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第2幕

 窓辺に穏やかな午後の陽射しが差し込んでくる。昼寝をするにはぴったりの時間だ。温かみのあるマホガニー材のデスクの上、積み上げられた書類は先程から一枚も捲られていない。  体躯にそぐわない大きさをした革張りの椅子に座り、窓の外を見るともなしに見ていたリナルドを、ノック音が振り向かせた。彼はその音で席を立ち、カーテンで陽射しを遮り室内の照明を入れる。手慣れた様子で一連の動作を済ませると、ようやく部屋の外へと応答する。 「入っていいぞ」 「リナルド、お待たせ〜」  入室してきたのはクロエで、その姿はシャワーを浴び普段の仕事着に着替えた、すっかり見慣れたものに戻っている。ヴェルデと共に部屋の前で帰りを待ち、戻った彼には一度身支度を整えた後に、自室に来るよう命じてあったのだ。しかし、よく見ると髪が少し湿っているような気がする。 「おや、髪を乾かして来なかったのか?」 「だって急いでたし! 昨日の報告もそうだけど……一昨日のことだって、まだ……」 「……そうだな。一昨日の件については、もうすぐヴェルデが現在までにわかっている情報を纏めた物を持って来るから、お前の用事と合わせて、情報屋の所へ運んで欲しい。それまで、取引先の屋敷を出た後の話を聞かせてもらえるか?」 「ん、わかった」  情報屋――第三地区と中央地区の境にあるパン屋『パネットーネ』の地下に拠点を構えるロマーニュという男だ。まだ年若いが優秀で、クロエ達も贔屓にしている。  ヴェルデの到着を待つ間に、クロエは昨夜のことを掻い摘んで話した。尤も、思い出せたのは出来事の一部だけというのもあり、実際に部屋で何が起きていたのかは、あの少年の言葉を信じるしかないのだけれど。 「(言われた範囲で嘘を吐かれた感じはしなかった。けど……本当のことだって聞き出せてはいない)」  話をひと通り聞き終えたリナルドは、デスクの上で組まれた指に顎を乗せ、何やら考え込んでいる。やはり、素性の知れない相手の前で無防備な姿を晒してしまったのは手痛い失敗だろう。 「……その子のことは詳しく調べるよ。気になることもあるから」 「ああ、わかった。この件はお前に任せる」  ちょうど話がひと区切りしたタイミングで、再び扉がノックされた。 「どうぞ」 「失礼します。ボス、(くだん)の資料をお持ちしました」  リナルドの応答の後に入ってきたのはヴェルデで、先程話題に上っていた資料を持っている。彼はクロエの姿を認めると、スーツの胸ポケットから出した何かを放り投げて寄越した。 「っと、何?」 「情報屋に行くのだろう。資料のデータをそのメモリに入れてあるから持っていけ。失くすなよ」 「それでは、状況を整理しようか」  応接用に設置されているソファーへと移動し、三人はローテーブルを挟んで向かい合わせに座った。広げられた資料を一枚摘み上げると、リナルドが口火を切る。 「まず、うちの幹部を唆して、薬物を流通させようとした不届者の組織が特定出来た」 「第四地区襲撃も同じ連中だな」 「……プロチオーネ、商會(しょうかい)」  資料に書かれた名称を、ぽつりとクロエが口にする。 「表向きは貿易会社を装っているけれど、蓋を開ければ真っ黒な組織さ。薬物に人身売買、密輸……手を付けてない事の方が少ないんじゃないか」  手にしていた資料をテーブルに置き、リナルドは次の書類を捲る。ヴェルデが、彼の言葉に続けるように話し始めた。 「構成員に関してわかっていることも少ない。余所の組織を襲撃しては、使えそうな人間を引き入れたりもしているようだが……」 「幹部クラスさえ頻繁に入れ替わるせいで、頭が誰なのかが判然としないのも、気色の悪いところだな」 「……あ、このオッサン、僕が撃った奴だ。豚みたいだったから覚えてる」  捲られた資料の中の顔写真に目を留め、クロエが呟く。その写真を指先で叩きながら、ヴェルデが苦々しい顔をする。 「貴様が逃がした奴については、今のところ特定出来ていない。あの場を仕切っていたのがこの幹部であったことを考えれば、護衛の末端構成員だったのだろうが……」 「もうこの街から逃げ出してる可能性だってあるけど……大丈夫、ちゃんと探すよ」  自身に落ち度があることを理解しているせいか、何時に無くしおらしい態度のクロエに、ヴェルデが居心地悪げに鼻を鳴らす。 「……現状、わかっているのはこの程度だ。