2 / 6
第1幕
五芒星の形をしたこの街は、五つの裏組織がそれぞれ同じ面積を持つ地区を統治している。その中のひとつである「第三地区・ロッソ」がクロエの居場所だ。
地区の名は、そこを統治する組織の長の姓がそのまま使われている。現在の第三地区は、齢十五の若き頭首、リナルド・ロッソが治めるロッソファミリーの管理下にあった。
街の「外」に居る警察組織がとうに匙を投げた無法地帯。自警団は存在するにはするが、彼らが守るのはあくまでも民間人の住む中央地区のみだ。裏社会の抗争に首を突っ込みたくはない、という明確な意思。しかし、それは裏側の人間にとってもありがたい話だった。表側の人間に手を出せば、自身が属する組織で懲罰を受けることになるからだ。
表と裏の境界線がくっきりと引かれ、けれどその真ん中には「外」と同じように生活する人間が居る。何とも奇妙な街だ。だが、生まれた時からこの街で暮らすクロエにとって、それは当たり前の光景だった。
***
「ただいま――」
帰還を告げる挨拶と共に屋敷の豪奢な扉を開く。同時に細長い何かが矢の如く自身の顔面目掛けて飛んでくるのに気づき、クロエは開けた扉を閉め直した。予想されていたそれに対する対処は素早かった。
追撃の気配が無いことを確認し、再び扉を開く。果たして、自身の顔がある予定だった場所には、高そうな万年筆のペン先が深々と突き刺さっていた。
「差し当たって俺が嫌いなものが三つある。一つは時間にルーズな奴。もう一つは女癖の悪い奴。最後は、仕事を真面目にやらん奴だ!!」
怒号と共にクロエを出迎えたのはヴェルデだ。
屋敷のエントランスに仁王立ちする姿は、今が夜明け目前とは思えない――恐らく自分と同じく徹夜だっただろうに――ほどエネルギーに満ちていて、纏っている上等なスーツにも皺ひとつ見えない。
よく見ると、ジャケットの内側に右手が仕舞われている。先程の万年筆はここから取り出されたのだろう。そして、攻撃はまだ終わっていない。
ヴェルデは、襟足で結われたイエローブロンドを獅子の尾のように翻しながら、二本目の万年筆を投擲する。顔を傾けるだけでそれを躱すクロエ。扉の全く同じ箇所に突き刺さり、一本目の万年筆が弾かれて床に落下する。オーク材で出来た立派な扉には、あっという間に大きな穴が空いてしまった。
「それ全部僕のことだよね!? でも一個訂正! 仕事はちゃんとやってますー!!」
「ふざけるな!! 報告の電話から何時間経ってると思ってるんだ、このボンクラがぁ!!」
三本目。今度は人差し指と中指で、飛んできたそれを挟んで止めた。高級万年筆は、既のところで扉に刺さるのを免れたのである。
「道具は大事にしないとダメだよ、ヴェルデ。それに……ドアに穴開けたらリナルドに怒られない?」
「ぐっ……」
「構わない。すぐに直せるさ。そもそも、お前がヴェルデを怒らせて、その辺の調度が破壊されるのなんていつもの事だろう」
クロエの指摘に思わず黙ったヴェルデの背後から、第三者の声がした。二人がそちらに目を向けると、小柄な少年がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「それに、遅かった理由は私も知りたいな。まさか、その歳で迷子になって帰って来られなかった訳でもないだろう?」
リナルド・ロッソ。ファミリーの若き頭首。十五歳という年齢よりも幼げに見えるのは、偏にそのビスクドールのような儚げな容姿が原因だろう。輝くプラチナブロンドに、エメラルド色をした丸い瞳。彼が今よりもっと幼かった頃に拾われたクロエも、初めて会った時にはその美しさに息を呑んだものだ。
「(あちゃー。これはちょっと怒ってるやつかも……)」
目を眇め、口元に微笑を湛えた姿は、ともすれば絵画にでもなりそうな美麗さであったが、今はただそれが恐ろしく見える。
クロエは素直に謝罪することにし、顔の前で両手を合わせた。
「リナルド、ごめんなさいっ! あのー、何言っても言い訳にしかなんないとは思うんだけど……」
重い口を開かざるを得なかったクロエは、任務の際に仕留め損ねた人間が居ること、現場周辺や、連中が使用したルートを捜索したものの、見つけ出せなかったことを述べた。
「それで……歓楽街の女の子達にも、見慣れない奴が居なかったかとか聞いてみたんだ、けど……」
急に歯切れ悪くなり、頬を掻きつつばつが悪そうにリナルド達から目を背けたクロエを前に、長年の勘が働いたヴェルデが、見る間にその眉間に皺を寄せていく。
「……貴様、よもや」
「……ごめんね。聞き込みの途中で捕まっちゃった」
語尾に星でも付いてしまいそうなくらい、謝意も後悔も感じられない声のトーン。ヴェルデは額に手を当て天を仰ぐと、自身の背面へゆっくり手をやった。ジャケットの下にナイフホルスターが忍ばせてあるのだ。
