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第十九章 風の記憶
「神子さま」
新たに神子付きの世話係となった若い修道士は、宮殿のバルコニーから美しい庭園を眺めているサーシャに声をかけた。
「そろそろ昼食ですが、こちらで召し上がりますか? 良いお天気ですし」
サーシャは振り返った。
「おお、それは良いな。ちょっとしたピクニック気分だ」
「ええ。まさにピクニック日和ですね」
修道士はよく晴れた空を見上げた。
「では、ご用意しましょう」
「ああ、ちょっと」
サーシャは修道士を呼び止めた。
「今日これからの予定は、なんだったか」
「夕方から聖歌隊の顔合わせがあります。晩餐は客人がいらっしゃいますので、その方たちと会談を兼ねての夕食会になります」
「夕刻までは予定がなかっただろうか?」
「はい。――何か?」
「いや、その」
サーシャは首を傾げた。
「何か、忘れているような気が……。いや、きっと気のせいだ」
「ええ。今日は夕刻までごゆっくりなさって下さい。では、昼食を用意して参ります」
修道士はバルコニーから出ていった。
東屋の屋根が陽射しを遮り、腰かけた石のベンチは冷たくて心地良い。雲一つない空を見上げれば、見覚えのある青さだった。
「なー、グレアムぅ……」
隣に座る竜が、不安げな顔を上げる。
「大丈夫だ。そんな顔するな」
グレアムは、竜の背を撫でた。
「分かってるさ。あいつはもう忘れてる」
「じゃあなんで、ここに座ってるんだよ」
グレアムは答えずに、ただ自嘲の笑みを浮かべた。なぜ悲しいのに笑うんだろうと竜は思う。人間というのは分からない事だらけだ。
「もうすぐ出発する。もう、少しだけ」
グレアムの肩が震えていた。
バルコニーのすぐ脇に、樹齢数百年の大木がそびえ立っている。青々と若葉をつけたその大樹を、サーシャは感慨深く見つめていた。
この樹はずっとここで、歴代の神子たちと時を過ごしてきたのだ。
サーシャは樹の近くまで歩み寄った。
――どうか我を見守り給え、大樹の聖霊よ。
頭上に広がる枝葉はすっかり天を覆い、バルコニーの石床に濃い影を落としている。見上げれば、枝葉の僅かな隙間から、光の粒のような木漏れ日が差し込んでいた。
それはまるで、
「星のようだな」
サーシャは呟いた。こうして見上げると、それは星空にそっくりなのだった。
「ふふ。あれは大熊座に見えるぞ。あっちは天秤座……」
指を差し、小さな夜空に星座を探す。
「真昼に見える星か」
サーシャはふと首を傾げた。前に、誰かとこうして星を見たような気がしたのだ。
「誰と、だったろうか」
陽に焼けた、逞しい腕が隣に並んでいた。高い位置にあった肩。横目でそっと盗み見た、金茶の髪。優しい眼差しと声。
しかし、そんな人間に心当たりはなかった。
「神子さま。どうかなさったのですか」
修道士が、昼食を載せたワゴンを押して戻ってきた。漂う紅茶の香りが鼻孔をくすぐる。
「いや、なんでもない」
サーシャは身を翻してテーブルに向かった。
その時――、ポケットから何かが落ちた。
「ん?」
それは光を反射しながら石床を転がる。慌てて拾い上げると、小さな翠の石ころだった。
「なぜこんなものが?」
サーシャは石を掌に乗せ、じっと見つめた。
「きれいな石だな」
思わず呟く。
――きれいな石。誰かがそう言って……。
サーシャは勢いよく顔を上げた。頭上には満天の星空。昼間には見えぬはずの星々が、瞬いている。
――『闇の中で初めて見えるものを……』
突風が、サーシャの髪を巻き上げた。
――『俺は、風だ』
夢の中で聞いた声。
サーシャは駆け出した。バルコニーでは用意した昼食を前に、修道士がぽかんと口を開けていた。
竜は東屋の屋根に乗り、小さな身体で精一杯背伸びして、庭園を眺め回した。
「来ねえよな。やっぱ」
ため息をついて座り込む。その時、庭園のずっと向こうで、白いものがはためいた。
「ん?」
蝶々だろうかと、竜は目を凝らす。
「あ……!」
まるで天翔る白い鳥のように、それは木立を縫う小道を、一直線に駆けてくる。
日没前には聖都を出よう。グレアムは自分自身に言い聞かせた。
――さあ。立ち上がって、ここを離れるんだ。
しかし身体は動き出そうとしない。グレアムは役立たずの両足を見下ろして失笑した。
――きりがないな。
後ろ髪引かれる想いを無理に打ち消し、グレアムは立ち上がった。
東屋を出る。しかし竜の姿が見えない。
「おい、竜! どこに行った」
辺りを見回し、大声で呼ぶ。
「そろそろ行くぜ!」
背後で、灌木がガサリと音を立てた。
「なんだ。そこに――」
その瞬間、グレアムの時間は止まった。サーシャ、と名を呼びたかった。しかし唇を開いても、言葉が出てこない。
「グレアム! ――グレアムっ!!」
サーシャはグレアムの胸に勢いよく飛び込んだ。抱き止めたグレアムの腕が震える。二人の頭上を、春の風が花びらを散らして通り過ぎていった。
そして失われた長い長い時が今、再び動き始める。
風の記憶 完
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