だが、こちらの地区そのものを狙っている以上、更なる攻勢が予想されるだろう」 「だから、今は残った幹部全員に護衛を付けているんだ。それと、彼らに黙って監視の目も」 「他に唆される人間が出ないとも限らんからな」 「なるほどね……。じゃあ、ロマーニュには商會の動きを探ってもらってるってこと?」  テーブル上の資料のうち、数枚を纏めてクロエ達に見えるように広げるリナルド。見え消しの施された名簿のような書類。 「それもあるが……。第四地区の生き残りを探してもらっている。どこかに身を潜めているか、或いは既に商會に与しているか……。腕の立つ戦闘員だった人間の安否が不明でね」  その人間の行動如何によっては戦局に影響が出るということだろう。 「こちらでもアンテナを張っていない訳では無いが、割けるリソースにも限度があるからな」  ヴェルデは難しい顔で資料を見つめている。 「それで、比較的自由に動けるお前に、情報収集を頼みたいんだ」 「俺達が集めた情報と合わせれば、この先の動きもかなり読みやすくなるだろう。商會との全面抗争の前に、出来る限りの対策はしておきたい」 「ふうん……。了解、僕の役目は大体把握したよ」  先程受け取ったばかりのメモリースティックを手の中で弄びながら、クロエは頷く。  夜を待って動くことになり、三人はその場で解散した。    ***  日没を迎え、クロエは自室で持ち物を確認していた。最小限しかないとは言え、どれも任務の遂行には必要なものだ。不備があってはならない。  コートのポケットに連絡用の端末。ズボンの方のファスナー付きポケットに、ヴェルデから預かったメモリースティック。尻ポケットには財布を入れて、チェーンでベルト通しと繋ぐ。そして、革製のキャリングバッグを肩から掛ければ準備は完了だ。  太腿のホルスターと、コートの内ポケット、端末を入れてない方の外ポケットなどに、予備として数本のナイフや銃を仕込んではいるものの、今夜の仕事では使うタイミングは来ないだろう。そう、思いたい。 「これ持って出るの、久しぶりだな……」  肩に掛かった縦長のバッグには、クロエの得物である刀が収められている。父親だという男の置き土産。手入れこそしているものの、余程のことが無ければ抜くことはない。けれど、これが必要になると感じる夜はしばしばあったし、そういう勘は良く当たった。  部屋を出る直前、カーテンレールに引っ掛けたハンガーに目が留まった。あの少年から借りたケープが、洗われたことによる湿気で赤を濃くして佇んでいる。 「……いつ返しに行けるかなぁ」  返さなくていいとは言われた。けれど、なんとなくそれをゴミ箱に突っ込むことも出来ず、洗濯までしてしまった。手間を掛けたなら、返さないのもなんだか癪だから。  商會絡みの事態が収束するまでは、個人的な時間は取れそうにない。なるべく早く事が片付くよう、自分もさっさと行動しよう。そう思って、クロエは今度こそ部屋を出た。  ガラス窓の嵌め込まれた木製のドアを押し開けば、来客を知らせるベルが軽やかに鳴った。やたらに高さのあるヒールが床を叩く音で、閉店間際の店内は一気に騒がしくなる。 「おばちゃーん! こんばんは、何かお腹に溜まりそうな物って残ってる? あったらちょーだい!」 「あらあら、クロエちゃんじゃないの。久しぶりねぇ。そうだねぇ……カルツォーネとフォカッチャが余ってるわよ」 「じゃあそれで! お金これで足りる?」 「はい、毎度あり。ロマちゃんなら、今日は下に居るよ」 「今日は、じゃなくて今日も、でしょ? あの子ほとんど外出ないじゃない」  軽口を叩きながら買ったばかりのカルツォーネにかぶりつくクロエに、パン屋の女店主は苦笑する。  情報屋のロマーニュが根城にしている、ここ『パネットーネ』のパンが、クロエは結構好きだった。近隣での仕事がある時くらいしか寄ることが出来ないが、この店のパンはいつ何を食べても美味しい。  勝手知ったる何とやら、で店のバックヤードへと回り込んだクロエは、小麦粉の袋等が山積みにされている倉庫の奥までやって来ると、床の一箇所をつま先で叩いた。すると、床板の一部がぱたりと持ち上がり、地下に向かうための階段が現れた。  階段を下りていった先、扉すら無く布で覆い隠しただけの入口をくぐると、情報屋のテリトリーに入る。  地上の店構えからは想像も出来ないほど広く取られた空間。壁を覆うように設置された大量のモニターと、その正面に置かれた長机。