「よしわかった、そこに直れ。去勢してやる」
「えっ、無理!!」
目にも留まらぬ速度で足元へと投擲されたナイフを、後ろに飛び退る形で軽く避けるクロエ。反省をしていない訳ではないが、自分の身の安全も大事だった。
怒髪天を衝く勢いのヴェルデの様子に、見兼ねたリナルドが手を叩く。
「二人共、今しなきゃいけないのはそんなことか?」
微笑みこそ湛えてはいるが、その実目は全く笑っていない。揃って蒼白になる二人。続く動作はヴェルデの方が早かった。
「申し訳こざいません!!」
綺麗な四十五度のお辞儀を披露する彼の背後で、クロエが叱られた犬のような表情を浮かべている。
「あ〜……えっと、一応、何の収穫も無かったって訳じゃ、ないんだよ?」
曰く、空きビルとなっていた場所に、二週間ほど前から出入りする人間が現れたらしい。程なくして、娼館として営業を始めたそこを、近隣の店の娼婦達も、最初はライバル店が増えたと認識していただけだった。
「だけどその店、訪れる人間が皆、この地区の人間じゃなさそうなんだって」
他地区との行き来は制限されていない。そういう店への出入りを知られたくない人間が、自身の生活圏から離れた地区の店に足を伸ばすことだって、珍しい話ではない。しかし。
「女の子達の話だと、歓楽街じゃそこそこ名の通ってるらしい客でさえ門前払いだったみたい」
「……妙だな。それに、私はそんな店の話を知らない」
この地区での開業は、統治者たるロッソファミリーの許可が必要となる。けれど、主であるリナルドに、件の店の話は来ていない。
「そこも含めて、おかしな目的が無いか調べる必要があるよね。それに、二週間前って言ったら……」
「ちょうど、今夜の取引の噂を俺達が耳にした辺りだな」
クロエの言葉にヴェルデが続けた。
「そういうこと。連中と繋がりがある可能性も考えられるし、放ってはおけないんじゃない?」
「……貴様にしてはまともな意見だ。早急に調査を――」
「待て、ヴェルデ」
早々と端末を取り出し、部下を招集しようとするヴェルデをリナルドが制する。
「もうすぐ夜が明ける。皆には夜通し動いてもらったし、今はひとまず休んでくれ。動くのはそれからでも間に合うだろう」
「はっ、畏まりました!」
「……お前にも言っているんだからな、ヴェルデ?」
綺麗な四十五度のお辞儀の後、素早く踵を返すヴェルデの背に、リナルドが付け加える。
一瞬固まった後、もう一度深々と頭を下げ、ヴェルデは屋敷の奥へと歩いていった。彼は彼で、クロエとは別の任に就いていたのだ。夜通し働き詰めの心身に、休息は欠かせないだろう。
「……色々ごめんね、リナルド」
「構わない。お前がトラブルメーカーなのは、今に始まったことではないからな」
五年前。今では考えられないほどに荒れていたクロエは、縁あってこのロッソファミリーに拾われた。
当時十七歳だったクロエに対し、まだ十歳という幼さでありながらも、今と変わらぬ凛とした佇まいでファミリーの頂点に居たリナルド。彼に拾われることがなければ、自分はとうに死んでいたかもしれない。クロエはクロエなりに、リナルドに恩義を感じているし、忠義を尽くしたい気持ちもあるのだ。ただ、元来の奔放な性格が、その邪魔をしてしまうだけで。
「さあ、お前もそのバッグを調査部隊に届けたらもう寝ろ。女遊びも本当なのだろうが……ギリギリまで取り逃がした相手を探していたのだろう?」
「……やっぱり、わかる?」
「当たり前だ。私はお前の「飼い主」なのだからな」
「敵わないなぁ……」
「安心しろ。……多少の失敗如きで、私はお前を見限ったりはしない」
「……!!」
隠していたつもりの不安まで、見抜かれてしまった。この、年齢以上に賢しい主人相手に、隠し事など不可能なのではないだろうか。言うだけ言ってエントランスを後にする背中を見送りながら、クロエは思う。
先程の現場から持ち帰ったボストンバッグを抱きしめるように持ち直し、クロエもその場を離れた。
与えられている自室に戻った時には、もう日の出の時刻を過ぎていた。開けっぱなしだったカーテンから、朝の柔らかな光が差し込んでくるのに耐えられず、クロエは大急ぎでそれを閉める。遮光性のカーテンで陽射しはすぐに遮られ、一筋の光も無くなった部屋で、大きなため息と共にその場にしゃがみ込むクロエ。
「…………最悪、」
地を這うような声が、室内に転がる。
彼と仕事をする仲間の多くは知っていることだが、クロエはひどく陽の光を嫌う。理由まで話したことはなかったが、何しろ人殺しを主とする仕事だ。精神的に様々な支障が出てもおかしくはない。そう思う仲間達は、わざわざ聞くこともしなかった。その優しさがクロエを気楽にさせ、或いは苦しめもした。
