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第3幕

「それじゃ、始めよっか」 「あ、おいっ……」  アルバの手の中から取り上げた小瓶に残った、僅かな液体を呷るクロエ。少量ゆえにどの程度の効果が身体に齎されるかは不明だが、先に服用したアルバの様子を見るに、効いてくるまでにそれほど時間は必要としないだろう。  用済みとばかりに放られたガラス瓶は、鈍い音と共にカーペット敷きの床へと転がる。  空いた掌を絡め取られ、そのまま身体ごとシーツの波間へと沈められる。まだ冷たいそこの温度に肌を粟立たせながら、アルバは顔に掛かった前髪の隙間から、クロエ越しに複数の染みが目立つ天井を見上げた。  夜色の瞳が自分を映すのに、妙な居心地の悪さを感じてしまう。目を逸らしたいのに出来なくて、彼が器用に黒い革手袋の指先を噛んで外す様を、ただ見せつけられていた。 「……やだなぁ、物欲しそうな顔、しちゃってさ」  露になった指先がアルバの前髪を弄ぶ。楽しげなクロエの表情に少しの苛立ちを覚え、思わずその手を振り払った。 「さっさとしろって、言っただろ」 「えー、でも雰囲気作りって大事じゃない?」 「……? 他の奴らは、いつもすぐに突っ込んでくるぞ」  心底意味がわからない、と言わんばかりの顔をしているアルバに、クロエが目を見開く。 「……連中は、オレが「妹がどうなってもいいのか?」と言われたら、逆らえないことを知っているんだ」  クロエは先程、妹の存在を知っていると匂わせる物言いをした。それだけで彼には伝わったのだろう。自分に「他の奴らと同じ」と言ったのはそういう理由かと得心する。  諦めたように目を閉じ息を吐くアルバの、シーツに散らばる金の髪を一房掬い上げ、クロエはそっと唇を寄せた。 「無理矢理犯す、ってやり方しか出来ない奴等と一緒にされるのは心外だなー。その気じゃない相手と寝たって、気持ち良くもなんともない」 「……今だって、そうじゃないのか」 「どうだろうね? でも、その気にさせるつもりはあるよ。せっかく選んでもらったんだし、ね」  そう言って、ブラウスのボタンが千切れ露になっているアルバの胸元に、クロエは指を這わせ始める。催淫剤の影響で過敏になっている肌は、そのささやかな刺激にさえ反応を示してしまい、アルバはふるりと全身を震わせる。 「あ、っ……」  ブラウスの残ったボタンも、ひとつひとつ丁寧に外していく。クロエの前に晒される陶器のような素肌と、それを苛む傷痕の数々。クロエはアルバの胸元に顔を寄せ、痛ましいその痕の上を、次から次へと舌先で辿った。 「ひぅ、」  自分以外の体温が触れる感覚、そして濡らされた肌が感じる空気の変化に、勝手に身体が動いてしまう。アルバの痩躯は、未知の刺激に怯えるように縮こまった。曲げられた膝が、クロエの身体を遠ざけるように押し上げる。 「……このくらいで嫌がってたら終わらないよ?」 「わ、かってる……っ!」  薄い胸の上で、その存在を慎ましく主張するふたつの突起。淡い紅色をしたそれの片方を、クロエは指先できゅっとつまむ。 「や、……っ!」  アルバの背が、鋭い刺激に引き摺られるように弓なりに反った。瞬く間に突起は色を濃くし、芯を持って立ち上がる。  背が反るに従ってクロエの眼前へと近づくアルバの胸。指で突起を弄るのは止めないまま、自身に向けて差し出されるような形で存在を示しているもう片方の突起に、クロエはゆっくりと吸いついた。 「んんんっ!」  ぎゅ、と唇を噛み締め、嬌声を抑え込むアルバ。そんな彼に、容赦無く愛撫の波は襲いかかる。続く両胸への刺激は、やがてじんじんとした痺れになって、緩やかに下腹へと溜まる熱に変わる。  無意識に、アルバの両膝が摺り合わせられるのを、クロエは見逃さなかった。 「……ここ、苦しくなってきた?」  突起を苛めていない方の指先で、膨らみが視認出来るショートパンツの上をなぞった。アルバの表情が悔しげに歪むのを、目を細めて見下ろす。  