作業スペースの割に椅子は一脚しか無いが、その分、長時間座ったままでも疲労を感じにくそうな、高級品と思しき椅子だった。  作業場の反対側には高めの収納棚がいくつか置かれており、その中は資料やら何かの紙束やらでいっぱいだ。  部屋の奥には年季の入った木製のテーブルと、セットの椅子が二脚。側に簡素な食器棚もある。更にその向こうには、簡素なベッドがひとつ。と、生活するのに最低限必要であろう物は揃っていた。 「やっほ~、ロマ! 久しぶり〜! 元気だった?」  朗らかなトーンでモニター前の椅子に向かって声を掛ければ、くるりとそれが回転し、座っていた人物が顔を覗かせる。 「クロエさん……!! 久しぶり〜!! もー、全然顔出してくれないから、死んじゃったんじゃないかって、ボク気が気じゃなかったんだよ〜」 「またまたぁ。どうせ街のカメラハッキングして見てるんでしょ?」 「まあね! 正直セミフレッド通りのあの店の女より、ボクの方がかわいいとは思う」 「あー、あれは向こうから声を……って、そんな話しに来たんじゃないんだった。お仕事だよ、ロマーニュ」  クロエを見るなり猫のような大きな瞳をきらきらと煌かせる、青年と少年の狭間に居るような風貌の男。モニターの明かりに照らされた髪は銀色をしていて、前髪に一筋だけ紫色のメッシュが入っている。更に、あどけない顔立ちには相応しくない量のピアスが小さな耳にじゃらじゃら付けられていて、なんともアンバランスである。 「それって、リナルドさんから頼まれてる件?」 「そうそう。これ、ヴェルデから預かってきたデータね。うちの押さえた情報と合わせて、連中の動きをもう少し詳しく読めないかなって」 「うーん……ボクの方でも色々網は張ってるんだけど……。正直、今の時点でわかってる事は少ないかな。連中、まるで色んな思惑が絡み合って、好き放題動き回ってる感じなんだ。逆に行動が予想出来ない」  困った様子で頭を掻き、ロマーニュはデスク上に積み上げられた書類の中から、一枚を引き抜くとクロエに渡す。受け取ったそれに目を通すと、黒髪の女性の顔写真が最初に目に入った。それから、簡素なプロフィールと略歴が記されたそこに、気になる単語を発見する。 「この女の子何者? ……得物のとこにカタナ、って書いてるけど」 「殺し屋、って言うよりは用心棒の方が近いかな。名前はシノノメ。リナルドさんが探してるっていう、第四地区の生き残りだよ。……どうも、商會と接触があるっぽい」  ――これ見て。  ロマーニュが手元のキーボードを操作すると、モニターのいくつかに、書類の女性が映る。街のあちこちに設置されている防犯(とは名ばかりの)カメラに記録されたものだ。 「この人達、クロエさんが始末した、薬物の取引に来てた連中でしょ?」 「あー……そうかも。殺した人間の顔なんていちいち覚えてるもんじゃないけどさ。……あ、でも、この端に映ってる赤毛の奴……」 「ああ。クロエさんが珍しくやらかしちゃったっていう話?」 「やめてよ……。これでも一応ちょっとは反省してるんだからさー……」  クロエは苦い顔をしながら、モニターに目を凝らす。黒服の男と何やら会話している様子の女性。遠目の映像だが、帯刀しているのは見て取れた。別のモニターには、黒服と別れた後と思しき女性の姿が映っている。それを指差したロマーニュが言う。 「この路地、抜けた先が例の廃教会なんだよね」 「……なるほど。繋がった」  幹部殺しの実行犯は恐らく、彼女だ。  リナルド達が意図的に何かを伏せたがっているのを感じていたから、クロエは自力で調査部隊の持っている情報を探った。殺害に使用されたのが自身が所持しているのと同じような日本刀で、かつ、それは街では流通していない。そのことを告げて自分達がクロエを疑っていると勘違いされないよう、黙っていたのだろう。だが、クロエにとって、それは杞憂でしかなかった。 「(寧ろ、黙っていられる方が気になっちゃうんだけどなぁ……)」 「さすがに教会近くまではカメラが置かれてないから、状況証拠でしかないけどね」 「いいよ、別に。誰が殺したかなんて大して重要じゃない。大事なのは……僕が片付けるべきは誰か、だよ。リナルドが邪魔になるって言うなら、誰であろうと僕は消す」  昏い瞳をして呟くクロエを前に、キーボードを叩くロマーニュの指先に僅かに力が入る。そこへ、張り詰めかけた空気を払拭するような第三者の声がした。 「……あのー、コーヒー淹れたんで、続きはこっちで話したらどうっスか?」  声を掛けてきたのは、少し軽薄な雰囲気のある、明るい茶色の髪をした青年だ。