柔らかく暖かな光は、自身の中に澱の如く溜まった罪を、すべて浮き彫りにするような気がして、とても恐ろしかった。陽光に熱された罪が、いつかこの身を焼き尽くしてしまうのではないか。そんな荒唐無稽な想像に取り憑かれ、段々と昼間の外出が難しくなっていった。
今は完全な昼夜逆転生活を送っており、日が沈む頃に起きて任務をこなしては、夜明け前に部屋に戻り眠るのが日常だ。肌がやけに白いのもこの生活のためで、まともに日光を浴びればすぐに体調が悪くなるほど。
しゃがみ込んでいたクロエは、ようやく立ち上がりよろよろとベッドに向かうと、もう一歩も動けないとばかりに倒れ込む。コートすら脱いでいないが、指一本動かすのも億劫だ。
「(あー……寝る前にシャワー浴びたい……。血の臭い、落ちにくくなるんだよな……)」
ぼんやりと考えている間に、クロエは眠りに落ちていった。
どのくらい眠ったのだろうか。額への容赦ない手刀によって、クロエの意識は強制的に浮上させられた。
「痛っった!! 何!?」
「起きろ。仕事だ」
目を開けた先に立っていたのはヴェルデだった。手刀を食らわせてきた手とは反対の腕に、紙袋を提げている。
「もうそんな時間なの……?」
「貴様、その様子だとシャワーも浴びていないだろう……。この後の任務に差し支える。さっさと浴びてこい」
辺りを見回し、ようやっと視界に収めた壁掛け時計の時間は、普段の起床時刻よりも幾許か早い。この後の準備に掛かる時間を見越して早めに起こされたらしい。
「これは着替えだ。一応言っておくが、その長々しい髪をきちんと乾かしてから着るように」
そう言ってベッド脇に紙袋を置くと、ヴェルデはさっさと退室していった。その背中を見送った後、一拍遅れてクロエは呟く。
「……いっつも一言二言は余計なんだよなぁ。あんなに神経質だと、絶対将来ハゲるね!」
ぶちぶちと文句を言いながらも、手は止めずに着ていた服を脱いでいく。下着だけになって伸びをすれば、骨の鳴る音がする。コートも脱がずに眠ったのはやはり良くない。
衣服を纏めてランドリーボックスに放り込むと、クロエはバスルームへと向かおうとしたが、ふと何かを思い出したようにベッドサイドへと戻る。
「そういえば、着替えって言ってたけどどういうことだろ? いつもの格好じゃまずい任務ってことかな……」
置いていかれた紙袋の中身を、雑にベッド上へとぶち撒けた。下着以外は靴まで含めて一式揃っているように見えるそれらを、一着ずつ手に取って確認する。
「……え、これ、って……」
履き慣れない革靴で屋敷内を歩き回り、エントランスに着いたところでようやくリナルドやヴェルデ達が話しているのを見つけた。
「居た……! ちょっとヴェルデ!! 何この服! これで一体何の任務に行けって言うのさ……!」
今クロエが身に纏っているのは、およそ普段の仕事には似つかわしくないパーティースーツ。言われた通りに袖を通したとは言え、着慣れないそれはただただ落ち着かなさを与えてくる。
「貴様こそ何だ、そのみっともなさは。大体、ポケットチーフはそうやって入れておく物ではない……!」
くしゃくしゃにして適当に胸ポケットに押し込まれたチーフを取り出し、ため息混じりに折り始めるヴェルデ。スリーピークスの形で丁寧に折られたそれがポケットに再び収められた際には、まるで初めからその形だったかのようにきっちりとしていた。
「全く、いちいち手の掛かる……」
「ありがと……。じゃ、なくて! なんで僕はこんな格好させられてんの!? こんな、パーティーみたいな……」
人殺しに相応しい服装ではないことくらいクロエでもわかる。
「何だ、いい勘をしているじゃないか。その通りだ」
「スーツ一式は私が仕立てたんだ。これからヴェルデの代わりに、取引先の女社長が主宰するパーティーに行ってもらうためにな」
尊大さを崩さないヴェルデと、穏やかに微笑むリナルドを前に、クロエの脳内は困惑で埋め尽くされる。
そもそも、他組織などとの取引はヴェルデが一手に担っていたはずだ。腹芸の類はクロエには到底向いていないし、リナルドはその見目の幼さで軽んじられがちだ。結果的に、壮年のヴェルデがそういった場に出るのが一番話が早い、ということになる。
「代わりって……そんなの無理に決まって――」
「私は無理だとは思っていないよ。だからお前に命令しているんだ。……やってくれるな? クロエ」
「う……」
ずるい。こんな風に全幅の信頼を寄せられては、応えない訳にいかなくなる。逡巡しているクロエに、ヴェルデが止めとばかりに言葉を続けた。
「貴様に拒否権があると思うなよ。これは昨日の一件のペナルティも兼ねているのだからな」