腰の後ろへ手を回し、コルセットを緩めると、ゆっくりショートパンツを脱がせていく。あまりの華奢さに、クロエは一瞬女性を抱いているような気分になる。しかし、露になった下着はちゃんと男性用のボクサーパンツだったし、その中心には性的興奮を主張する膨らみがあった。  太腿の上を這うガーターベルトに指を伸ばしたところで、クロエは手を止める。 「んー……」  全体的に凝った作りをしているアルバの衣服。その中でも特に複雑な、腿を覆うガーターベルトの脱がせ方に迷ってしまったのだ。  ベルトの下に指を滑らせ、軽く持ち上げる。際どいラインを辿る指先に、アルバの腿がふるふると震える。 「ね、これ脱がせ方よくわかんないから、自分で脱いでみせてくれる?」 「な、に言って……」 「一度自分で身に着けてるんだもん、出来るでしょ?」  今にも噛みついてきそうな顔をしているアルバを、クロエはにやにやと愉快そうに見つめるだけだ。本当に手を出すつもりが無いということを察すると、アルバは渋々といった様子でガーターベルトへと手を伸ばした。 「……ぅ、くっ……」  ぱち、ぱち、と軽い音と共に留め具が外れていく。自身の指先や緩んだベルトが肌を撫でる度に、アルバから切なげな吐息が零れる。太腿の半ば程までを覆う黒のニーハイソックスを足首まで引き下ろす頃には、息も絶え絶えになっていた。 「……はい、よく出来ました〜」 「アンタ……ほんと、殴らせろ……」 「そんな元気も無い癖に。……ほら、もう遊ぶのはやめてあげるからさ、脚開いて?」  くしゃくしゃと髪を掻き混ぜるようにアルバの頭を撫で、クロエは微笑みを浮かべた。  反抗するほどの気力も無いのだろう。アルバは言われるがままに、細い脚を控えめに開く。グレーのボクサーパンツの縁にクロエの両手の指が掛けられ、少しずつ自身の肌が暴かれていく様を直視出来ず、顔を背けた。 「……っ、」  熱の籠った下着の中から外気に晒されたアルバ自身が、温度差にふるりと震える。そこは緩く兆し、もっと多くの快楽を与えてはくれないかと、浅ましくその頭を持ち上げている。  右太腿へと伸びたクロエの手。沈み込む指の感触と、そこから全身へと広がる快感とも焦燥ともつかないものが、アルバの身の内の熱を、また少し上げた。 「……おい、オレばっかり脱がせようとするな……」  自分は身に纏うものを次々剥がされ、残るはほとんど背中に敷かれているような状態のブラウスと、つま先で丸まった靴下と下着くらいだ。そんな中で、クロエは未だコートと手袋をベッド脇に落としたのみ。それが面白くなくて、アルバはじとりとした視線を向けたのだけれど。 「なぁに、僕を脱がせたいって? えっちだなー」 「ちが、っ……!」 「いいよ。僕もちょっと暑くなってきたところだし……」  一度アルバの脚から手を離すと、トップスのファスナーへと指を掛け、殊更にゆっくり下げていくクロエ。  床に落とされたコートと手袋、少しずつ隠された内側を露にするトップス、そして合わせ目から覗くインナーまでもが、夜闇をそのまま纏ったかのように黒い。だからこそ、トップスとインナーを脱ぎ去った先に現れた素肌の白さが際立った。  前日の朝にクロエがレールごと破壊したままであるため、部屋の窓にカーテンは無い。ガラス一枚隔てて隣り合う、深く静かな夜の気配。音も無く差し込む月の明かりが、いっそ病的とも言える肌を照らした。 「……、」  思わず息を呑んだアルバを、ひたりと見据える夜色の瞳。 「……ふふ、見惚れちゃった? 大丈夫、君だってちゃんと綺麗だよ」  再びアルバの上に身を屈めたクロエが、柔らかな少年の肌へ唇を寄せながら囁く。散らばる傷痕を辿る体温に、華奢な肢体が微かに震えた。 「ぁ、きれい、な、わけ……アンタには、傷ひとつ、無いじゃないか」  口づける位置を少しずつ下げていきながら、肌に触れる合間にクロエは言う。 「君の肌は、自分にとっての「大切」を守るために、痛みや苦しみや屈辱に耐えた証があって、高潔だと思う」 「……!」  思ってもみなかった言葉に、アルバの目が見開かれる。