部屋の奥のテーブルに三人分のカップを置きながら、クロエ達を手招いている。二人は顔を見合わせ、テーブルへと向かうことにした。 「居たんだ、ブルーノ。全然気づかなかった」 「ボクが見ての通り調査で忙しくしてるってのに、何遊んでるんだよ」 「コーヒー淹れてやったのにこの仕打ち!!」  二人からの容赦ない物言いに憤慨しながら、カップのひとつに角砂糖を放り込むブルーノと呼ばれた青年。 「はい、ロマ。ちゃんとお砂糖六個入れたっスよ!」 「ん」  当たり前のように椅子に座ると、立ったままのブルーノから渡されたカップを素気ない態度で受け取り、そのまま口をつけるロマーニュ。くっきりと浮かぶ上下関係。 「とりあえずデータは置いてくから、何かわかったら連絡ちょうだい。それと……個人的に調べて欲しい件があるんだよね」 「ん、オッケー。ついでにあの赤毛の人も、足取り追えないか見てみるね。……それにしても、大体のことは自力で調べちゃうのに、クロエさんがボクに依頼なんて珍しいね?」 「まあねー……。確証が無いから優先度を上げられないんだけど、商會の件もあるからしばらくはあんまり私用で動けないし」  そう言うと、クロエはトップスの胸ポケットから四つ折りにされたメモ用紙を取り出し、テーブルの上に広げた。 「えー、っと……、…………これ、何?」  言葉を探すように目を泳がせ、たっぷり間を置いた後、ようやっとロマーニュが口を開く。 「何って……似顔絵? 写真があれば良かったんだけど、この時スマホ忘れててさぁ。この子についての情報、些細な事でも構わないから集めて欲しいんだ」 「えっ……人!? これ人なんだ!? 赤と黄色のクラゲか何かかと思っ……、いや、クロエさん。あのさ、ブルーノでももうちょっと絵が上手いよ?」 「え〜〜!? ブルーノ以下ってのはあんまりじゃない? さすがにヘコむわ……」 「あんたら、本人を目の前にしてよくそんな景気良くディスれるっスよね!?」  ぎゃあぎゃあと喚くブルーノを尻目に、クロエはメモを裏返すと、ペンを取り出し情報を追記していく。名前、滞在していた店、服装や年の頃。欠片ほどしか知らない少年の話。 「僕が今知ってるのはこのくらい……名前はまあ、偽名かな。名乗るとき一瞬間違えそうになってたし」 「ふーん……。そのビル、ここ最近無断で商売始めたとこでしょ? ちょうど手を付けようと思ってた件だし、近くにカメラもあったはずだから、そこから何かしらわかるかも」 「頼りにしてる。よろしくね」  クロエから受け取ったメモを、ロマーニュは面白くなさそうに手の中で折っては開き、を繰り返している。 「……ねー、クロエさん。この世はギブアンドテイクなんだよ」 「うん? 情報料なら、勿論ロマの言い値で払うよ」 「そういうことじゃなくて、さ。ボクは――もっと違ったご褒美が欲しいな」  出し抜けに立ち上がったロマーニュが、向かいに座っていたクロエの横へと移動し、首に腕を回すようにしてしなだれかかってきた。二人分の体重を受けた椅子が軋み、嫌な音を立てる。  目の前で繰り広げられた光景に対し、蒼白になっているブルーノをちらりと見遣り、クロエは嘆息しながら絡みつく腕をやんわりと外す。 「払い方はもう出来ないよ。だって、君とは一度寝てるだろ? 僕が同じ相手と二度は寝ないって、ロマも知ってるじゃない」 「だーからっ、ボクをそのポリシーの最初の「例外」にしてよ、って話なんだけど! ……損はさせないと思うよ? ボクがどれだけ役に立つか、クロエさんも知ってるでしょ?」 「だぁめ。……「特別」がたくさんあったら、抱えきれなくなって、この街の息苦しさが増すだけだもの」 「でも……! むぐっ」  尚も追い縋るロマーニュの口に、先程『パネットーネ』で買ったフォカッチャを押し込み、クロエはそれ以上の話をさせないようにする。 「この話はもうおしまい。損得勘定で語らなくても、ロマにはもっといい人居るでしょ。……これまで通り、ビジネスライクな関係で居させてよ」  口に入れられたフォカッチャを咀嚼しながらも、まだ不満げな顔をしているロマーニュ。それには気がつかない振りをして、ぬるくなり始めたコーヒーを一気に飲み干し、クロエは席を立った。 「……それじゃ、そろそろ行くね。コーヒーごちそうさま」  高いヒールの音が遠ざかり、完全に聞こえなくなった頃、ブルーノが沈黙を破った。 「何もあんな歩く事故物件みたいな男を追っかけなくても、身近に素朴で優良な物件があると思うんスよね。