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第三章

「ん……」  重い瞼を開くと、純白のカーテンを通して差し込む光が眩しい。サフィヤは片手を上げて目を細め、しばらくの間、ぼんやりとカーテンを眺めていた。すると、知った声がした。 「お目覚めですか、サフィヤ坊ちゃま」  ベッドの脇に椅子を寄せ、ハーリドが座っていた。傍らには、洗面器や薬箱の載ったワゴンがある。洗面器の縁には、血の滲んだ布がかかっていた。 (……?)  身体を動かすと熱っぽくてだるく、軋んで痛む。しかし、あちこちにできた小さな擦り傷や痣には、きちんと手当てがされていた。擦れて痛かった首輪の内側も、包帯が巻かれている。 (そうか。ハーリドが……)  昨夜の記憶が急に戻り、サフィヤは勢いよく身を起こした。が、全身を貫く痛みに、身体をくの字に曲げて呻く。 「坊ちゃま! お体を動かしませんように」  ハーリドが立ち上がって制した。大きなクッションを出してきて、サフィヤがもたれられるよう、背にあてがう。 「化膿止めのお薬を、お飲み下さい」  皺の刻まれた手が、コップと錠剤を差し出した。サフィヤはその手をじっと見つめ、薬を受け取って飲んだ。 「ハーリド」  コップを返しながら、サフィヤは尋ねた。 「昨夜はなぜ――、あんなことを?」  主人のすることに異議を唱えるなど、召使いとしてあるまじき行為だ。サフィヤの知っているハーリドからは、考えられない。 「…………」 「ハーリド。なぜだ」 「……あんまりなお振る舞いでしたので、見かねただけでございます」  ハーリドはサフィヤから目を逸らし、頭を下げた。 「では、私はこれで失礼を……」 「待てハーリド。まだ聞きたいことがある」  サフィヤは椅子を指し示した。 「座ってくれ」  ハーリドは少し躊躇ったが、黙ってかけた。 「ハーリド。お前はこの屋敷に勤めて、どのくらいになる?」 「二十年近くになります、坊ちゃま」 「では、僕の母のことを知っているか?」  ハーリドが小さく息を呑んだ。 「その……。直接お会いしたことはございません。私が参りましたのは、坊ちゃまがお生まれになり、お母君が亡くなられてすぐの頃でございます」 「そうか。だが聞いたことぐらい、あるかもしれない――」  サフィヤはイルハムから聞いた話を、繰り返して聞かせた。 「この話は本当か?」 「それ……は……」  ハーリドの額に玉の汗が光る。それだけでサフィヤにはもう、答えが分かってしまう。だがサフィヤは、ハーリドの口からはっきりと聞きたかった。なぜかハーリドなら、信用できる気がした。 「父上に口止めされていたのは、察しがつく。だがその父も、今はもういない。真実を教えてくれ。僕は自分のことを知りたいんだ」 「……はい」  ハーリドは、静かに頷いた。 「……全て、真実でございます」  サフィヤは静かに目を閉じた。これまで信じてきたものが、風に吹かれる砂山のように崩れ去る。 「……母は、」  サフィヤは呟いた。 「そうまでして、身分違いの結婚をした母は……、幸せだっただろうか?」 「……坊ちゃまがお生まれになる少し前、」  ハーリドは、抑えた声音で言った。 「旦那様は新しい奥様をお迎えになりました。それから旦那様は、そちらにご興味が移ってしまわれたようで、坊ちゃまのお母上は大層嘆いておられたと聞いております……」  ハーリドは俯いた。 「…………」  飽きた。そういうことなのだろう。父の最後の妻となった女性には、サフィヤも会ったことがある。美しいが、気取って冷たい雰囲気の女性だった。彼女も十年ほど前に病で亡くなっている。 「……分かった。もういい、下がれ」  ハーリドは一礼し、ワゴンを押して部屋を出て行った。サフィヤは大きく息を吐き、クッションに身体を預けた。  砂漠の果てに一人取り残された気がした。    「あ……っ、ぁ、あ……ふ」  サフィヤは白い喉元を見せて仰け反った。 「あぁぅ……っ、もう……、」 「まだだ」  惨い言葉と共に激しく奥を突かれ、サフィヤは泣き声を上げる。 「や……っ、あ、も、我慢でき、な……」 「まだだと言ってるだろう?」  