彼から、自身の腹に伏せているクロエの表情は見えない。 「……僕には、そういうのが無いから。勝てる相手としか戦って来なかった。いつも本気じゃない。傷つき方も、痛いと思う気持ちも忘れた。……何も、無いんだ」  出会って日は浅いが、軽口ばかりな男だと思っていた。けれど、今クロエが訥々と語る、自身に向けられている訳ではないのだろう言葉は、ひどく重く、アルバに伸し掛かる。  自らの内側を苛む熱と気怠さとは裏腹の、冷え切った何かが、二人の身体のあわい、僅かな隙間を抜けて、ちくちくと肌を刺すようだった。身を起こしたクロエの瞳が、薄暗がりの中で濡れたように光っている。 「ああ、嫌だな。君にはどうしてか、余計なことばかり教えちゃう」  自分のことなんか、知られたくないのにね。と、悲壮な笑みを浮かべてクロエは言った。 「……アンタは、ここに傷がついてるんだな」  クロエの、自身よりは幾らか筋肉で覆われている胸の上、ちょうど心臓のある辺りに掌を乗せ、アルバは呟く。  今度はクロエが目を丸くする番だった。それを見たアルバが、ふっと息を漏らして笑う。 「ベッドの上では、男は饒舌になるものだ。何も気に病む必要は無いだろ」  背中を浮かせ手を伸ばすと、アルバはクロエの髪を結い上げている紐をするりと解いた。濡羽色の髪が、月明かりを受け艶めきながら広がる。 「……笑ってるとこ、初めて見た気がするよ」 「理性的な振りが出来ていると思ってるのが、面白くてさ」 「生意気だなぁ……」  クロエも笑って、改めて目の前の肢体を味わうことに集中することにした。 「ねぇ、この部屋ってローションとか置いてる?」  空っぽのサイドチェストの抽斗を覗き込みながらクロエが問う。 「使うような連中を、相手したことが無い」 「…………だよねぇ。自分で調達したりもしてないの?」 「オレは、ここから出られない。出入口に見張りが居ただろ。昨夜は、アンタがふらふら通りを歩いてるのを見つけたソイツに、命令されて出ただけだ」 「見張り……ああ、あの弱い奴」 「…………。とにかく、無いものは無い」  クロエは、暫し考え込む。アルバは催淫剤で身体が反応しているとは言え、その後孔はまだ固く閉ざされている。 「(何か他の物で慣らすしかないか)」  そう決めると、クロエは右手の人差し指と中指をアルバの咥内へと出し抜けに突っ込んだ。 「んぐっ!? ふ、うぅ……!」 「ほら、ちゃんと舐めて。濡らさなきゃ、しんどいのは君だよ」  小さな舌を二本の指で挟んで弄ぶ。しばらくは翻弄されるままだったそれが、意思を持ってクロエの長い指へと絡み、唾液を纏わせてくるのに対し、高揚を覚える。  充分に濡れた指を咥内から引き抜くと、透明な糸でアルバの色づいた唇と繋がった。舌を弄られている間に、空色の瞳もすっかり熱を孕んでその色を濃くしていた。とろりと揺らぐ湖面のような瞳を覗き、クロエが笑む。 「……いい顔になったね。そのまま、力抜いててよ」  しどけなく開かれた脚の間。まだ慎ましく口を噤むアルバの後孔へと、濡れた指を添わせる。周囲を湿らせ揉みほぐしながら、空いている左手で、兆し震えるアルバ自身をゆるゆると扱き始める。 「ゃ、あっ……」  一番敏感な場所への直接的な愛撫に、昂らされた身体は素直に跳ねる。柔らかな掌は縋る場所を探して泳ぎ、シーツへとその指先を絡めた。  親指の腹でアルバ自身の先端をぐりぐりと刺激すると、すぐに快感の証である先走りの蜜が溢れ出す。竿を伝って後孔へと滴るそれは、内部に入り込もうとしているクロエの指を少しだけ助けた。 「ん、んっ」 「(結構キツいな……)」  こんな狭い場所を、日頃慣らしもせずに暴かれてきたという。彼の苦痛は如何ほどだろうか。第一関節まで飲ませた人差し指がきゅうと食まれる感触を受けながら、クロエは思う。  潤滑剤が足りていない。やはり一度アルバをイカせて、精液を代替に使用するのが現実的な案だろう。そう決断したクロエが、アルバ自身の鈴口へと親指を捩じ込む。 「やあぁっ!?」  