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第四章

 昨夜閉め忘れたカーテンを風が巻き上げ、部屋に朝陽が差し込んだ。眩しさでサフィヤは目を覚まし、起き上がって身体を伸ばす。そして何気なく部屋を見回した。 (昨夜は、来なかったのか)  シャワーを浴び、テーブルに用意された朝食を食べながら、サフィヤはなんとなく時間を持て余した。 (遅くに帰ったんだろうけど、今日ももう仕事に行ったのか)  ユージーンは毎日忙しそうだ。事業を引き継いだばかりだし、何かと大変なのだろう。夜中にふと目覚め、窓からユージーンの仕事部屋を見ると、明かりがついていることがある。さっきまであれほど、淫らな快楽に夢中だったのに。そんな時サフィヤはユージーンの荒い息づかいや、くぐもった呻き声、卑猥な指先と熱く昂ぶった性器の舌触りを思い出し、なぜか下腹部に熱を感じるのだった。  なんとはなしにユージーンのことを考えている自分に気づき、サフィヤは頬を染めた。 (まあ、今夜は来るだろう) ところが、数日たってもユージーンは姿を見せなかった。メイドに尋ねても、仕事で外出している、としか答えない。 (何か、仕事上のトラブルでもあったのか)  行為の相手をせずに済む、安息の日々。そのはずが、サフィヤは落ち着かなかった。 (どうしたんだろう)  あんなことを言っていたが、結局飽きてしまったのかもしれない。今頃は新しい奴隷を買って楽しんでいるのかも。それとも――、  サフィヤはソファから飛び起きた。 (恋人が――)  そんな話があってもおかしくない。 (あれでなかなか容姿も整っているし。物腰が柔らかくて人当たりもいいから……)  サフィヤの心臓が激しく鼓動を始める。 (で、でも。ユージーンは僕を愛してるって言って――)  サフィヤはハッとして顔を上げた。 (ち、違う! 僕はあくまでもユージーンに買われた奴隷だから、もしユージーンが僕に興味をなくせば、どこかへ売り飛ばされてしまうかもしれない。そう、僕はそれを心配しているだけで……)  誰にともなく呟いた言い訳は、ノックの音で中断された。振り向くと、入ってきたのはハーリドだ。 「何か用か、ハーリド?」  ハーリドはサフィヤの側へ寄ると、ポケットから小さな鍵を取り出した。 「失礼いたします」 「え?」  カチャリと音がして、戒めの首輪が外れる。 「ユージーンさまのお計らいです」  ハーリドは言った。 「え……っ? でもなぜ……」 「ユージーンさまは資産を坊ちゃまに譲られ、ここを出てゆかれました」  ハーリドは一歩後ろに下がり、サフィヤに向かって一礼した。 「は……!?」 サフィヤは唖然として、相変わらず無表情のハーリドを見つめた。 「ど、どういうことだ? 僕は何も聞いていないぞ!」 「ユージーンさまは山羊をいくらかお求めになり、残りはサフィヤ坊ちゃまに残してゆかれました。このお屋敷、それと投資信託になっている金融資産がございますので、不労所得だけで生活に不自由はないでしょう。会社の方は坊ちゃまが経営されるも売却されるも、株の配当を得るのもご随意に、とのことです。詳しい話は弁護士の方から――」 「ま、待て!」  サフィヤはハーリドを遮った。 「僕が聞きたいのはそんな話じゃない。ユージーンはなぜ急にそんなことを?」 「私も詳しくは聞いておりません」 「ユージーンはどこだ?」  サフィヤはソファから勢いよく立ち上がり、ハーリドに詰め寄った。 「ハーリド! 答えろ!」 「……砂漠に」 「砂漠……?」 「お生まれになった所へ、お帰りになったのです。私めが昨晩、車で送りしました」 「な……ん、だ、と」  ユージーンは、砂漠の遊牧民族の出身だ。彼らは常に移動しながら暮らしていて、外部の人間にその行動は掴めない。一度砂漠の奥地に入ってしまえば、向こうから接触してこない限り、見つけ出すのは困難だ。 「もうあいつに会うことはない、と……?」  