昨日――始末対象を一人取り逃がした件だ。クロエから「やらない」という選択肢が消えていく。もとい、消さざるを得なくなる。
「それに、ヴェルデには昨夜の任務絡みで別に動いてもらう必要があってね。終わり次第そちらに向かわせるつもりではあるけれど……」
昨夜ヴェルデは、クロエが始末した男達と、彼らの所持する薬物の売買取引をしようとしていた者がファミリー内に居るという情報を得て、対処に当たっていた。
「部下は捕らえて尋問しているところだが、肝心の幹部に逃げられてな。行方を追っていたのだが……」
「昼前に、地区の外れの廃教会で見つかったんだ。まあ、屋根から逆さ吊りにされた死体だった訳なのだけど」
クロエは話を聞いて目を瞠った。自分が寝こけている間に、そんな事態になっていたとは。
「……報復、かな」
「いや……取引が成されなかったこと自体は相手方にも知られているだろうが、それにしては早い気がしてね」
「最初からこのファミリーを狙った行動の可能性もある。第四地区の話は知っているだろう?」
三週間ほど前のこと。隣り合う第四地区・タルパが、外部から来た別組織の襲撃によって壊滅状態に追い込まれたという情報が入った。
元より、他組織と比べて穏健派で、戦闘慣れしていない人間が多かったというのもあるだろう。この街すべてを侵略するつもりなら、小手調べにはちょうど良い相手だったのだ。
「それでヤク? よりによってうちで?」
「実際に、釣られた阿呆が居るだろう」
「……構成員が多いから目が届かなかった、なんて言い訳にもならない。すべては私の責任だ」
「それは……――!」
咄嗟に反論しようとしたクロエの口に指を当て、発言を遮るリナルド。
「そんな訳で、ヴェルデに少し後始末を頼むことになったんだ。けど、取引先との円滑なお付き合いというのも勿論重要だからな。頼んだよ、クロエ」
「……ボス、そろそろお時間が」
後ろでずっと控えていた男が、リナルドにそっと耳打ちする。それを聞くと、彼は未だ納得した様子ではないクロエに歩み寄り、背中をぽんと軽く叩いた。
「さあ、クロエ。早く行かないと約束の時間に遅れてしまう。……行ってらっしゃい。良い報告が聞けることを、期待している」
「クロエさん、車を出しますのでこちらに」
仲間にも促され、クロエは渋々といった体で歩き始める。しかし、玄関を出る直前、一度振り返ると大声で叫んだ。
「帰ったらちゃんと色々説明してよね!! もし、っ……抗争になるなら、僕の力が必要でしょ!?」
リナルドはその声に答えなかった。ただ、ゆるりと手を振り、クロエの姿を見送っただけだった。
「……言わなくても、良かったのですか」
「今じゃなくてもいい。それだけさ」
二人だけになったエントランス。主語のないヴェルデの問いに、最初から決められていたかのようにリナルドは返した。
殺害されたファミリーの幹部の遺体には、特徴的な点があった。
使用されたのは刃物で、恐らく死因は失血によるもの。そこまでは珍しくない話。問題は、その刃物による傷が、肩から腹にかけて斜めに走る大きなものだったことだ。抵抗した形跡は見当たらず、一瞬で息の根を止められたのだと見受けられた。街では大型のナイフも流通してはいるが、仮にそれを使ったとしても、一度でその大きさの傷を与えるのは難しいように思える。
「……幹部の遺体には、彼奴の持っている、カタナとか言う武器でなら与えられそうな傷が残っていました」
「ああ。だけど、それだけが決め手にはならない。そのために、第四地区の件も含めて調べようと言ったのはお前だろう?」
「彼奴は、幹部が殺害されていた頃には、部屋で寝こけていたでしょうから。……だが、誰もそれを見ていた訳ではない」
「私達の疑いの目を、あの子に向けさせるつもりだったのなら、あまりに浅慮だ。この件を指示した人は案外、賢くはないのかもしれないな」
ヴェルデは一度眼鏡を外すと、疲れた様子で目頭を揉む。それから大きく息を吸い込み、長いため息を吐く。俯けた顔が再び前を向いた時、彼のルビー色の瞳は力強い光を宿していた。
***
「くそ……あの女狐……」
地を這うような声で呟き、夜風に当たりながらふらふらと通りを進む。あの後、取引先で飲めない酒を無理に口にする羽目になったのもあり、クロエは満身創痍だった。
通りは風俗店が軒を連ねる区画から程近い場所であるためか、日付を越えてしばらく経つ割には人が多い。客引きをする娼婦の姿もちらほら目に入る。
「(どうしよ……絡まれたくないな。今日はさすがに上手く躱せる気がしない……)」
クロエとて、いつも能動的に女を買っている訳ではないのだ。相手から声を掛けられてなし崩し的に、ということも多い。
