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第1話 藪から棒
それは、想定外の不意打ち、藪から棒、窓から槍、だった。
『わぁ……』
興味本位で開いた扉の向こう側にそんな声を上げたんだ。
「最上(もがみ)さん、おはようございます」
「おはようございます」
ペコリと頭を下げて、自分のデスクに腰を下ろした。出勤時間は八時、受付業務開始は八時半。
いつも通り、同じデスク。同じ顔ぶれ。同じ毎日。
「今日はあったかいですねぇ」
「えぇもう四月ですからね」
同じ会話。
でもそれを選んでここに来た。
性の目覚めは……少し遅い方だったかもしれない。
田舎のどこにでもいそうなただの中学生だった。両親は共働きで、父は会社員、母はご近所さんと一緒にスーパーでパート。
帰宅部の俺は親の目を盗んで開けてしまった扉の向こう側にのめり込むように嵌っていった。それこそ、溺れるように、もしくは、からっからに乾いたスポンジに水がようやく染み込んでいくように。誰にも咎められないからとどんどん深みに嵌っていった。
信じられない深みまで落ちていくのは案外簡単だった。
中学生の頃は見てるだけで満足できたものが。
『あ、あ、あっ……や、だぁ、見られてるっ』
高校に上がった頃は見てるだけじゃ足りなくなって、自分が見られる側に回ってた。SNSっていう、よくある、無制限の無法地帯みたいなところに嵌って、マスクやモザイクで顔を隠しつつ、自分の写真を載せるようになって。みんなが受験を控えて準備に勤しんでる時、俺は。
『見ちゃ、やだぁ』
そういう系の動画を上げては、そういうことでチヤホヤされる自分に酔って、気持ち良くなってた。
思春期の危うい罠ってやつだ。人気者だと、勘違いして。少しずつ少しずつ。そんで、ある日突然、ぶん殴られる。
――あれ? もしかして、ソウ君?
現実に。
「えー、本日から子育て促進課に配属になった三名の職員を紹介します」
へぇ、今年は三人取ったんだ。そっか、言ってたっけ。待機児童ゼロを目標にって。そのために職員も増やしたんだろう。
男一人、女二人。
二十二歳ね。わっか。
「それでは右から自己紹介をお願いします」
背高いな。あの新人職員。今どきの子って感じなんだろうな。
「本日から市役所、子育て促進課に配属となりました。樋野正嗣(ひのまさつぐ)です。宜しくお願いします」
背も高いけど、がっしりしてる。スポーツやってそう。
「大学では水泳をやっていました」
へぇ、水泳か。
「何もわかってないですが、一生懸命頑張ります」
初々しいな。
俺にもそんな頃が……あったらよかったけど。
なかったな。
高校の頃、ゆっくりゆっくり嵌った沼は深くてやばいところだった。自分の恋愛対象が男性っていうのを知ったのは、ふと親のパソコンでネットサーフィンをしていた時たまたま見つけたヤラシイ映像と動画から。興奮したのは女の裸じゃなくて、男の方。そしてそこからは溢れ返るそれらを貪るように漁った。暇と性的好奇心を持て余したとある男子中学生。そんなガキにそれらを与えたらどうなるかなんてさ。
そして、高校に上がる頃には自分の自慰を動画撮影してアップしては、可愛いだなんだと持て囃されて、気持ち良くなって。田舎じゃ遭遇することのない興奮に酔いしれた。
目隠ししてるから大丈夫、大丈夫。
身バレなんてするわけない。
場所は毎回自室の白い壁のところ。俺の身分が分かりそうなものなんて一つも置いてないただの白い壁に背中を預けて、足を広げて。
けど、大丈夫。
ほら、これが俺だなんて誰にもわからない。
そう思ってたんだ。
浅はかで、未熟な田舎者の高校生は。
けど、どっかでバレる。そういうもんなんだよ。田舎じゃわからないかもしれないけど、世界は広く思えるだけろうけど、案外狭くて、案外、窮屈なんだよ。
――ち、違います!
ふと、同級生と出かけた先で声をかけられたんだ。みんながカラオケ屋の一室で歌ってる時、ドリンクバーで飲み物作ってたら、そこのスタッフの男に「ソウ君?」って。
俺が動画を上げる時に使ってる名前で呼ばれた。
そこまで緩み切ってた頭のネジが一瞬でぎゅうぎゅうに締まった感じ。
痛くて痛くて、違いますと言って、走って逃げ出したんだ。
多分バレたのは口元の黒子のせいだ。目隠しの方が身バレしないだろうといつも目元を隠してた。喘いだりしたかったし。それで口元は出してたから、だからその黒子でさ。
俺だと気が付かれた?
でも、いつ?
普段はマスクしてるから口元なんてわかんねぇじゃん。
じゃあ、なんでバレた?
なんで、俺ってわかった?
俺だって確信してた?
ここのカラオケ遠いから、住んでるとこまで割れないよな?
でも、誰が会員だったっけ?
受付でバレる?
どこの高校とかわかるのか?
そしたら、俺っ。
帰り道、頭の中でそんなことがずっとぐるぐるぐるぐる駆け回って、痛くて、怖くてたまらなかった。急いで帰って、慌てて動画の履歴を全部消去した。
しばらく不安で眠れなかったっけ。
全部消したよな? でも保存されてたら? どっかに俺ってわかるものが出てるんじゃ? あとは、あとはってさ。毎晩、自分の使ってた名前でエゴサしてた。
そっからはもうあんな思いはしたくないと、地味に静かに暮らしてた。とりあえず田舎は出た。あそこでもしも秘密が暴かれたら……って想像しただけでゾッとする。
誰だってあるだろ? 秘密の一つや二つ。それが身内に、友人に、晒されたら? 考えただけで心臓止まりそうになるだろ?
それだったんだ。
もう怖いのはごめんだ。
そう思って、地味な市役所勤めの公務員になった。
「あ、最上(もがみ)さん、休憩行ってきて大丈夫ですよ〜」
「……すみません」
時計を見ると十時だった。
市役所勤めのいいところの一つは時間にきっちりしてるとこ。残業代はしっかり出るし、休憩も必ず取れる。それから地味でいられる。しかもラッキーなことに配属されたのは子育て促進課。基本、訪れるのは母親か父親だけ。つまり異性愛者がほとんどだ。だから、あの動画を知ってる人間なんていない。
バーン!
いないはず。
「な……」
心臓が止まるかと思った。いきなりガラス窓を叩く音がして。
「……何」
外の自販機でコーヒーを買って、休憩しようとしていたところだった。一日中冷暖房完備、乾燥半端ない職場、ずっとつけてるマスク。息苦しいから。外で休憩をしようと思った。
役所の裏側、建物を出てすぐのところにひっそりとある、職員くらいしか来ない日陰の自販機、そこにいた。そしたら、窓ガラスを思いきり叩かれて、驚いて、顔を上げてもっと驚いた。
その窓ガラスにぺったりと張り付くように人がいたから。
な。
何してんだ。こいつ。
そう思った。
何?
鍵? 開けようとしてんのか?
は?
なんで?
鍵開けてそれで窓開けて。
「あの! ソウさんですか!」
それは、想定外の不意打ち、藪から棒、窓から槍。
その槍の名は樋野正嗣という、今日から同じ職場で働く二十二歳の男だった。
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