震えるサフィヤの声に、ハーリドは答えた。 「はい。坊ちゃまはもう、奴隷ではありません。元の生活が戻ってきたのです」 「…………」  元の生活。その言葉は胸に突き刺さった。  ユージーンのいない生活。元の、一人ぼっちの生活――。 (そうだ! 今ならまだ間に合うかもしれない! 迎えに――) だがサフィヤは踏み出しかけた足を止めた。 (迎えに行って、どうする)  なぜこんなことをしたのか、考えられる理由は一つだけだ。 (ユージーンは、僕に飽きた)  父のあの目つきが、サフィヤの脳裏にちらついた。 (僕は捨てられたんだ。父上と同じように、あいつも僕を……) 「サフィヤ坊ちゃま」  ハーリドの声に、サフィヤは顔を上げた。 「な、なんだ」 「財産譲渡の法的手続きのために、弁護士との面談を手配しなければなりませんが――」  ハーリドは淡々とした口調で言った。 「本日の夕刻ではいかがでしょうか」 「う、うん……」 サフィヤは呻くように呟いた。 (仕方ないじゃないか。それとも、また元のように犬にしてくれ、とでも言うつもりか) 「サフィヤ坊ちゃま?」 (そ、そうだ。僕は犬みたいに、あいつを飼い主として頼っていただけだ。でも、もうそんな必要はないんだ) 「坊ちゃま。……よろしいのですか?」  ハーリドが念を押すように尋ねた。心を見透かすようなその口調に、サフィヤはついむきになる。 「もちろんだ。こんな嬉しいことはない!」 サフィヤはくるりとハーリドに向き直り、大声で言った。  その時だ。 「この、ばかたれがぁっ!!」  パシッ、という小気味よい音が響いた。じんわり頬に広がる熱を感じても、サフィヤは何が起こったのか分からず、ただ頬を抑えてぽかんと口を開けていた。  ハーリドが、サフィヤの頬をひっぱたいたのだ。 「子供でもあるまいし、自分の心すら自分で分からんのか!」  ハーリドは、今までサフィヤが見たこともない顔をしていた。皺の寄った額まで真っ赤にして、本気でサフィヤを叱っている。それは召使いではない、一人の人間の顔だった。 「……可哀想な子だ」  目尻から涙が一筋、こぼれ落ちる。 「儂は死ぬまで、口をつぐんでいるつもりだったが……」  ハーリドは、両手でしっかりとサフィヤの肩を掴んだ。サフィヤは唖然としたまま、その手の温もりを感じていた。初めて味わう、温かい手。それはまるで――、 「たった一人の孫が儂と同じ過ちを犯すのを、見過ごすことはできん」 「ま、孫? ハーリド、お前は一体……?」 「お前の母親は、この儂の娘なのだよ」 「なっ……!」  サフィヤは思わず、ハーリドの顔をまじまじと見た。 「娘が養子に行った時、儂は娘の幸せのためにと、縁を切った。それなのに、」  ハーリドは声を詰まらせた。 「嫁いで何年もしないうちに、娘は死んだ。葬式にも参列できなかった儂は、せめて残された孫の顔を一目見たいと――」  ハーリドは娘の夫とは面識がなかったので、正体を隠してこの屋敷で職を得た。孫の顔を見たらすぐ辞めるつもりだったが、赤ん坊のサフィヤ愛しさに、一日、また一日と勤めを続けた。だがそのうち、同僚たちの噂話が耳に入ってきた。主人は結婚後いくらもたたないうちにサフィヤの母に飽きてしまい、新しい妻の元にばかり通っていたこと。奥方はそれを気に病み、産後はどんどん身体を悪くしていったこと――。  ハーリドは激昂した。娘は望まれて嫁ぎ、幸せに暮らしたと思っていたのに。あれほど愛おしかった孫のサフィヤも、その身体の半分に仇の血が流れていると思うと、憎しみと愛情の狭間で押し潰されそうだった。  全て水に流して屋敷を去ることも、かといって復讐することもできぬまま歳月は流れ、ハーリドは、サフィヤが我儘で傲慢な少年に成長していくのをただ眺めていた。  こんな調子ではいずれ破綻する。憎いあの男はいずれ、築き上げた財を不肖の息子に浪費されて落ちぶれるだろう。それを見届けてやろう。ハーリドはそう考えた。