向こうは金銭が得られて、こちらは溜まったものが発散出来る。お互いに利となる話。それだけのことで、つまりはそれ以上も以下もない。故に、クロエが同じ相手と二度寝ることはけして無かった。何度も関係を持って、他者と過剰な繋がりが出来てしまうことは、この街の息苦しさを加速させるような気がしたのだ。
「……あー……頭、いた……」
ひやりとする夜気は、肌の表面を撫でるばかりで、身の内の熱と気持ち悪さを緩和してはくれなかった。ガンガンと痛む頭に手を当て、ついにクロエは路地の隙間に入る形で座り込む。
「なあ。アンタ、大丈夫か……?」
不意に、上から声が降ってくる。壁に背を預け、腕で目元を覆っていたクロエは、体の怠さを押して声のした方を見上げた。
クリアでありながらも、高い訳ではないその声は、すぐに男のものだと理解出来た。だが、視界に入った姿がそう認識可能なものとは言えなかったため、クロエは一瞬困惑した。
明るい歓楽街の中でも鮮やかに見える、フード付きの赤いケープ。こちらを覗き込む大きな瞳は対照的に、真昼の青空のように透き通った色をしている。絹糸のように艶のある金の髪は、フードの端から流れ落ち、ネオンの灯りを受けてきらきらと煌めいていた。
「(……男、だよね?)」
幼げな面差しはどちらとも取れるように思える。短いボトムから伸びた脚はすらりと長く、容易く折れそうなほどに細く見えた。太腿の真ん中から下を覆う黒のニーハイソックスと、その上を這う同色のガーターベルトが、余計にそれを際立たせている。
「……顔色が悪い。立てるか……? 近くにオレが使ってる部屋がある。そこで休んだ方がいい」
「(オレって言った……)」
愛らしい見かけをしているが、やはり男性のようだ。クロエがそんなことをぼんやり考えていると、少年は彼の腕を引き立ち上がらせ、その腕を肩に担いで歩き始める。しかし、百八十センチ近くあるクロエとはかなりの身長差があり、足取りは随分と覚束ないものになる。
「……親切だね、君」
「別に、そんなんじゃない。話す元気があるなら、もう少しちゃんと歩いてくれ。重い」
彩度の高い灯りが明滅する通りの中を、二人はゆっくり進んでいった。
***
――母親は娼婦だった。
客の一人であり、東洋からの流れ者だったらしい父親と出会い僕を産んだ。生まれる前にまた何処かへ旅立ったという、そいつの顔は知らない。そいつが残していったのは、東洋に伝わるカタナとかいう武器と、この「クロエ」という名前だけだ。
初めて人を殺めたのは、十七歳の時。忘れもしない、炎天の日。
母親が質の悪い客に当たり、嬲り殺しにされた。その報復だった。父親だという男が残していった武器。震えるほどの切れ味。圧倒的な力。ろくに生きる術も知らなかった僕は、身に余るそれに引き摺られるままに、街で絡んでくる連中を沈めては日銭を稼ぐ暮らしを始めた。
そんな生活を続けていくらか過ぎた頃。たまたま手に掛けたのが、ロッソファミリーの人間だった。まずいと思った時には既に遅く、瞬く間に包囲され逃げ場を失った僕の前に現れたのが、リナルドだ。
先代を亡くしたばかりのファミリーを、当時十歳という若さでまとめ上げていた彼には、きっと生まれながらにして人の上に立つための能力が備わっていたのだと思う。どう見たってただの子供にしか見えないのに、何故か僕は圧倒されて声も出なかった。
「力に溺れ、闇雲に振り回すだけなら、いずれは錆びつく。……そうなるには惜しいものを感じる。どうだ、私の下で働いてみる気はないか?」
こうして僕はロッソファミリーに拾われて、今に至る――。
「(……久しぶりに、昔の夢を見たな)」
緩やかに意識が浮上し、クロエは自身が寝ていたベッドが自室の物ではないことに気がつく。
のろのろと身を起こし、周囲を見回す。知らない部屋だ。どうやらどこかのホテルらしい。身に着けているのは備え付けのナイトガウンと下着のみ。
「えーっと……」
昨日のことを思い出そうと、思索に耽るクロエ。昨夜は、ヴェルデの代わりに出向くことになった取引先とのパーティーで、強い酒を飲まされて、それから――。
「起きたのか」
「っ!?」
背後から突然声を掛けられ、クロエは飛び上がりそうなほどに驚いた。誰も居ないと思っていたのに声がしたことは勿論、他者の居る部屋で今まで熟睡していたこと、そしてその存在に全く気がつかなかったことも、驚きに拍車をかけていた。
「(かなり酔わされてたとは言え、殺し屋としてどうなんだ、僕……)」
こんなことは初めてだった。これまでどんな相手と寝たところで、クロエは隣で眠りに就くどころか、その場に長く留まることすらして来なかったというのに。
「……君は、誰?」
「アンタ、もしかして何も覚えてないのか?」
振り返った先の相手に問う。バスルームから出てきたらしいその相手は、濡れた頭にタオルを被り、下着一枚の姿でそこに立っていた。