いきなりの強い刺激にアルバの腰がびくりと跳ね上がった。何度も頭を振り、下腹の底を苛む熱から逃れようと藻掻く。 「んあ、や、やめっ……そんな、の、しなくてい、から……! はやく、おわらせ、」 「何言ってるのさ……気持ちいいって感じられなきゃ、イケもしないし薬も抜けないでしょ?」 「で、も! こんなの……っ、しらないから、」  こわい、と、弱々しい声でアルバが零した。覗き込んだ濡れた空色の中に、自分の顔が映っている。  ぞくり、と背筋を這う歓喜を抑え込むように、クロエは濃桃に染まるまろい頬を、唇の表面でなぞった。安心させるように、耳元でひそりと囁く。 「……大丈夫、優しくする。だからちゃんと、全部、預けて」 「ひ、ぅ……っ!」  きゅっとアルバがつま先を丸めた拍子に、引っ掛かっていた靴下の片方が脱げ、シーツの上に落ちた。露になる、小さな爪の乗った足の先。  色づいた耳を甘く噛み、目尻や頬に口づける間でも、アルバ自身を扱く手が休まることはなく。 「ぁ、あ! やぁっ、も、はなし……でる、から……!」 「だぁから……そうじゃなきゃ、ダメでしょ」 「んんぅっ! ひぁ、あああぁ、っ……!」  先端を擦る指先にぐっと力を込めた瞬間、アルバの身体が大きく跳ね、指を押し上げるように白濁を溢れさせた。痙攣する腰部に合わせて、とろとろと断続的に零れるそれが、クロエの指から自身の後孔までを汚していく。 「はぁ、っ……はふ……」  快楽の余韻に肩で息をしているアルバ。それなりの量の欲を吐き出したにもかかわらず、彼自身は再びゆるりと頭を持ち上げ始めていた。 「ぁ……なん、でぇ……?」 「……んー、やっぱ一度じゃ抜けないか……」  そこそこの強さを持つ催淫剤であったのだろう。瓶に入っていたほとんどを摂取させられていると思われるアルバは元より、残りを飲んだクロエもまた、内側から湧き上がる熱に苛まれ始めていた。  アルバの下腹を汚している白濁を指で絡め取り、後孔へと運ぶ。初めと比べると滑りの良くなったそこは、クロエの指一本程度なら飲み込めるほどには解れていた。ゆっくりと抜き差しすれば、濡れた音と共に、切なげに長い指を奥へと誘おうとする。 「ふあ、ぁ、はぁ……あ、アンタ、は……くるしく、ない?」 「え……?」 「くすり、のんだろ……」  乱れた呼吸を繰り返す合間で、自分を案じるその姿に、言いようの無い感情がクロエの胸に去来する。 「(情に、絆されているんだろうか)」  濡れた手をシーツで雑に拭う。そうして、蠱惑的に色づいた半開きの唇を親指の腹でなぞって。  ふにふにと柔らかな感触を楽しんでいると、不意に唇の隙間からアルバの舌が覗き、ちろりとクロエの親指を舐めた。一度だけではない。誘うように、何度も。 「ちょっ、とぉ……! 君さぁ……!」  無意識のうちに為されているのだろう、その行動。蕩けた瞳が見つめている先は曖昧だ。  煽られ、下腹に熱が集中するのを、頭の中で必死に薬のせいだと言い訳する。 「ああもう……っ!」  クロエは舌打ちをひとつすると、アルバの身体をひっくり返してうつ伏せにし、尻だけを高く上げさせた。熱に浮かされた瞳が、肩越しにクロエを見上げる。 「ん、っ……。いれ、るのか?」 「まだ早い。けど、一度抜かせて、」  そう言うと、クロエはボトムスのベルトを焦れた様子で外す。ガチャガチャという金属音が、もどかしさをよく表していた。  下穿きをずり下げると、芯を持ったクロエの屹立が勢い良く飛び出し、天を仰いだ。色の沈んだ、使い込まれた男のモノを前に、アルバは小さく唾を飲み込む。 「(ちっさい尻……)」  両手で尻たぶを開き、ひくひく震えている後孔に、キスをするみたいに先端を当てる。反射的にシーツを握りしめたアルバの指先から、放射状に波が広がる。 「あぅ、っ……!」  クロエが腰を前に進めるのに合わせて、張り出した傘の先が尻の割れ目を擦っていく。自身の腿とアルバの臀部が密着すると、今度は腰を引いて後ろへ。  挿入こそされていないが、ほとんどそれと言って差し支えない動作に、アルバは身を震わせた。