だが同時に、全く同じ心でサフィヤを案じ、まっとうな人間に育って欲しいと願った。  そうしてハーリドは、召使いの仮面を身に着けて、長い年月を過ごしてきたのだった。 「サフィヤ」  ハーリドはサフィヤの顔をのぞき込んだ。サフィヤの目に今初めて、仮面の人形から人へと――、血を分けた家族へと変わったハーリドの、自分と少し似た瞳や口元が映る。 「大切なものから、簡単に手を放してはいけない。ずっと後悔するはめになる」 「大切な……、もの?」 「そう。娘が大金持ちに見初められたと聞いた時、儂は誇らしかった。儂はあの男が富豪というだけで、なにか、奴隷より優れた人間であるように錯覚したのだ。娘は奴隷でありながら、そんな男の目に留まったのだと……、だが……」  ハーリドは、静かに目を閉じた。 「儂は間違っていた。富は人の価値を決めたりはせん。生まれや血筋も関係ない。人が人を想う心こそ、何より尊いものだ。その心に貴賤などあるものか」 「…………」 「サフィヤ。ユージーンは長い間、お前に心を寄せてきた。不器用な男だが、その想いは本物だと、儂は思う」 「で、でも」  サフィヤは首を振った。 「あいつは僕を捨てたんだ。今さら……」 「サフィヤ。お前自身が、今、大切に思っているものは何だ?」  「…………」  サフィヤは力なく、ソファに身体を投げた。 「……分からない」  ただ、頭を垂れる。  自分の判断など信用できない、とサフィヤは思った。これまで、そんなものは必要なかったのだ。物事を深く考えず、ただ毎日遊んで過ごし、ちやほやされていればそれで良かった。必要なものは全て目の前に揃っていて、自分で何かを決断することなどなかった。 「分からんのなら聞いてみればどうだね、サフィヤ。お前を愛し、気にかける人間に」  サフィヤがハッと顔を上げると、慈しむようなハーリドの眼差しがそこにあった。 「は、ハーリド、」  サフィヤはハーリドの上着を引き、小さな子供のように尋ねた。 「どうしたら、自分の心が分かる?」  「……そうだな、」  ハーリドは、サフィヤの頭に皺だらけの手を置いた。 「流されるまま生きてきたお前が、生まれて初めて、自分の意思で手を伸ばすなら。それはお前にとって、大切なものだと言えるのじゃないか?」  ハーリドは、 「ユージーンにも、きっと伝わる」  そう言って微笑んだ。  高級車がずらりと並ぶガレージの片隅に、古ぼけた四駆車がぽつんと置いてある。年式の古い角張ったデザインに、少し色あせた赤いボディ。ガレージに飛び込んだサフィヤは、まっすぐその車に向かった。  砂漠を走るにはこの車に限る。父がそう言っていたことがある。貧しい暮らしの中で金を貯め、初めて買ったその車を、父は晩年になっても大切に保管していた。  車のボディとタイヤにはまだ砂がついていた。サフィヤは車に乗り込み、勢いよくエンジンをかける。自分で運転するのはずいぶん久しぶりだ。  いつも運転手任せだったので、あまり自信がないものの、覚束ない運転でどうにか街を抜けてハイウェイに乗る。地図を頼りに郊外へとひた走り、砂漠地帯に入ったところでハイウェイを下りた。 「うわぁ……」  サフィヤはついつい車を止めて、眺めずにいられなかった。  辺りは前後左右、どちらを見ても砂の大海。波のうねりのように、いくつもの砂丘が連なっている。砂は午後の陽に照らされ、黄金色に染まっていた。  都心部で生まれ育ったサフィヤにとって、砂漠は未知の世界だ。その美しさと、目の当たりにした自然の驚異に少し恐れをなした。だがサフィヤは心を奮い立たせ、再びアクセルを踏んだ。のんびりしている暇はない。こうしている間にも、ユージーンとの距離はどんどん広がっている。  砂を蹴散らし、猛スピードで砂漠を駆け抜けるうちに、サフィヤはこれまで知らなかった自分自身を助手席に乗せ、共にドライブをしている気がした。経験したことのない、胸の高鳴り。未知への恐れすら愉快だ。 楽しかった。