華奢な肢体。長い髪。陶磁器みたいになめらかで白い肌。けれどその胸元に柔らかな膨らみは見当たらないし、下着はグレーのボクサーパンツだった。
「(男…………あ、)」
思い出した。ネオンの中で煌めく金糸。赤いケープ。
「昨日の赤ずきんちゃん!」
「オイ、変な呼び方するな」
「だって名前知らないし……」
クロエの呼称に一瞬顔を顰めた少年は、少し考えた様子の後、口を開いた。
「……見ての通り、オレは男娼だよ。名前はア……じゃなかった、ステラだ」
「ふーん、かわいい名前だね。まぁ、僕もあんまり人のこと言えないけど……」
自分で聞いた割には気の無い返答をしつつ、ベッドから降りて再度室内を見回すクロエ。ステラと名乗った少年がもし物取りの類なら、既にこの部屋には居ないだろうから、彼は本当にただの男娼なのだろう。けれど、衣類を含め、自身の所持品が何ひとつ見当たらない。
「僕は……昨夜、君を買ったの?」
「本当に何も覚えてないのか……」
「君に声を掛けられたとこまでは覚えてるよ」
言うべきか心底迷っている。そんな顔をした少年が、ややあって自身の背後にある部屋の扉を親指で差した。
「……アンタ昨日、部屋に入るなり吐いて倒れたんだよ。後始末が大変だった」
「……うっ、わー……それ本当? 僕めちゃくちゃ迷惑かけてるじゃん……ごめん……」
彼がわざわざそんな嘘を吐く理由は無いから、本当の話なのだ。道理で気分がスッキリしている訳だ。醜態を晒した記憶が無いぶん、余計に質が悪い。自分でも普通に引く。
「クリーニングした服は戻ってきたから、ここに掛かってる」
そう言って少年はベッド脇に備え付けられたクローゼットを開ける。中にはクロエが昨夜着ていたパーティースーツが、受け取った時と変わらぬ乱れの無い状態でハンガーに掛かっていた。その隣には、昨夜の記憶にも残っている赤いケープもある。
「何から何まで本当にありがと……。あーもー、情けないなぁ……」
クロエはがしがしと頭を掻く。寝乱れた濡羽色の髪が、狼の尾のように広がって揺れる。
「別にいい。……誰にも抱かれずに過ごした夜は久しぶりだから、楽なくらいだ」
いくつか掛かったハンガーの中から白いシャツを取り、腕を通しながら少年はそう言った。よく見ると、なめらかに見えた素肌の上には、古いものからまだ付いて日が浅いだろうものまで、様々な傷があることに気づく。
「……その傷、客に?」
「まあ……色んな奴が居るからな」
一番新しいものと見受けられる、太腿の細い傷からは、薄く血が滲んでいた。それを認め、クロエは自身もクローゼットへと向かうと、ハンガーに掛かったスーツのジャケットから、ポケットチーフを取り出す。
「脚、見せて」
「え、オイ……、っ!」
クロエは少年の足元に屈むと、太腿の傷の上に広げたポケットチーフを巻きつけ結ぶ。
「気休めだけどさ、血が出てる上から服を着るよりはマシでしょ?」
「……いつものことだ。この程度、すぐ治る」
落ち着かない様子で巻かれたチーフを撫でる少年。シルク素材のなめらかな感触。
「これ……高いんじゃないのか」
「いいよ別に。どうせこの服着るの、今回限りだろうしね」
当惑している少年を横目に、クロエもガウンを脱いでスーツに着替える。本当はバスルームで汗を流してから部屋を出たいところだが、すぐにでも屋敷に戻らないとまずいだろう。普段の服装ではなかったこともあり、端末を自室に置き忘れてきたため連絡も出来ない。
「(まーた怒られるんじゃないの、これ……)」
仕事で飲まされた酒が原因で動けなくなってしまったとは言え、あの時仲間の車に素直に乗らなかったのも、今に至る要因のひとつだ。咎められる理由の方が大きい気がして、クロエは憂鬱になる。
「……ねぇ。僕ってどのくらい寝てた? 仕事の帰りだったから、早く戻らないとまずいんだけど」
部屋の壁掛け時計は、電池が切れているらしく止まっている。問われた少年もそのことに気がついたようで、サイドボードへと足を向けると、抽斗から自身の端末を取り出し時間を確認した。
「そうだな……五、六時間は寝てたんじゃないか。今は朝の八時だ」
「八時ぃ!?」
クロエは大慌てで窓へと駆け寄る。遮光カーテンで覆われた室内は間接照明しか光源が無く、既に朝を迎えていることに気がつかなかったのだ。
「うわ……ほんとだ、太陽が出てる……」
カーテンの端を持ち上げ、ちらりと窺った外は明るい。このまま屋外に出るのは、クロエにとって自殺行為に等しかった。
「うーん……どうしよ〜……」
頭をカーテンに埋め、うんうん唸っているクロエの背後。少年が端末の入っていた場所の隣の抽斗を、音を立てぬようにそっと開ける。そこには、よく研がれたフルタングのナイフが一本、収められていた。
