安を抱えておいでかな」
ヨールは穏やかな顔でルーシェを見た。
母フェイシアの死。
覇者の相。
レインの存在。
何がこの少年を不安にさせているのかはわからない。
しかしそれがなくならない限り、覇者の相の真の力は発揮されないだろう。
「自分でもよくわからないのです。ただ漠然とした不安に駆られる事が多くて」
ルーシェはそう言ってうつむいた。
「それはおそらく、力に対する不安でしょうな」
ヨールは少し考えてそう言う。
「力に対する?」
「そうです。覇者の相が与えるであろう強大な力に対して、無意識の内に不安を感じ取っているのでしょうな。それが、覚醒を妨げているのでしょう」
首を傾げるルーシェに、ヨールは説明した。
確かに、ヨールの言う通りかも知れなかった。
ただ漠然と感じる不安。
それが誰に、何に対する不安なのか自分でもわからない。
自分には未知の力がある。
それが目覚める事が怖いのか。
そんな事を考えていると、ヨールは穏やかに笑った。
「強大な力に不安を感じるのは、悪い事ではありません。深く考えず、自然体でいれば良いのですよ。力が覚醒しようとしまいと、ルーシェ殿は今のままでいれば良いのです」
「⋯⋯はい」
ヨールの笑みにどことなく力強さを感じ、少し不安が和らいだ。
そして立ち上がると、ヨールに頭を下げて部屋を出て行く。
ヨールはルーシェを見送った後、小さくため息をついた。
安心したような、ほっとしたようなため息を。
「やはりフェイシア様の息子だ。心配する事はなかったな⋯⋯」
そしてそうつぶやくと、お茶を飲み干した。
深く考えるのはやめよう。
ルーシェはそう考え、城の中庭へ向かった。
母フェイシアがよくルークを抱いて日光浴していた庭だ。
ルークの世話は乳母がしている。
自分の弟でもあるので、ルーシェも日に一度はルークを抱いていた。
中庭は美しい花が咲いている。
「ここが一番落ち着くかな」
ルーシェはつぶやいて、柔らかい草の上に寝転がった。
強大な力に不安を感じるのは悪い事ではない。
ヨールの言葉の意味を考えた。
しかしいくら考えても、言葉以上の意味はわからない。
良い事ではないと思うのだが、悪い事ではないとはどういう事なのか。
考えている内に、やがてルーシェは眠ってしまっていた。
午後の執務を終えた後、レインはリーリアを呼んだ。
ルーシェの事を訊くためである。
「お呼びですか?」
リーリアはすぐに執務室に来た。
「済まないな。ちょっと訊きたいのだが」
「ルーシェ様の事ですか?」
質問する前にリーリアが訊き返す。
「よくわかったな」
レインは心を見透かされたような気がして目を丸くした。
「近頃、ルーシェ様は何かと悩んでおいでですから」
「やはりそうか。それで、何を悩んでいるかわかるか?」
「詳しい事はわかりません。ただ、自分が覇者の相を持っている事で色々と悩んでおられるみたいです」
リーリアにも詳しい事はわからなかった。
ルーシェが悩んでいるのはわかっていたが、訊いたところできっとルーシェは答えない。
「覇者の相か⋯⋯」
レインは考え込んだ。
フェイシアも覇者の相を持っていたが、それがどれほどの力なのかあまり考えた事はなかった。
愛した人間がたまたま覇者の相の持ち主だった。
レインにとってはただそれだけの事なのだ。
その力を利用して国の力を強めようとか世界を動かそうなどと思った事もない。
国が豊かになるのは自分の力ではなく、国民ひとりひとりの心がけだと思っている。
自分はただ、国民を良い方向へ導いて行くだけだ。
だから覇者の相を持つフェイシアが側にいても特に意識しなかった。
しかしルーシェは悩んでいる。
「陛下まで悩むのはよしてください」
リーリアは苦笑しながらうつむいた。
「悩んでいるつもりはないがな⋯⋯」
「大丈夫ですよ。ルーシェ様は芯の強いお方ですから。それは陛下が一番よく知っているのではないですか?」
「ああ、そうだな」
レインはうなずく。
ルーシェは確かに芯の強い少年だ。
レインを悲しみから立ち直らせるために自ら憎まれ役になったほどなのだ。
あの澄んだ瞳は意志の強さの現れのように感じる。
「ルーシェ様はきっとご自分で答えを出されます。私達は見守っていれば良いのですよ。ヨール先生もきっとそう思っておいでです」
リーリアはきっぱりとそう言った。
それを見てレインは微笑む。
「そうだな。それではじっくり見守るとするか」
「それが一番です。では失礼します」
リーリアはにこりと笑って言うと、執務室を出て行った。
やはりルーシェ至上主義なだけはある。
そう思ってレインは妙に感心した。