楽しいことが嬉しかった。 「ふふっ……」  自分で運転し、自分の意思で行きたい場所へ向かう。大切な人に会うために。サフィヤは今、生まれて始めて自由になった。 (壁を、壊そう)  自分とユージーンを隔ててきた壁。その壁を今、自分の手で壊す。 (それが、答えだ)  古くても足回りのしっかりした日本製の四駆車は、サフィヤの荒い運転にもよく耐えた。サフィヤは危なっかしくギヤを切り替えつつ、砂漠の奥地へと向かう。    故郷の風がユージーンを包む。厚い布であつらえた遊牧民特有のガラドゥーシャは、巻き上がる砂をものともしない。ユージーンはヒジェガの布をたくし上げて顔を庇い、山羊たちと共に黙々と歩き続けた。目指すオアシスまでもうすぐだ。この時期ならそこで、兄姉たちと合流できるだろう。 (帰ろう。砂漠へ)  決心が鈍らないうちに弁護士を呼び、様々な手配を済ませた。細かいことは彼に任せ、後は逃げるように砂漠へ向かった。  しかし、忙しくしているうちは麻痺していた痛みが、今は胸を焼く。  ふと足を止め、自嘲の笑みと共に顔を上げれば、行く手の砂丘が夕日を受けて金色に輝いていた。この世のものとは思えぬ美しさだ。ユージーンは目を細め、それを眺めた。 (これで、良かったんだ)  その色が、これから先いつも心をなだめてくれるだろう。ふわりと動くあの髪を思い出し、ユージーンは長い睫毛を伏せた。 「この辺りか」  サフィヤは車を止め、ハーリドが印をつけてくれた地図で、ハイウェイからの距離と方角を確認した。昨日ハーリドが、車からユージーンを下ろした場所だ。  サフィヤはそろそろと、砂漠のど真ん中に降り立った。地面を凝視したが、強い風で砂も洗われたのか、足跡は見つからない。サフィヤは唇を結んで辺りを見回した。  その時だ。視界のずっと向こう、砂山の稜線上に、小さな影が点々と散らばるのが見えた。どうも動いているようだ。サフィヤは額に手をかざし、目を凝らした。 (ラクダ……、いや、山羊……?)  サフィヤは車に飛び乗り急発進させた。赤い車体に夕日が反射して、きらりと光った。  車のエンジン音が聞こえた気がして、ユージーンはふと振り向いた。見れば一台の赤い車が、砂山の稜線を駆け下りてくる。 「……?」  ユージーンは首を傾げた。砂漠の遊牧民以外、この辺りまで来る者は少ない。訝しんでいるうちに車はものすごい速度で近づいてきて、ユージーンの側で止まった。 「…………!」  ユージーンは持っていた杖を取り落とした。フロントガラス越しに、あの金色の髪が揺れている。ドアが勢いよく開き、サフィヤが転げるように下りてきて――、ユージーンの胸に飛び込んだ。 「サフィヤ……!」  サフィヤは何も言わず、ユージーンの首筋にしっかりと腕を回す。  それで、充分だった。  サフィヤが腕を緩めると、二人の瞳が合った。あんなに身体を繋げたのに、互いの想いを眼差しに込めて、きちんと見つめ合うのは初めてだった。ユージーンは震える手でサフィヤを抱きしめ、唇を寄せた。  触れ合う温かい唇と共に、二人の想いも溶けて一つになった。    色鮮やかなガラドゥーシャに包まれた背中を、サフィヤはまだ夢心地で眺めていた。  日没が近いから、今夜はここで夜を明かそう。ユージーンはそう言って、連れていたラクダの背から荷を下ろし、夜営のために小さなテントを組み上げ始めたのだった。  手際よくテントの骨組みを組む手つきが、逞しく格好良く見える。砂漠でのユージーンは自信に満ちていた。ああ、これが本来のユージーンの姿なのだと、サフィヤは感じた。  おかしなことに、二人ともほとんど喋らなかった。サフィヤは何度か唇を開きかけたが、何をどう話せば良いのか分からず、結局黙り込んでしまった。勢いでここまで追ってきたものの、伝える言葉を用意してこなかったのだ。少し気まずい。 「ゆ、ユージーン」  ユージーンは静かに振り返った。 「その……、僕も手伝おうか?」  黒い瞳が、柔らかく弧を描く。 