ユージーンの言葉に、サフィヤは哀願するようにふるふると首を振った。次の瞬間、温かいしぶきがユージーンの指に散る。 「あ……っ、あぁ……」  サフィヤは胡乱な瞳で虚空を見つめた。 「サフィヤ」  ユージーンはサフィヤを後ろから抱きかかえ、肩越しに顔をのぞき込んだ。 「なぜ……、拒もうとしない?」  あの夜以来、サフィヤは変わった。燃えるような眼差しで睨みつけた瞳は濁り、抱いても人形のようにされるがままだ。 「拒めば、止めるか……?」  サフィヤは力なく聞いた。 「……いいや」 「はぁゥっ!」  急に奥を突かれ、無防備な声が漏れる。 「そうやって俺を油断させて、また逃げようというんだろう。その手には乗らないぞ」  ユージーンは激しくサフィヤを責めながら、荒い息づかいで言った。 (逃げ、る……?)  ユージーンの動きと同調して、繋がれた鎖がシャラシャラと音を立てる。 (たとえこの首輪を外せても。ここから逃げたとしても……、運命からは逃れられない)  どうせ自分は奴隷。それなら無駄に抗うより、こうしている方が楽だ。肉の快楽を受け取り、溺れて墜ちてしまえば。何も考えず、いいなりになっていればいい。 (楽……、だ、な)  ユージーンの肉を受け入れながら、サフィヤは薄明かりに揺れる天蓋の絹を眺めていた。  月明かりに誘われて、サフィヤはバルコニーへ出た。今夜は遅くなるので先に休めとユージーンに言われている。久しぶりの休息だ。 バルコニーの手すりにたどり着いたところで、引きずっていた鎖がピンと張って床を離れた。許された自由は、ここまでだ。  頭を上げて月光を浴び、サフィヤは心地よく目を閉じた。召使いたちも休んだのだろう、辺りは静まり返っている。 (静寂は、良いものだな)  サフィヤは独り言ちた。  全てを失って奴隷の身に墜ちたが、ただ一つ得たものがあるとしたら、この静寂だ。  今までのサフィヤは、いつも他人に囲まれていた。御曹司に取り入ろうという輩は後を絶たないものだし、イルハムのような遊び仲間も向こうからやって来た。それなのに、サフィヤはいつも孤独だった。損得抜きで心を許せる友人はなく、ただ一人の家族である父にも、愛されなかった。  サフィヤは、一人きりで静かな時間を過ごすことを避けてきた。自分が孤独なのだと、気づいてしまうのが怖かったのだ。  だが今は、この静けさが心地よい。一人きりで静寂の中に身を置くことは、こんなにも心を落ち着かせ、なだめてくれるのだと初めて知った。そうしてサフィヤは少しずつ、空虚な自分自身を受け止める準備ができてくる。 (僕は王族の血を引いているという以外、誇れるものが何もなかった)  豊かな生活も、自分自身で得たものではない。父は貧しい出自でありながら、苦学の末に実業家としての才能を開花させ、己の力で地位を築いた。 (それに比べて僕は、与えられたものを受け取るだけで生きてきた。高貴な生まれなのだから当然だ、という口実で)  だが今では、サフィヤは自分自身に何の価値も見い出せなかった。  父がサフィヤに無関心で、新しい妻とばかり過ごしていたのも、もっと血統の良い跡継ぎを望んでのことだろう。結局、子はできぬまま彼女は亡くなり、父も老いてしまったが。父は時折、なんとも複雑な表情でサフィヤを見つめることがあった。サフィヤはその目つきを思い出し、胸が詰まった。 (僕は、奴隷でいるのがお似合いなんだ)  虚しさだけが、サフィヤの心を隙間風のように吹きすぎていった。 「う……ッ」  珍しく、ユージーンがくぐもった呻き声を上げた。サフィヤの口の中で、それが大きく脈打つ。舌の広い部分を使い、先端に近いくびれの部分を丁寧に舐めると、頭に置かれたユージーンの手がぴくりと震えた。 (こうして毎日のように触れていると、少しずつ、分かってくるものだな) 「……上手く、なったじゃないか」 そんな言葉を、ほんの一瞬、嬉しいと感じてしまう。自分でも役立てることがあるのだと――、だがその直後、まさに奴隷らしいその感情におののく。 (僕はもう心まで、奴隷になりかけている) 「後ろを向け」  言われた通りにすると、ユージーンに細腰を捕らわれ、少しずつ指が挿入ってくる。 「あ、アッ、」 「力を抜け、サフィヤ。