少年はクロエの様子を窺いながらもナイフにそろりと手を伸ばし、柄に触れる。彼はまだ背を向けている。
そこからの動作は、素早かった。
ナイフを掴んだ少年が、一直線にクロエを目掛けて突進してくる。その背に刃先が届きかけた次の瞬間、クロエの姿は消えた。
「っ!?」
「……ひとつ、思い出したよ」
目標を失い、バランスを崩した少年の体が、分厚い遮光カーテンに抱き込まれるように沈む。
身を翻し彼の背後に回り込んでいたクロエに、つい先程までの軽薄な青年の様相は影も形もない。無感動に倒れた少年を見下ろし、赤いケープの首の後ろを掴むと、無理矢理に立たせたその体を側にあったベッドへと放った。はずみで少年のブーツの片方が脱げ、ごとりと重い音が部屋に響く。
「その脚の傷は、僕が付けたんだ」
カーテンに絡まるように突き刺さっていた少年のナイフを、クロエが手に取る。刃に絡む生地ごと引き裂きかねない勢いで掴んだそれを、ベッド上の少年に向かって突き立てた。
「……ひ、」
少年の喉から、悲鳴にもなれなかった細い息の音が漏れる。
ナイフは少年の顔からほんの数センチ横、羽毛の詰まった枕に深々と突き立てられていた。切り口から零れた羽毛が、ふわりふわりと場違いに柔らかく舞う。
「昨夜も、君は僕を殺そうとしていたよね。太腿の傷は、その時僕が切りつけたものだ」
「……、……っ」
柄を握りしめる手とは反対の手で押さえつけた首。掌から少年の震えが伝わってくる。声ひとつ出せないのは、きっと喉を圧迫されているせいだけではない。
「……君、殺し屋向いてないよ」
枕から引き抜かれたナイフが、少年の頭上でひらめく。今度こそ、殺される。
少年がぎゅう、と目を瞑ったその瞬間、何かが崩れ落ち、床に叩きつけられる凄まじい音がした。
「…………?」
そうっと、少年は目を開き、音の方角へと目を遣った。どうやら、何度も強い力が掛かり、負荷に耐えられなくなったカーテンレールが、破損し落下した音のようだ。覆うものが無くなった窓から、朝の陽射しが入り込んで室内を照らす。
落下音に気を取られたのか、クロエの意識が自分から逸れているのを感じ、少年は急いで彼を突き飛ばし逃れるべく、彼の胸に手を突いた。しかし、次の瞬間、自分の上に伸し掛かるように倒れ込んできたクロエに、それを阻まれてしまった。
「……は、はぁ、っ! ……はひゅ、」
浅く、乱れた呼吸の音。額には脂汗が滲む。一瞬前の無慈悲な殺し屋の顔が嘘であったかのように、ひどく状態が悪そうなクロエ。
「(嘘でしょ……これはまずい……。どう見ても素人相手とは言え、マジで殺されっかも)」
形勢は逆転したと言っていい。
命を狙っている相手を返り討ちにするつもりが、このままだとこちらが殺されてしまうだろう。
自身の背を照らす陽光の熱さ。炎天の記憶に脳髄が揺らぐ。自由にならない体に、クロエは歯噛みする。
下敷きにした少年が身じろぐのを肌で感じ、こんなところで終わるのかと、過呼吸を起こし回らなくなった頭で思う。
その時、震える手を叱咤して、なんとかナイフを握り直そうとするクロエの背を、不意に何かが撫でた。
「……え、?」
恐る恐る、といった様子で、自身の背中を往復する感触。少年の、掌。
ややあって、背を撫でるのとは反対の手が、クロエの頭に幼子をあやすかのような手つきで触れる。不思議と、自身を襲う吐き気や震えが、遠のいていくのがわかった。
「……大丈夫、か?」
自分もまだ恐怖から解放されていないというのに、クロエを案じるような声。思わず伏せていた顔を上げれば、どこまでも透き通っている空色の瞳と搗ち合う。
「あ……その、妹が不安がってる時とか……こうしてやると、落ち着くみたいだから、」
「……君さぁ、本当に殺し屋とか、向いてないよ」
少年の上から起き上がり、長いため息を吐くクロエ。
ベッド上のナイフを握り直すと、少年が目に見えて身を竦ませるのがわかったが、構わずに掴んだそれを自身の背後へと雑に放った。ナイフは放物線を描き、やがて床へと突き刺さった。
「……もー何もしないよ。気が削がれちゃった」
窓の外の晴天を睨み、もう一度ため息を吐くと、クロエはのろのろと身を起こす少年と入れ替わりにベッドへと寝転んだ。
「どうせ日が沈むまでは帰れない。僕はここで夜まで寝ていくから、君はさっさとどこか行ったら?」
少年を追い払うように掌をひらひらさせ、クロエはすっかりやる気を失った様子だ。
「……日光に当たると良くないのか?」
純粋な疑問と、探りを入れようとしているのと、ちょうどその中間みたいな表情をした少年が問うてくる。
「……まあね。別に病気とかって訳じゃないけど、気持ちの問題。陽の光が嫌いなんだ」