「いや、俺は慣れているからな、大丈夫だ。すぐにできるから待っていてくれ」 「う、うん」  ユージーンは作業に戻り、サフィヤは車のボンネットで身じろぎして座り直した。 「まったく、無謀な奴だ。砂漠の夜は冷えるぞ。装備もなしに乗り込んで、会えなかったらどうする気だったんだ」  ユージーンは手を動かしつつ言った。 「そ、そんなの。どうとでもなる!」 「ならない」  ユージーンは声に笑いを含ませる。 「ともかく、会えたんだからいいだろう」 「……そう、だな」  ユージーンがゆっくりと振り向いた。夕日を背に立つ黒い影がどこか神秘的で、サフィヤは息を呑む。 「俺に、会いに来てくれたんだな」  逆光で表情が見えないのがもどかしい。 「う、ええと、その……」  真っ赤になって口ごもるサフィヤに、ユージーンは手を差し伸べた。 「さあ、できたぞ。今夜の寝床だ」  見れば、立派なテントが組み上がっていた。サフィヤは感嘆の声を漏らす。  ユージーンが火を起して食べるものを用意し、二人はやはり言葉少ないまま食事を取った。パチパチとはぜるたき火の音だけが、静けさを破る。それが心地よい。 「……おいしい」  温めた山羊の乳にサフィヤは目を丸くした。 「そうか。……サフィヤ」 「なんだ」  顔を上げると、まっすぐ目が合ってしまった。思わず頬を染めたが、見ればユージーンも、照れたような顔でまごついている。 「そ、その。少し冷えてきた。その服じゃ寒いだろうから……」  ユージーンはガラドゥーシャの布を大きく広げ、サフィヤをくるんだ。  ユージーンの身体からは、香料や山羊や、砂漠に咲く花、そして太陽の匂いがする。健康的で野性的な、砂漠の男の匂いだ。サフィヤの鼓動が少し早くなった。  だが同時に、不安が胸に湧き上がる。  こんな風に逞しく砂漠で生きられるユージーンと、何もできない自分とは、やはり住む世界が違う気がした。 「ユージーン……」  小さな声で、呟くように名を呼んでみた。  そのとたん――、力強い腕が、サフィヤをきつく抱きしめた。 「――!!」  何事かと問いかける暇もなく唇を塞がれる。 「ん……っ」  口腔に踏み入る舌が、とても熱い。山羊の乳の味がする。はぁっ、と小さく息をついてユージーンが唇を放すと、 「きゅ、急に何するんだ!」  サフィヤは真っ赤になって文句を言った。するとユージーンはぽかんとした顔で、そっちが誘ったんじゃないか、と言った。 「さ、誘ってなんかないぞ!」 「誘った」 「誘ってない!」 「そんなにムキになることないだろう。顔が真っ赤だぞ」  ユージーンは笑った。 「う……」  ユージーンの笑顔がとても大らかで、サフィヤも肩の力が抜けた。こんな風に対等に、自然に会話ができるのが、嬉しかった。 「そら、またそうやって」  ユージーンが背に腕を回す。 「そんな顔をするからだ……」  そして唇が触れ合った。    大きな掌がガラドゥーシャの裾をたくし上げる。自分だけ丸裸にされて恥ずかしくなったサフィヤが、 「お、お前も脱げ」  と言うと、ユージーンは小さなテントの中で窮屈そうに身じろぎして服を脱ぎ捨てた。 「一人用だから……、やっぱり狭いな」 「これで……いい」  サフィヤがユージーンの首に腕を回すと、ユージーンは慌てたように肌を寄せた。そんなユージーンが、可愛いと思えしまう。 (温かい……)  ユージーンの肌がこんなにも温かく心地よいのだと、サフィヤは初めて気づいた。何度も身体を重ねたのに、ユージーンのことを何も知らない気がして、サフィヤは回した腕に力を込めた。すると、温かい掌が背を撫でる。 「あ……」 その手の優しさに、サフィヤは思う。これから知っていけばいい。  目を閉じると唇が重なった。唇はそのまま肌の上を滑り、あちこちに優しく触れてゆく。 「ん、ふ」  声を出すのが恥ずかしくて、代わりにサフィヤは小さく息を吐いた。耳元に口づけを落とすユージーンはそれを分かっていて、せがむように耳たぶを甘噛みする。 