往復するうちに屹立の先端から先走りが滲み、擦れ合う音の粘度が増す。 「やっ! あ、ぁん、こ、れ……やだぁ……!」 「っ、ふ……」  低く吐息を漏らすクロエ。柔らかな尻肉に挟まれた屹立は、既に暴発寸前まで張りつめている。腰部の前後する速度が上がるのに比例し、はしたなく濡れたぐちゅぐちゅという音も大きくなっていく。 「っは……出す、よ……っ!」 「ふあっ! っあ、あ、あつ、いぃ……!」  断続的に放たれる白濁が、双丘を汚した。とろとろと流れ落ちるそれは、太腿まで伝っていく。  クロエが上り詰めるのに誘発されたのか、アルバ自身からも蜜が零れ、シーツに染みを作っていた。  一度達して少し冷静さを取り戻したクロエは、物欲しげにひくついているアルバの後孔へ、周囲の精液を纏わせた指を挿し込む。今度は一気に二本まとめて突き入れたが、抵抗は感じられない。 「んあ、あ、あー……っ!」  中で指をバラバラに動かし、内壁をくまなく探っていく。そうして、腹側の一点を擦った時、アルバの全身がびくんと跳ね上がった。 「ひゃあっ……!?」 「あー、あった。ここかぁ……」  見つけ出したその場所を、クロエは執拗に刺激する。容赦なく背筋を貫く快感に逃げを打つアルバの腰を、空いた手で掴んで引き戻す。 「やぁ、あ! そこ、そこだめ、っ! あ、あたまへん、に、なる……っ!」  いつの間にか三本に増えている指にさえ意識が向かないほど、そこ――前立腺を虐められ、アルバの身体がベッド上で乱れた。引っ掻かれたシーツの波が荒ぶる。 「はは……指だけでそんなになってて、大丈夫?」 「ひう、うっ! や、だいじょぶじゃ、な……! も、やだ、はやく……しろ、っ!」  切羽詰まったアルバの声音に、クロエは根元まで捩じ込んでいた指を抜く。名残で口を開いたままの後孔が、はくりと呼吸するように蠢く。 「……ねー、この部屋ゴムとか……」 「あるわけっ……ない、だろ……」 「だよねぇ。知ってた」  ほんの冗句のつもりだったのだろう。端から答えはわかっていたとでも言わんばかりのクロエ。  彼は、ずらされ皺の寄ったボトムスの尻ポケットに指を突っ込むと、そこから四角い包みを引き出した。 「まあこのくらいは、嗜みってやつだよね」  手にした包み――避妊具である――の端を器用に噛んで裂き、取り出した中身を手際良く屹立へと装着する。  そんなクロエの一連の動作を見届けていたアルバが、意外そうに目を丸くしている。 「……軽そうな割に、案外、ちゃんとしてるんだな……」 「失礼だなぁ……。無防備なポーズの時に話す内容は、きちんと考えるべきだと思うよ?」  そう言って尻の表面を撫でれば、華奢な背中がふるりと震えた。  クロエは、濡れそぼち、空白を埋める楔を今か今かと待ちわびる後孔へ、ゆっくりと自身の切っ先を充てがう。 「……挿れるよ、」 「ん……」  腰を進めるのに伴い、先端がアルバの内側へと飲み込まれていく。奥へ奥へ、と誘うように波打つ肉の動きに、クロエは深く息を吐く。薄いフィルム越しでも伝わる体温。 「あっつ……」  自分と同じ男を抱くこと自体は初めてではない。けれど、感じる熱、触れ合う肌の感触、耳を擽る甘い声。すべてが随分と心地良かった。 「(相性が良いのかな……)」  誘われるままに、ひと息に押し込みたい衝動を抑えながら、緩慢に事を進めてようやく到達した最奥。ひとつ瞬きをして、クロエは目の前の扇情的に色づいた背中を見下ろした。シーツを握る細い指先は、ずっと微かに震えている。 「ふ、あっ……あ、はぁ……っ! こん、な……ゆっくり、なの……しらな……っ」 「いつもはもっと、乱暴にされてた?」  僅かに首を縦に動かすアルバ。きゅ、と屹立を食む後孔に力が入る。 「しらない、こわい……っ!」 「もう嫌?」 「……や、じゃない、けど、」  快楽に翻弄されるまま、素直な受け答えをするアルバを見て、すっとクロエの目が細まる。口元に浮かぶは、確かな愉楽。  身体を前に倒して、アルバの項に吐息を掛けるように囁く。 「動かすよ。