お前が痛くないようにほぐしているんだぞ」 「う、くっ」  ユージーンは指を抜き、昂ぶった己自身をサフィヤにあてがって一気に刺し貫いた。 「あ――――! あ、ひぃっ、あう」 「ん、クッ、う、ぅあ」 「ヒッ……う、ぐ……あ」  ユージーンはサフィヤに挿入する時はいつも、後ろからにしていた。顔を見るのが怖い。サフィヤの瞳が虚ろなまま、自分を見つめていないのを、目の当たりにしたくなかった。  激しく抽挿しても呻くだけのサフィヤに、ユージーンは少しも満たされない。ずっと焦がれてきたサフィヤを、こうして抱いているというのに。望み通りになったはずなのに。淫らな悦楽を、楽しんでいるはずなのに。  だがどうすればいいのか、ユージーンには分からなかった。いいなりになるだけのサフィヤが、ユージーンの心に空虚な隙間を作る。ユージーンはその虚を埋めようと、深く、もっと深くと、サフィヤの奥底に向かって切ない探索を続けた。サフィヤをもっと感じさせる場所が、征服すべき場所が、まだ隠されているのではないかと――。 だがそんな楽園にはたどり着けず、ユージーンは諦める。少し腰を引き、サフィヤのふくふくとした前立腺を自らの雄で擦り、簡単に引き出せる悦楽で妥協する。 「あ、や、……ッ!」 「ひぁ、あ! ぁ……っ」  どうすれば、その綺麗な青い瞳が自分を見つめてくれるのか。伸ばした手は力でサフィヤを支配するばかりで、それ以上には届かない。こんなに近くにいても。  それでも――。こうして毎日のように触れると、サフィヤのことが少し分かってくる。  ごく希に、ユージーンを受け入れるサフィヤの後孔が、ふわりと柔らかくなる瞬間があった。そんな時ユージーンは少しだけ、サフィヤが自分を見てくれている気がした。暗闇で一条の光を頼るように、ユージーンはその希望に縋る。だが結局、身体は繋がっても心はどこへもたどり着けず、ユージーンの焦りと苛立ちはつのる。そしてユージーンは、サフィヤを強引に射精へ導くのだった。 「ふぁ、あッ」 「ぁ、んッ! ぁあ、あ」   余韻で身体を震わせ横たわるサフィヤを見ていると、虚しさが込み上げる。 (これ以上を望むのは、贅沢かもしれない)  手の届かない星を見上げるような日々に比べれば、少なくとも今はこうして、触れることができるのだから。 (それならせめて、身体だけでも)  ユージーンは再びサフィヤを突き始めた。 「あ、あぅ……う、はぁっ……」  サフィヤが苦しげに呻く。 「……そんなに嫌なら抵抗したらどうだ?」 「は、ぁッ」  サフィヤは返事の代わりに大きく息を吸った。ユージーンは強く奥を突く。 「あぁアアッ!」 「芝居には騙されないと言っただろう」  だがサフィヤは小さく首を振り、喘ぎながら呟いた。 「ちが……、う」 「何が違うんだ」 「これ、が……、僕に、ふさわしい、運命、だ、から……」 「……どういう意味だ?」  ユージーンは思わず動きを止めた。あの傲慢なサフィヤとは思えない言い草だ。 「何があった、サフィヤ。話せ」  ユージーンはサフィヤを肉の楔から解放し、抱き起こした。サフィヤは渋々とベッドの上に座る。力のない瞳でユージーンを一瞥し、サフィヤは言葉少なに語った。 「…………」 話に耳を傾けるうちに、ユージーンは、こんな風にサフィヤと話をするのは初めてだ、と気づいて胸が熱くなった。たかが話をするだけ。だがそれだけでも、以前なら叶わぬ夢だったのだ。身体だけでなく、もう一歩、サフィヤに近づけた気がした。  しかし――。話の要点が見えてくるに従って、ユージーンの表情は仮面のように凍りついていった。  サフィヤが従順に抱かれていたのは、つまり、自分自身への卑屈さと諦めに他ならない。僅かでも、心を許してくれているのではないか。好意やまして愛など、初めから望むべくもないが、それでも、もしかしたら――。そんなはかない期待が、音を立てて崩れてゆく。 「……つまり僕は元々、こうしてお前の犬になるのが似合いってことさ」  話し終えると、サフィヤは自虐的に笑った。 「…………」 「さあ、続きをするんだろう?」  サフィヤはふざけた仕草で、ごろりと仰向けに寝そべった。 「それとも僕が王族の血族でなくて、興ざめしたか?」 