何故初対面の人間にこんな話までしているのだろう、とクロエは思う。仲間に吐けない弱音も、他人相手ならば何の意味も持たないからか。
自然光で満ちた室内の中で、少年の細く艷やかな髪がきらめいている。クロエはそれを一房手に取ると、戯れに唇を寄せた。
「……僕の気が変わる前に、逃げた方が身の為だと思うけど?」
「それは、出来ない」
思いの外迷いの無い返答に、少しだけ面食らう。
「どうして? 二回も仕留め損ねた人間を相手にするより、依頼主の方を消しちゃった方がラクだな〜とか、思ったりしない?」
「……そういう問題じゃないんだ」
ぐ、と少年が唇を噛みしめる。握られた拳に力が入っているのが見て取れた。
「オレだって、好きでこんな事やってるんじゃない……!」
薄青い瞳が、湖面のように波立つ。弄ばれていた金の髪が、クロエの指先からするりと逃げ出す。
その時、サイドボードの上に置かれていた少年の端末が鳴った。
「! まずい、」
少年が転がるようにしてサイドボードへと向かう。彼が端末を持ち上げるのとほとんど同じタイミングで音が止んだ。
「……出なくていいの?」
「電話じゃない。アラームだ」
端末を握りしめた少年が、クロエへと向き直る。
「今すぐここを出ろ。……もうすぐ、監視役が来る」
「監視……。いや、僕を殺そうとした時点で、ただの男娼ってのはウソかなとは思ってたけどさ……。君、ほんとは一体何者なの?」
「……答えると思うのか」
「いいや?」
真意の読めない笑みを浮かべ軽く答えるクロエに対し、眉を寄せる少年。
「……このアラームが鳴ってから、きっかり三十分でアイツは来る。その前に、どうか帰ってくれ」
クロエが、ようやくベッドからゆっくりと身を起こした。それから、焦っている様子の少年を気にも留めず、寝乱れた髪をのんびり結い直す。
「ターゲットをあっさり逃がしちゃうんだ?」
「……元々、ああいうのはオレの仕事じゃない」
床に刺さったままのナイフを一瞥し、少年は言う。
「(よく言うよ……)」
昨夜の記憶。部屋に着くなり、ふらついているクロエに先程と同じようにナイフを掲げ向かってきていた少年の姿を思い浮かべる。
尤も、反撃する為に急に動いたのもあり、その後すぐ嘔吐し昏倒してしまったことを思えば、今もこうして己の呼吸が変わりなく続いているのは、彼が殺し屋らしくないおかげ、と言えるのかもしれないが。
真っ直ぐベッドへと歩み寄ってきた少年は、座したままのクロエの頭に、自身が身につけていたケープを出し抜けに被せた。
「わ、何っ!?」
「……気休めかもしれないが、何も無いよりはマシだと思う」
「……あは、スーツに赤いケープかぁ。前衛的だね」
肩に掛かるケープの裾を摘み、クロエが笑う。その態度に、むっとした様子の少年がクロエの両腕を引き、無理矢理ベッドから立たせる。
「人に逐一突っ掛かってる暇があるならいい加減どっかに行け! こっちは大変なんだ!」
ぐいぐいとクロエの背中を押し、部屋の出入口まで連れて行くと、少年はそこで立ち止まった。
「……それ、返さなくていい。どうせもう二度と会うことは無いだろうから。この場所には金輪際近寄るな」
研がれたナイフの切っ先のような視線が、クロエに刺さる。純粋な敵意とは、また違うような気のする、それ。
その言葉を最後に、クロエは室外に押し出され、無機質な音と共に扉は閉まった。掠れたルームナンバーのプレートを暫し見つめた後、その場に蹲るクロエ。
「……最後まで半端にこっちへ気ぃ遣っちゃってんの、笑える」
俯くのに合わせて揺れるケープの裾を指先で弄びながら、独り言ちる。言葉とは裏腹に、浮かぶ表情は今にも泣き出しそうにさえ見えた。
「(無条件で優しくされたら、どんな顔すればいいのかわかんないよ)」
クロエがため息をひとつ零したその時。廊下の曲がり角の奥から、話し声が聞こえてくる。段々とこちらへ近づくそれは、この部屋を目指しているようだった。
慌てて立ち上がると、クロエは背後にあった窓を開ける。
「うわ、結構高い……けど、まあ仕方ない、か」
呟くと同時に窓枠へと足を掛け、次の瞬間、クロエは開けた窓から飛び降りた。隣接するビルの壁を蹴り、落下速度を緩めながら地面へと着地する。
部屋があったのは三階。上を見ると、ちょうどクロエの居た位置に話し声の主が姿を見せたところだった。彼らの視界から逃れるように、足早にそこから離れる。
朝の光に包まれ微睡んでいる繁華街に、自分の姿は浮きすぎていた。
「あのビル……」
もう一度だけ後ろを振り返って、ビルの外観を目にした時、気がついた。そこは、一昨日に話題にしたばかりの、訝しい店が入ったとされているビルだった。
「……なるほどねぇ」
自然と、歩くスピードが早まっていく。期せずして、色々なことが繋がる予感がした。
ともだちにシェアしよう!