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プロローグ

 月の光も届かない路地の裏側。荒く乱れた呼吸と引き摺るような足音が、奥へ奥へと進んでいく。 「クソっ、何なんだは……!!」  吐き捨てるような中年の男の声。先程から路地裏に落ちる呼吸と足音は、この男のものであった。男の歩いた後には、とある童話の中で幼い兄妹が目印に落とした小石よろしく、白く小さな包みが点々と落ちている。  まるで何かから逃げるように何度も角を曲がり、ついに男はレンガ造りの壁に阻まれる形で行き止まった。引き返すことも出来ず、男は周囲をただ意味も無く見回す。さっきから冷や汗が止まらなかった。 「鬼ごっこはもう終わり? まあ、その無駄な脂肪だらけの体にしては、頑張った方かな」  突如として響いた青年の涼やかな声が、路地の空気を裂くようにして男の背中へと刺さった。石畳を叩くヒールの音が、ゆっくりと近づいてくる。  振り返りたくなどないのに、男は操られるかのように声の方へと顔を向けた。果たして、そこには直視し難いほどの「黒」が立っていた。 「……困るんだよね。うちの区画に勝手にこんな物流されちゃ、さぁ」  夜の闇に溶け込むかのような佇まい。青年の手の中で、男の落としてきた包みがお手玉みたいに跳ねる。それだけがやたらに白く、目を引いていた。 「……い、一体何なんだ貴様は! 俺が誰か知った上でこんな真似を――」 「うるさいな」  冷え切った声に容赦無く遮られ、男は息を呑む。周囲の闇と同化しているかの如き青年の瞳は、ただ暗澹とした光を湛え男を見据えていた。 「君がどこの誰かなんて、僕にはどうだっていいことだよ。大事なのは、リナルドの邪魔になるかどうか。それだけだ」  高く放り投げた包みを、青年がコートのポケットから取り出した拳銃で撃ち抜く。破裂した包みから中に詰まっていた粉が舞い散り、雪のように路地へと降り注ぐ。  そのまま、青年は呆然としている男へと照準を合わせる。瞳に迷いはひと欠片たりとも見えなかった。  サイレンサー無しで銃を何発撃とうと、裏路地を囲む家々の窓が開くことはない。だから余計に躊躇いが要らない。銃声など日常茶飯。ここはそういう街だった。 「っま、待て! 待っ――」  カチッ。緊迫した空気を霧散させるような軽い音が二人の間に落ちる。 「……あ、?」 「あー……しまった。さっきので弾切れかぁ。やっちゃったなー」  カチカチと何度もトリガーを引き、空の弾倉を恨めしげに見る青年。  自分が撃たれていないこと、そして目の前の相手から自分を攻撃する術が失われたこと。その事実に一拍遅れて気がついた男は、すぐに自身の懐に忍ばせていた銃を青年へと向け返した。 「は、はははっ! 馬鹿な奴め! さっさと死、ガッ!?」  視認できないほどに素早く、軽やかな動きだった。使えなくなった銃を放り捨て、一瞬で男との距離を詰めた青年は、速度を緩めないままに、ブーツのつま先でその顎を蹴り上げる。男の手から取り落とされた銃が、乾いた音と共に石畳の上を滑る。 「自分で死ぬ為の道具を用意してくれるなんて親切だね、オジサン。ありがたく貸してもらうよ」  落ちた銃を拾い上げ、それの銃口を改めて男の眉間へ向ける青年。うっすらと浮かべられる笑みは、どこまでも酷薄に映る。 「……クソ、が。俺を、殺して、タダで済むと、思うなよ……!」  虚勢しか滲まない声だった。口元を押さえ俯く男からは、諦めの色が見て取れる。この場に辿り着く前に、連れていた護衛はとうに青年に殺されていた。最初から逃げられるはずもなかったのかもしれない、と。 「……そっちこそ。ロッソの縄張りで勝手なことして、生きて帰れるなんて思わないで」 「ロッソ……。あァ、そうか、貴様が……『黒狗(くろいぬ)』か」 「僕、リナルド以外に狗呼ばわりされるの嫌いなんだけど……。まあいいや」  青年の指がトリガーに掛けられる。今度こそ放たれた弾丸は、過たず男の頭を撃ち抜いた。最期の瞬間に男が呟いた言葉は銃声に掻き消されて聞こえなかったけれど、唇の動きだけで何を言っているかはわかった。 「…………」  手にしていた銃を物言わぬ屍となった男の足元に放ると、青年はそのまま遺体の方へと歩み寄り、落ちていた革製のボストンバッグを拾い上げる。