「……何を、言っている」  ユージーンの声が震えた。サフィヤはユージーンの顔を見もせず、寂しげに言った。 「お前は自分の力で財を手にしたんだから、僕に飽きたなら新しい男娼を買うなり、好きにすればいい。人の心など構わず――」 「人の心、だと!?」  ユージーンはサフィヤの腕を強く掴んで引き起こした。 「お前が、そんな言葉を口にするとはな!」 「…………!」  サフィヤの頬に朱が走る。 「我儘で傲慢で、自分のことしか気にかけない。与えられたものは当然として受け入れ、与えられなければへそを曲げる。血筋を鼻にかけて、自分で道を切り開こうともしない」 「…………」  サフィヤには返す言葉がなかった。 「だが……、それなのに……」  ユージーンは掴んでいた手を放し、その手で優しくサフィヤの前髪をかき上げた。 「どうしてこんなに……、愛してしまったんだろう……な」 「え……?」 サフィヤが驚いて顔を上げると、悲しげな苦笑を湛えた漆黒の瞳が、まっすぐに自分を見つめていた。 「サフィヤ。初めて会った時から、俺はずっとお前に焦がれてきた」  ユージーンの指がサフィヤの頬を優しくなぞる。まるで大切な宝物に触れるように。 「お前の血筋や身分も、お前の心の美しい部分も醜い部分も、関係なく。弱いところも悪いところも、全てが愛おしい」 「…………!」  サフィヤの胸が、かっと熱くなった。それは――、ユージーンに熱い液体を注がれる、あの瞬間に似ていた。 「あ、愛し、て……? 僕を?」  誰かに「愛している」などと言われるのは、生まれて初めてだった。父ですら、そんな言葉をかけてくれたことはない。 「ユージーン……」  思えば、なんとなく気づいていた気がする。ユージーンが自分を見つめる瞳にはいつも、他の者にはない熱がこもっていた。  そしてサフィヤは、その瞳が怖かった。  奴隷の身で、手の届く相手ではないと知りながらも焦がれる。そんな想いがサフィヤには理解できなかった。愛を知らないサフィヤの持つ「愛」のイメージは、もっとふんわりとした、温かく弱々しいものだった。たとえば、子を慈しむ母親のような。  しかしユージーンの愛は全く違う。砂嵐のように激しくサフィヤを翻弄し、それでいて砂のように乾いてはおらず、しっとりと熱いスコールのようにサフィヤの心を濡らす。 (なぜ僕なんかを。それに、どうせ手に入らない――)  だが結局ユージーンは、手に入れた。 「サフィヤ」  ユージーンがサフィヤの白い額に、そっと口づけを落とした。 「…………!」  サフィヤを強引に奪った手。だがそれと同じ手で、こんなに優しく触れることもできる。 「サフィヤ。俺は――」  しかしサフィヤは、顔をのぞき込むユージーンを突き放した。 「ど、どちらにしろ、今の僕に選ぶ権利はないんだ。お前の好きにすればいい!」  乱暴に言い放って顔を逸らす。 「……ああ、そうだな」  ユージーンは低く呟いた。  そして――。犯せば犯すほど飢え乾くと分かっていながら、再びサフィヤにのしかかる。 (僕は、どうして……)  内臓を抉るように攻めてくるユージーンの肉を感じながら、サフィヤは気づかれないよう小刻みに息をつき、快感に抗った。  犬として拒否権はなく、仕方なく抱かれている。そのはずなのに、サフィヤは時々、ユージーンの愛撫で快感を得てしまうのだった。そして今は、強引な愛撫の裏に、自分を求める狂おしい心があるのだと知ってしまった。 「あぁ……っ!」  ユージーンの指先が、胸の突起を軽くひっかく。硬い爪で甘い快感の楔を打ち込まれ、身体が痺れるほど感じてしまう。 「ふぁ……、あ、ぃ、や」 サフィヤは唇を噛み、声を抑えた。 「声を出せ、サフィヤ」 「や……」 「…………」 「――痛ッ!」  強く摘ままれ、サフィヤは泣き声を上げた。 「や、だ、やめ……」 「お前が声を出さないなら、止めない」 「う……」  声を出してしまえば。快感のままに、喜びの声を上げてしまえば。それは―― (飼い主に媚を売る犬だ)  快感を飲み込み、サフィヤはただ呻いた。  奴隷と主人。立場が入れ替わってもまた、同じ壁が二人を隔てていた。  玄関前でユージーンを下ろすと、運転手は車をガレージへ回していった。