寝室に戻ったが、ルーシェの姿は見えなかった。
心配する事はないのだが、姿が見えないと安心できない。
レインはルーシェを探す事にした。
城の周囲の警戒を厳重にしている分、内部の警備はそれほど厳重ではない。
城の中を歩くのに護衛の付き添いはなかった。
「ヨールの所か⋯⋯」
探し歩きながらつぶやく。
そしてヨールの私室へ行ってみたが、もう出て行ったらしい。
それならば、とレインは中庭へ向かった。
フェイシアがよく日光浴していた庭は、ルーシェにとってもお気に入りの場所だった。
暇な時はよくこの中庭で過ごしているようだ。
フェイシアを亡くしてから随分と気丈に振舞ってはいるが、時々悲しさが湧いてくるのだろう。
しかし以前と比べると、ルーシェは逞しくなったように感じる。
体格が逞しくなった訳ではない。
ルーシェの持つ空気が、と言えばいいだろうか。
意志の強い瞳は前からだったが、最近とみに凛とした雰囲気を持つようになった。
ルーシェの成長を見るのはレインにとって嬉しい事でもある。
「やはりここにいたか」
中庭を覗くと、予想通りルーシェはいた。
草の上にあお向けになって眠っているようだ。
レインはルーシェに近付いて行く。
すぐ側で顔を覗き込んでもルーシェは起きなかった。
疲れているのか、ぐっすり眠っているようだ。
レインは微笑むと、その傍らに腰を下ろした。
ルーシェはふとした気配に目を覚ました。
「目が覚めたか?」
「えっ」
すぐ側でレインの声がして起きあがると。
レインが微笑を浮かべていた。
「レイン、どうしてここに⋯⋯」
状況がつかめずルーシェは混乱する。
ここで眠り込んでしまったらしいが、何故レインがいるのか。
「お前を探していたんだ。ここでお前が眠っているのを見つけたんだが、起こすのも悪い気がしてな」
あたふたと慌てるルーシェを楽しそうに見ながらレインはそう言った。
「起こしてくれたら良かったのに」
「いや、お前の寝顔が可愛かったものでな」
「⋯⋯」
レインに笑顔で言われ、ルーシェは赤くなってうつむいた。
いつまでたっても、レインに見つめられると赤くなってしまう。
「そう赤くなるな。そろそろ夕食だ。行こう」
レインは苦笑すると、ルーシェの手を取って立たせた。
立ち上がったルーシェの額に唇を押し当てた後、手を引いて歩き出す。
ルーシェは相変わらず赤い顔でうつむいたままだった。
夜。
入浴も済ませたレインとルーシェは、寝室の手前にある部屋でくつろいでいた。
「昼間はヨールの所へ行っていたようだが」
レインはそう切り出す。
ルーシェがどうして悩んでいるのか、本人の口から訊きたかった。
「う、うん」
ルーシェはためらいがちにうなずく。
「覇者の相の事で悩んでいるのか?」
「どうしてそれを?」
「リーリアも心配している」
「最近、何だか訳もなく不安を感じてて⋯⋯それをヨール先生に相談してたんだ」
「何が不安なんだ?」
レインは首をかしげる。
「何が不安なのか、自分でもわからないんだ。だからヨール先生に相談したら、それは覇者の相の力に対して無意識の内に不安を感じているんだろうって」
ルーシェは答えた。
「どんな力なのかは知らないが、危険な事はないだろう」
「危険はないと思う。それにヨール先生も、強大な力に不安を感じるのは悪い事ではないって言っていたし」
「ヨールは何か知っている様子だな⋯⋯」
レインは考え込む。
覇者の相について自分やルーシェが知らない事をヨールは知っている。
ヨールは医者としてはもちろん、人間的にも信用できる男だ。
そのヨールが心配いらないと言うのなら、本当に心配いらないのだろう。
確かにルーシェも安心した様子だった。
レインはため息をつく。
どうして自分ではないのか。
ルーシェの不安を取り除く事ができるのは常に自分でありたかった。
そしてきっと、そんな事を言えばヨールは苦笑するのだろう。
つまらない嫉妬だという事はわかっている。
しかしそれでも、ルーシェに頼られているヨールに嫉妬してしまうのだ。
大人気ないな。
そう思いながら椅子を立った。
ルーシェの手をとって立ち上がらせ、顎に手を添えて口付けを落とす。
舌で唇をなぞっていくと、やがてルーシェは薄く唇を開いた。
レインの舌がルーシェの口内に侵入する。
ルーシェの舌がためらいがちにレインの舌に触れると、レインはすぐにその舌を絡め取った。
段々と力が抜けてくるのか、レインの背中に回された手が震えている。
それでもルーシェは目を閉じてレインの口付けを受け入れていた。
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