「あ、ふっ」  耳たぶを吸われると、快感が背をかける。サフィヤは背を仰け反らせて身悶えた。 「あ、ぁ……」  背に回された手が伸び、サフィヤの滑らかな尻を撫でる。そしてサフィヤ自身に触れた。 「んぁ、あ……ぅ」  まるで初めて触れられたような緊張感と恥ずかしさで、今までよりずっと昂ぶる性器に、サフィヤは身を震わせた。  ふと目を開くと、ユージーンはじっとサフィヤの顔を見つめていた。日食のように美しい、この漆黒の瞳にずっと見られていたのかと思うと、サフィヤは真っ赤になった。 「ず、ずるいぞユージーン!」 「は? 何が――」  みなまで言わせず、サフィヤはくるりと身体を返し、ユージーンに馬乗りになった。 「さ、サフィヤ?」  言いかけたユージーンの唇が、サフィヤの柔らかい唇で塞がれた。 「こら! う、ん……ッ」  ユージーンは大人しくサフィヤのつたない口づけを受けたが、唇が離れたとたん、「やったな」と笑い、また体勢をひっくり返す。  二人はまるで子犬のようにくるくると、上になったり下になったりしながらじゃれ合った。口づけをかわし、肌に触れ――、二人の間にできた溝を、少しずつ埋めるように。そうしているうちに、まだこれでは足りないような、何かが欠けているような――、そんな気分に襲われる。 「はぁっ、はぁ……」  ユージーンが荷物の袋から香油を取り出した。サフィヤの腿を持ち上げ、露わになった蕾にそっと指の先端だけを差し入れると、そこは既に柔らかく開き、ユージーンを受け入れる準備ができていた。  サフィヤに後ろを向かせようとして、ふとユージーンは思い留まった。青い眼差しが微動だにせず、自分に注がれている。  隆々とそそり立つ自らの雄をそこに押し当て、ユージーンはゆっくりと身体を進めた。軽い抵抗がすぐに柔らかい肉の抱擁に変わる。 「ん……ッ、はぁっ、サフィヤ……」  サフィヤの耳元で、ユージーンは歓喜の吐息を吐いた。  身体を沈めてゆくと、じんじんと痺れるような快感が魂まで支配する。ユージーンは夢中になって腰を動かした。奥の内壁にぶつかるたび、サフィヤが享楽の悲鳴を上げる。 「ひぁあッ! ぁ、……ッ、はぅ」 「う、ぁ、あ――……」 「んぁ、あ、う、ンんッ」  その表情も声も、あますことなく味わう。瞳を閉じて、白く滑らかな頬に口づけた。 「ユ、ジーン……」  サフィヤはユージーンの耳元に唇を寄せた。そして、永遠に口にすることはないと思っていた言葉を、囁いた。  そのとたん、身体の中のユージーンの分身が、弾けるように脈動した。サフィヤの身体は驚いてそれを締めつける。 「――はぁっ、う、」 「……クッ、うぁ、」  同じ瞬間に快感のうねりに襲われ、二人は互いに相手の身体を抱きしめ合った。流れ出る熱い奔流に飲み込まれ、二人は一緒に溺れていった。 テントの中はランプが一つだけ灯され、温かな篝火がサフィヤの肌を照らしていた。 「サフィヤ。いいものを見せてやる」  ぐったりと横たわるサフィヤに、ユージーンが悪戯っぽい声音で言った。 「いいもの?」 「ああ。……こっちへ」  ユージーンは脱ぎ捨てたガラドゥーシャを拾ってサフィヤに羽織らせると、テントの入り口の布を上げた。外へ一歩足を踏み出したとたん、サフィヤは思わず息を止めた。  天上に輝く満天の星。  空と地面とは水平で、交わることのない隔てられた世界。サフィヤはそう思っていた。だがここでは、砂の世界の果ては星の世界にたどり着いていた。空は丸く、砂漠の大地をすっぽりと覆っている。 「どうだ、綺麗だろう」  気づけばユージーンが隣に立ち、サフィヤに微笑みかけていた。自分を見つめる、夜空と同じ漆黒の瞳が。  二人を隔てた壁は跡形もなく崩れ去り、その残骸は白い砂となって、砂漠の風に吹かれてどこかへ行ってしまった。

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