……オレとか」 「そんなに暇なら、このメモの子の事、調べに行ってきてよ。こっちはこっちでやるから」 「まさかの総スルー! せめて一言くらい何か言ってくれたって……まあいいっス。行ってきますね……」  メモを受け取ったブルーノは、慣れた様子で鞄に物を詰め込むと、最後までロマーニュの方を気にしながらも街へと出ていった。その背中を横目で見送り、床板を押し上げて出て行く音が聞こえた頃、ロマーニュはため息と共に「うまくいかないなぁ……」と独りごちた。    *** 「……さて、来てはみたものの……」  クロエは現在、幹部の遺体が見つかった場所である、地区外れの廃教会を訪れていた。時刻は零時を回っており、中心街とは違い街灯すら無い周辺は、暗く静まり返っている。  建物の真正面に立って見上げた屋根は、それなりに高い。屋根裏部屋があるらしく、人ひとりくらいならば通れそうなサイズの窓が付いている。  カメラに映っていたあのシノノメという女が幹部を殺害したのだとしたら、何故わざわざ屋根に吊るしたりなどしたのか。自分より身長も体重もある男をあの場所まで運ぶのはかなり骨が折れたことだろう。 「どうしてもあそこに吊るしたかった……?」  そうだとするなら、一体何のために。  考えながらクロエは足を進め、正面の扉を押す。鍵は壊れているようで、抵抗無く開いた。  明かり代わりに端末のライトを付け、中を照らす。使われなくなって久しい内部はひどく荒れ果てていた。床のあちこちに割れたガラスや木の破片が散らばり、聖堂内の両脇に配置された会衆席はボロボロだ。 「……ん?」  ふと、壊れた席の中に、上から何かを浴びせたかのように黒く汚れた物があることに気がつく。指先で汚れを擦ってみる。どうやら、乾いて黒ずんだ血液のようだ。 「ここで斬ったのか……」  クロエは更に奥へと進み、祭壇の側まで近づくと、周辺を注意深く探り始めた。よく見ると、祭壇の置かれている場所の床に擦れたような傷がある。 「(動かせるのかな、これ)」  普通に押したり引いたりするのでは、重くてなかなか動きそうではない。クロエは祭壇の上にいくつか固定されている錆びついた燭台を、端からひとつずつ引っ張ってみる。そうして、最後のひとつを引いた時、祭壇が鈍い音と共に動き始めた。  ゆっくりと祭壇が後退していくと、その下には地下室へと繋がると思しき階段が姿を現した。 「ビンゴ!」  とりあえず下りてみようと階段に足を掛けると同時に、下から駆け上がってくる足音が聞こえ、クロエは思わず立ち止まる。 「シノノメ……!!」  真っ暗な地下から現れたのは、十代半ばほどの少女だった。クロエの翳す端末のライトに、眩しそうに目を細める。明かりを受け輝く星色の長い髪と、青空色の瞳は、そう遠くない頃に目にしたはずの。  呆気にとられているクロエを前に、少女も驚いた表情をしている。想定した相手とは違う人間が居たのだから無理もない。 「だ、誰……?」 「(この子今、シノノメって言ったよな……)」  その呼称があの女性を指すものならば、この少女もまた、商會或いは第四地区の関係者ということになる。  少女は見知らぬ男を警戒し、少しずつ後退るが、足元は階段だ。足を踏み外し、後ろに倒れかける少女を、クロエは咄嗟に抱き寄せ事なきを得る。 「……怖がらないで、お嬢さん(シニョリーナ)。僕は君を傷つけに来た訳じゃないんだ」 「……あ、あなたは、一体――」  その時だった。背後で勢い良く踏み切る音が鳴り、次の瞬間には、クロエ目掛けて何かが振り下ろされる。  しかし、踏み切る音よりも早く第三者の接近を感じ取っていたクロエは、口を開けてあったキャリングバッグから素早く刀を抜き、攻撃を受け流した。キン、と響く金属音。後退した相手が持っていた得物も、自身が所持している物と似た刀であった。暗がりの中で、僅かな光を受けた刀身が鈍く輝いている。 「あっ、ぶないなぁーー……。後ろからいきなり斬りかかってくるなんて、僕じゃなかったら死んでたよ?」 「……今すぐ、その子から離れてください」  果たして、背後に居たのはあの映像に映っていた女、シノノメだった。ロマーニュの所で見た資料通りの黒い髪。黄金色をしたつり気味の目は、真っ直ぐにクロエを射抜いている。 「ねぇ、なんか勘違いしてない? 僕は別にこの子を探してた訳じゃないし、君と殺し合いしに来た訳でもないんだけど……」  聞く耳を持つ気はない、という意思表示か、シノノメは黙って再び刀を構え、クロエへと突っ込んでくる。