家に入ろうとしたユージーンはふと立ち止まり、バックライトが広い庭の奥へ消えるの見守った。腕時計に目を落とせば、もう深夜だ。会議が長引いたせいで、だいぶ遅くなってしまった。ユージーンは軽く息をつき、邸内に入った。先に休むようハーリドに連絡しておいたので、出迎える者はない。  ひどく疲れていたユージーンは、一杯やりたい気分で、ホームバーのある部屋へ向かった。カウンターでバーボンを注いでいると、ふと頬に光が落ちる。見れば雲間からのぞいた月光が、部屋に差し込んでいるのだった。月は白い薄絹のカーテンを、柔らかな金色に染めている。  ユージーンはグラスを手にし、誘われるようにテラスへ出た。幼子のように目を細めて月光を浴びながら、酒を口に運ぶ。二階の角部屋の窓に目をやると、明かりは消えていた。サフィヤの部屋だ。  ユージーンはポケットに手を入れ、肌身離さず持っている鍵に触れた。サフィヤを捕まえておく、戒めの鎖の鍵。それは二人を繋ぐ唯一の絆だった。こんなちゃちな鍵一つが、と、ユージーンは自嘲の笑みを零した。 (こんな関係を、求めていたんじゃない) ユージーンは鍵を握りしめ、心中で呟いた。 (俺のやり方は、間違っていたんだろうか)  しかしユージーンはその問いをかき消すように、グラスの残りを一気に飲み干した。 (こうするしかなかったんだ。絶対に手放すものか。サフィヤは、俺のものだ!)  ユージーンは行き場のない悲しみと苛立ちを眉根に込め、きりりと顔を上げて虚空を睨みつけた。その拍子に、サフィヤの部屋の窓に僅かな明かりが差したのに気づいた。 (まだ起きているのか?)  見ていると、バルコニーへのガラス戸が開き、サフィヤが出てくる。 (まさか……。やっぱり逃げるつもりか!?)  ユージーンはテラスの低い階段から庭に下り、壁伝いにそちらへ向かった。足音を忍ばせて芝生を踏み、バルコニーの下までたどり着くと、唇を噛んで様子をうかがう。庭は闇に包まれているので、サフィヤはこちらに気づかないはずだ。  しゃらりと鎖を引きずる音がして、サフィヤがバルコニーの手すりまで出てきた。それ以上は長さの足りない鎖を振り返って肩を落とす。そして顔を上げ、満月を仰ぎ見た。  その瞬間。ユージーンは瞳を見開いた。  薄い白絹を無造作に羽織った白い肌が、月光に照らされ輝いている。月と同じ金色の髪が、天からの祝福に応えるようにそよいだ。神話に出てくる少年神と、背後に広がる金砂の海原。砂の一粒一粒が光り輝き、美しい少年神を照らしている。そんな幻の情景さえ見える気がした。ユージーンは、神聖な神を盗み見てしまった凡夫のように立ち尽くした。  そうして、ようやく理解した。  なぜ、人として優れているとはいえないサフィヤを――、欠点やずるさや弱さだらけのサフィヤを、こんなにも愛しいと思うのか。その答えが今分かったのだ。 (俺はサフィヤの魂そのものを愛している) 優れているから。美しいから。そんな理由は愛に足りない。謙虚さや向上心も、高貴な心も優しさも、むろん血筋や身分も。  ユージーンはサフィヤの存在そのもの、サフィヤがこの世に存在しているという事実を愛しているのだった。 (手に入れる必要など、なかったんだ) 運命の偶然で、ユージーンはサフィヤの人生を変える力を持ってしまった。だがその力は、ユージーンを幸福にしなかった。  ユージーンの心の雲が晴れ、月が顔を出した。サフィヤはあの月と同じ、自分の世界で光り輝いてくれる存在。それで良いのだと、ユージーンは理解した。 (もう、終わりにしよう)  胸が痛む。一瞬の躊躇いが心をよぎる。しかし顔を上げ、サフィヤの姿を見つめると、穏やかな微笑みが自然に浮かんだ。この愛おしい存在に、ユージーンは降参せざるをえないのだった。  様々な不純物にまみれたユージーンの愛は、月光に照らされ、神秘の力ですっかり溶けてしまった。そして後には純粋で硬く、決して砕けぬ宝石が残った。 (俺はサフィヤを愛している。心から)  宝石は、ユージーンの頬を静かに滑り落ちていった。

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