開いたファスナーの隙間からは、男がここに辿り着くまでにいくつも落としていた白い包みが、まだぎっしりと詰まっていた。中身は、所謂違法薬物である。これだけの量があるなら、純度はどうあれ相当な額に変えられることだろう。 「うちのボス、ヤクが一番嫌いなのに。馬鹿な連中」  嘆息しながら、バッグを抱えて来た道を戻っていく青年。途中にはいくつもの薬物の包み、そして自身が始末した男の護衛達の遺体がごろごろと転がっている。 「……ん?」  青年は路地に転がる遺体の数を、端から数え始めた。 「……あ、あれ……?」  足りないのだ。  撃った弾の数と、転がる遺体の数が合わない。一人分。  ボストンバッグを持ち直し、青年は慌てて路地の入口へと戻ってきた。左右をきょろきょろ見渡し気配を探るも、何も無い。  広い通りに出たことにより、届くようになった月明かりが青年の痩躯を照らす。  この街では珍しい艶めく濡羽色の長い髪は、横髪を編み込んだ後に襟足の所で一纏めにされている。日に焼けていない白い肌は光を透かしそうなほどで、病人のようにさえ見えた。  不意に一陣の風が吹き、青年の髪とコートを巻き上げ路地の向こうへと抜けていく。翻った裾から覗く裏地は赤く、黒で統一された衣服の中で鮮やかに映えた。青年は風の行く先を目で追うように歩いた道を振り返り、もう一度嘆息する。 「あー……どーしよ……。雑魚だと思って甘く見過ぎた……。これヴェルデにめちゃくちゃ怒られるんじゃないの……」  頭の中に、所属する組織で頭首の側近を務めている男の神経質な眼差しを思い浮かべ、辟易した様子で首を横に振る青年。とは言え、失敗も含め、任務の報告を怠るのはいけない。  青年がボトムの尻ポケットに入れていた端末を取り出し、相手の番号を呼び出そうとしたところで、振動と共にそれが着信を告げる。噂をすれば何とやら。画面には今しがた思い描いた男――ヴェルデの名が表示されていた。 「……もしも――」 「報告が遅いッ!! こちらはとうに片付いたぞ!! 貴様よもや、また女を買って遊び呆けているのではあるまいな!?」 「そんな大声で言わなくても聞こえるよ! 今ちょうど連絡入れようと思ってたの!! あと遊んでない!!」  冗談ではなく鼓膜が破れるのでは、と懸念したくなるほどの大声で言い募られ、青年はだからこの男と話すのは嫌なのだ、と言わんばかりの表情をする。電話なので相手に伝わることはないのだし、と不服そうなそれを隠そうともしない。 「……これから戻るよ。連中がばら撒いてた物も、回収出来た分は持ち帰るから。掃除屋はもうこっちに向かってるんでしょ?」 「ああ。入れ代わりにはなるだろうがな。……くれぐれも寄り道はするなよ」 「わかってるってば! 子供じゃないんだから……!」  そこで一方的に電話を切った。後が怖い。盛大なため息を吐いた後、尻ポケットに端末を戻す。 「……帰りたくないなぁ」  青年の沈んだ声に呼応するように、月が翳った。薄暗がりの中では、転がる遺体も散らばった薬物の包みも、壁や石畳にこびり付いた血痕も、すべてが凄惨さを増す。その光景はまさに――。  ――地獄に、堕ちろ。  不意に、先程息の根を止めたばかりの男が最期に口にしていた言葉が脳裏を過った。ふ、と口元を緩め、青年はひとりうっそりと笑う。 「(この街こそが、だろ?)」  息をするように人を殺せる。羽根より軽い命。街の暗部に頭の天辺まで浸かりきったこの身は、ずっと前から底の底で踊っているのだ。あまりにも今更過ぎる話。可笑しくって仕方がない。  何かを確かめるように、青年は自身の喉元を撫でた。そこには、当人だけが解る「首輪」がある。これが着いている限り、青年はこの街の中に戻るべき場所がある。 「……あまりご主人様を待たせるのはいけないね」  独りごちて、青年はその場から歩き出す。遠回りして帰りたい気分で、いつもとは逆方向に角を曲がった。もう路地の方を振り返ることはなく、再び顔を出した月に照らし出された青年の影だけが、通りに長く伸びていた。

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