側に立っていた少女を肩に担ぐと、クロエは続けざまの剣撃を受け流しながら、ひらりとシノノメの後ろに回り込んだ。 「……ちょっと、この子に当てる気? これじゃ、どっちが悪者かわかったもんじゃない」  シノノメの首筋に刃を沿わせ、動きを制する。すると、途端に担いでいた少女がばたばた藻掻き始めた。 「ま、待ってください! シノノメは悪くないんです! 確認もしないで飛び出したわたしが……」 「ステラ、やめなさい! その男を刺激しないで……!!」  一度少女を床に下ろそうと、クロエがシノノメから意識を逸らした一瞬のうちに、彼女は刃から逃れ、飛び退って距離を取る。着地した少女が、迷いなくそちらへ向かって駆けていくのを、ただ見送った。  二人分の、それぞれ異なる感情を宿した瞳に射抜かれ、クロエは嘆息する。明確な敵意と、困惑。あまり肌に刺されて気分のいい感情ではない。 「女の子にそんな目で見られると、ちょっと傷ついちゃうなー」 「……貴方、ロッソの『黒狗』ですよね。幹部殺しの報復ですか?」 「……なんで皆そのイヤな通り名の方で僕を呼びたがるんだろ……まあいいや。別にあの人が死んだことについてはどうでもいいよ。どうせ、うちに帰ってきたって末路は一緒だった」  手遊びに刀を揺らしながらクロエは言う。 「君に聞きたかったのは、プロチオーネと協力関係なのかってことだよ。……おねーさんたち、二人とも第四の生き残りでしょ? ああ、それから、歓楽街で会った――」  ――そこの可愛いお嬢さんと、も、そうかな。  クロエのその言葉にいち早く反応を見せたのは、ステラと呼ばれた少女の方だった。シノノメの背後から身を乗り出すようにクロエへ問うてくる。 「お兄ちゃんを……アルバお兄ちゃんを知ってるんですか!?」 「(あの子アルバって言うんだ。やっぱり偽名……というか、妹の名前を使ってたのか)」 「……アルバお兄ちゃんは、わたしの身代わりに、嫌なお仕事をたくさんしてるんです。本当はわたしが、プロチオーネの人達に言われたことだったのに……」  つらそうに目を伏せ語るステラを前に、クロエはあの少年――アルバがあの場所で何を目的として動いていたのかについて考える。殺されそうにこそなったが、初めから自身を目的としてあの場に居た訳ではないだろう。  ステラの口ぶりからすると、進んで商會に協力している感じはしない。それに、シノノメの幹部殺しや処理方法の意図がいまいち読めなかったものの、それも強制されてのことであるならば? 「ねぇっ、シノノメ! この人、あなたよりも強そうだよ。事情を話して、お手伝いしてもらうってのはどう、かな……」 「はぁ!?」  思わず頓狂な声を上げてしまったのは、クロエだけではなかった。  クロエが思索に耽っている間に、とんでもない提案が為されていた。先程目の前で自身とシノノメとの斬り合いを見た人間の発言とは思えない。 「突然何を言い出すのですか、ステラ!」 「(まぁ、当然だよね。僕が彼女の立場でもそう言う……)」 「私のことが信用ならないと言うのですか!? 私は、私はこんなにも貴女を護る為に尽力しているのに……こんな、たった今そこら辺からワサワサ涌いて出てきたような男に頼ろうだなんて!」 「そこ!? 重要なのそこじゃなくない!? ていうか人を虫みたいに言わないでよ!」  つい突っ込みを入れてしまったが、彼女達に届いている様子はなく。さめざめと泣き始めるシノノメを、ステラが懸命に宥めている。これでは、どちらが年上なのかわかったものではない。 「私はっ、貴女の為ならどんな悪行だって厭いません……! だからこそ、一昨日の夜にもこの場を荒らしたあの男を葬ったのではないですか……!」 「泣かないで、シノノメ……。でも、わたしはもう、お兄ちゃんにもあなたにも、つらいことをして欲しくない……」 「……ごめん一個だけ聞いていい? うちの幹部殺したのって、もしかして完全に自己都合だったりする?」 「虫と話す義理はありません。……あの男は私のステラに銃を向けたのだから、当然の報いです」  罵倒混じりではあるが、一応回答は得られた。幹部殺しが商會の命によるものではないというのなら、これ以上彼女達と話をする必要性も無い気がした。 「(というか、この子達面倒そうな気配がすごいから、正直もう帰りたい)」  そんなクロエの願いが通じたかどうかは定かではないが、絶妙なタイミングでコートのポケットの中にある端末が着信を知らせるメロディを鳴らした。 「はーい。只今それなりに取り込み中……って、ロマか。あれから何かわかった感じ?」  電話を掛けてきたロマーニュと、幾らか言葉を交わした後、クロエは端末をポケットに仕舞う。それから、未だ二人の世界から戻って来ていなさそうなシノノメ達の方を見る。 「あのさ、ちょっと野暮用が出来たから、僕行くね。……あ、そうだ。これは忠告なんだけど……うちとやり合う気が無いなら、連中とはさっさと手を切る方が賢明だと思うよ?」 「ま、待って!」  言うだけ言って踵を返し、ヒールを鳴らしながら教会を出ていくクロエの背に向かってステラが叫ぶ。 「お兄ちゃんに、また会うことがあったら、どうか助けてあげてくれませんか……! お兄ちゃん、毎日電話で「大丈夫だ」って言うけど、きっと、全然そんなことないんです……」 「……僕みたいな奴に、そんな大事なこと頼んでいいと思うの?」  ゆっくりとステラは首肯した。青空色の透き通った瞳がクロエを見つめる。彼女の兄と同じ色のそれが、何故かクロエの胸の奥深くを波立たせてやまない。 「だって……」  ――あなたは、ほんものの悪い人じゃ、ないから。  ふわりと柔らかな声音で告げられた言葉に、ただただ息が止まった。クロエは暫し瞠目した後、ゆるりと首を横に振る。 「……兄妹ってのは、嫌なとこが似るもんなんだね。お人好し過ぎて吐き気がしちゃうなぁ」  呆れ返ったようにそう言い、クロエは今度こそ教会を後にした。    ***  明くる夜、クロエは再び歓楽街を訪れていた。見上げるのは、あの少年――アルバの居るビル。  今日は普段の仕事道具の他に紙袋を手に提げている。中身は、彼から借りた赤いケープ。 「……別に妹ちゃんの頼みを聞くつもりって訳ではないから、」  誰に対してなのかもよくわからない言い訳を口にしつつ、クロエは別のビルの陰から様子を窺う。 「(壁を登って侵入してもいいんだけど……)」  ビル内の見張りを先に片付けてしまう方が、後々楽な気もする。  少しだけ悩んで、後者を選択することにしたクロエは、手近な石を幾つか拾い、ビルの出入口に向かって投げつけた。  ガラス扉が割れない程度の力で放ったそれは、中に居る人間をおびき出すには十分で。ややあって、訝しげな顔をした男が一人、外に出てきて周囲を窺い始めた。  それを認めるなり、クロエは素早くビル陰から飛び出し男の懐に入り込むと、鳩尾に膝蹴りを食らわせた。衝撃で男の体が浮く。そのままの流れで、首の後ろに手刀を叩き込んだ。 「……はい、一丁あがり〜」  昏倒した男を素気無く見下ろした後、クロエはさっさとビル内へ入っていく。  予想に反し、エントランスには他に誰も居なかった。全体的に薄暗く、光源は古びたフロントデスクの上に置かれた、電球の切れかかったスタンドライトのみ。  思わず、先程跨いできた男の方を振り返る。 「もしかして、見張りはあいつ一人だけ……?」  薄暗がりの中を、念のため警戒は解かないまま進んでいく。一段上る度に、階段が嫌な音を立てて軋んだ。 「うええ……このビルこんなボロかったっけ……」  前回は窓から飛び降りる羽目になったのもあり、内装の老朽化までには気が回らなかった。呟きつつ、上階を目指す。 「(部屋はここまで酷くもなかったしな……)」  そうこうしているうちに、あの日一夜を過ごした三階の部屋に辿り着いた。どうしてか、はっきりと記憶に残ってしまっていたルームナンバー。文字の掠れたプレートを前に、クロエは逡巡してしまう。 「(……正直、会いたくはないよね)」  妹の存在を知っていることを餌に、アルバから引き出せるだけ情報を引き出す。場合によっては、そのまま消すことにもなるだろう。クロエはそのつもりでここに来た。ケープを返すのはそのついでだ。  けれど。自分を殺すことも出来ず、あまつさえ世話まで焼いた兄と、初対面のどう見ても表側の人間ではない自分に、兄を救って欲しいと願った妹。二人の顔が脳裏を過る度に、滞り無く任務を果たしたいはずのクロエの思考にノイズが走る。  殺すのを躊躇いたくなるような相手は嫌いだ。お互い何もかもを踏み外して底に居る同士だと思っているから、クロエは迷わず「人間」を捨てられるのに。  喉の奥から引き攣るような息をクロエが零したその時。部屋の中から、何かが割れるような音と、微かに「やめろ」という拒絶の声が聞こえてきた。覚えのあるその声音に、思わずクロエは扉に身を寄せる。  耳をそばだてて室内の様子を窺う。揉めているのか、二人分の声と足音がする。足音は重いものと軽いものがある。後者は、アルバのものだろうか。 「嫌だ、っ……!」  悲痛とも言えるほどの鋭い叫びを耳にした次の瞬間、気づけばクロエは扉を蹴破って部屋の中に飛び込んでいた。  最初に視界に入ったのは、ベッドに抑えつけられるアルバの姿。細い肢体の上には、シャツのみを羽織り下半身を露出した恰幅の良い中年男が伸し掛かっている。  ひやりと濡れた薄青い瞳を目にした途端、体は既に動いていた。部屋に飛び込んだ勢いそのままに、クロエは男を蹴り飛ばした。潰れた蛙のような悲鳴と共に、脂肪の付いた締まりの無い体がベッドの向こうへと転げ落ちる。 「な、っ……なんだ貴様――ヒッ」  男が怒りを露にクロエへと視線を向けた時には、もう鼻先に刃が突きつけられていた。牙を剥く狼の様相を前に、竦み上がるしか出来ない。 「その粗末なモノをぶつ切りにされたくなかったら、十秒以内にここから消えて。……十、九、八――」 「ひ、ヒィッ……!」  情けない悲鳴と共に、男は訳もわからぬまま、そこらに散らばしていた己の衣服を掻き集めて部屋を飛び出した。真ん中から拉げた扉を抉じ開け、這う這うの体で出て行く背中を、見えなくなるまで睨み続けるクロエ。  やがて、男の足音も聞こえなくなった頃。クロエはようやく刀を鞘に収め、ベッドに横たわったままのアルバの方を向いた。無理に引きちぎられたのか、身に纏う白いブラウスの胸元は、ボタンが幾つか飛んでいる。 「……アンタ、どうしてここに……」  この場所には近寄るなと言ったはずだと、掠れた声でアルバは言う。 「こっちにはこっちの都合ってものがあるんだよ。……アルバお兄ちゃん」 「! 名前、っ……」  瞠目するアルバ。しかしその表情は、見る間に苦々しいものに変わっていく。 「……アンタも、他の奴らと同じか。そうやって……」  俯いたアルバが、ゆっくりと身を起こす。段々と小さくなる声は最後の方を聞き取れなくなり、クロエは顔をしかめる。 「何……? 聞こえないよ」 「オレに何をさせたいんだ、ロッソの『黒狗』」 「……なんだ、やっぱ僕のこと知ってたんじゃない。おあいこだね」  そう言って微かな笑いを漏らした後、クロエは徐に蹴り壊した扉の方へ引き返した。室内に飛び込み刀を抜いた際のはずみで取り落としていた紙袋を拾うと、再びアルバの座り込むベッドの側へと戻ってくる。  袋から出したケープを、金糸を包み込むようにふわりと被せた。上等な赤い布地が、小さなかんばせの周りを彩る。 「これを返しに来たんだよ。まあ後は……プロチオーネ商會について知ってること、洗いざらい吐いてもらおうかなとは思ってたんだけど、ね」  頸動脈の形をなぞるように、クロエの指先がアルバの首筋へと這う。黒の革手袋を纏った指の腹が肌の上を滑った途端、細い肩が跳ね、アルバから上擦った悲鳴が上がった。 「ひぁ、っ!」  明らかに様子のおかしい彼を前に、クロエの眉が自然と寄る。 「……やめろ、触るな……」 「……もしかして、薬でも盛られてる?」  紅潮した頬に、浅くなる呼吸。微かに震える身体。催淫剤の類を飲まされたのであろうことは想像に難くなかった。  アルバが震える指先でベッドの後部を指差す。クロエがそれに合わせて視線を動かすと、床に小さなガラス瓶が転がっているのが見て取れた。  近づいて拾い上げたその中には、僅かだが薬が残っている。クロエは、揺れる液体を眺め何やら考える様子を見せた後、ベッドに戻りアルバの手にそれを握らせた。 「君が決めてくれていいよ」 「……なに、を」  温度の低い笑みを浮かべながら、クロエが囁く。 「君にはこの間介抱してもらった借りがあるから。クスリを抜くの、手伝ってあげてもいい。そのままだとしんどいでしょ?」  耳に唇が触れそうなほどの距離で吹き込まれる言葉。吐息が耳殻を擽るのさえ、内側の熱を高める要素になってしまい、アルバは思わずぎゅっと目を瞑る。 「……どうせ、オレに選択肢は無いんだろ、」  手の中の小瓶に視線を落とし、少しの逡巡の後アルバはクロエの胸元へとそれを押しつけた。緩やかに弧を描く眼前の男の瞳からは、目を逸らして。 「やるならさっさと、やってくれ」  アルバの白い指先が、対照的に真っ赤なケープの裾を引く。滑り落ちる布の下から散らばる金糸を、カーテンの掛かっていない窓から差し込む月の明かりが照らした。

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