……もっと、気持ち良くしてあげる」 「……!」  奥まで収めた屹立を、少しずつ引き抜いていく。内壁をくまなく舐るように。傘の縁が後孔から覗くほど抜いたところで、また奥へ。  緩やかに繰り返される抽挿。粘膜が擦れる濡れた音と共に、アルバの唇から嬌声が零れ落ちる。 「んっ、や……ひあ、あっ! っは、あ……う、っふ……んん、っ!」  細い腕がシーツの上で泳ぎ、クロエに掴まれている腰は、逃げることも能わず淫らにくねる。  ぱたり、とクロエの前髪から滴った汗が、アルバの背筋に沿って流れた。昂った身体は些細な刺激にさえ反応して、熱を孕む肌を粟立たせる。 「は……あぁ、」  内壁が蠕動するのを、薄い被膜越しに感じる。絶頂が近いのだろうか、屹立を締める力が断続的に強くなる。 「……っと、……い……」 「え、何?」  アルバが何やら呟いているが、声が小さくて聞こえない。クロエは耳を峙てる。 「ぁ……もっと、うごいて、も、いい……っ!」 「っ……!!」  自身の方へと顔を向けたアルバと目が合った瞬間、ぶわ、と体温が上昇するのをクロエは感じた。  真っ赤に染まった顔の中で、とろりと蕩けた薄青の瞳だけが、別種の鮮やかさを見せる。半開きの唇から顎へと伝う唾液。快楽に浮かされるばかりの、その様相。  次の瞬間、クロエは無意識のうちに、屹立でアルバの最奥を抉っていた。 「ひうぅっ!」 「なん、で、そう……煽るようなこと、ばっかり……!」 「んッ、あ! そこ、そこやだ……っ!」 「イヤじゃなくて、イイの間違いだろ、っ……!」  肌のぶつかる音が室内に響く。速度を上げる抽挿の最中、汗で掌が滑り、腰を放されたアルバの肢体がベッド上に崩れる。はずみで屹立が抜け、後孔の縁を傘が引っ掛けていく刺激に、また身震い。  息つく間もなく力の抜けた腰部は引き上げられ、再び屹立を性急に押し込まれる。 「あ、あん! ふか、ふかいぃ……っ!」 「は、……やば、すごい熱い……」  低く、欲を孕んだクロエの声に反応し、アルバのナカが屹立をきゅんと締めつける。それを自覚し、羞恥に染まる目尻はさらにその色を濃くしていく。切れ切れの呼吸の合間、アルバは泣き言を並べる。 「っ、こんな、アタマも、カラダもっ……ヘンになりそ、なの……むり、だぁ……っ!!」 「……でも、気持ちいい?」  耳元で囁かれた言葉に、アルバは躊躇いがちに、けれども確かに首肯した。 「やぁっ……!?」  腕を身体の前へと回されたかと思うと、次の瞬間、アルバは急に抱き上げられてクロエの膝の上へと座らされる。  身体に力の入らない今の状態では、自重で屹立がより深くへと飲み込まれてしまい、その先端は容赦無く最奥を抉る。 「ひッ、あ……! や、なに……っ」 「……ごめん、っなんか、……かわいく、て」  抱き寄せた薄い背中に額を寄せ、喉の奥から絞り出すようにクロエが囁く。吐息に肌を擽られ、アルバは思わず目をぎゅうっと瞑った。 「ふ、……っあ、あ! おく、ささって、ぇ……!」  腰を突き上げる速度が上がり、内壁を荒く掻き回される度に、アルバ自身の先端からは淡く白濁した蜜が溢れる。軽い絶頂を味わい続け、されるがままに背後のクロエへ身体を預けるしか出来ない。 「んあッ、あ! もうだめっ、もう、らめだからぁ……っ!」 「ん、……僕も、もうイク、」  ごりごりと最奥をクロエ自身の先端で抉られ続け、アルバの瘦躯はびくびくと痙攣しっぱなしだ。自らの腹に回る、クロエの腕に爪を立てても、最早やり過ごせない。 「あ、あ、っ……あ、あああぁっ……!!」 「……、く……」  背を弓なりに反らせながらアルバは達した。それに伴いきゅんきゅんと断続的に締まる肉筒の中、誘われるままにクロエも膜越しに精を放つ。 「……はー…………。あっつ……」  余韻に深く息を吐き、クロエは呟く。薬の効果もあるのだろうが、それを差し引いてもこんなに熱を持つ行為は久々だった。汗で湿る前髪を掻き上げながら、随分と大人しい腕の中の少年を見遣る。 「……あらら、気絶しちゃってるか……。でも、まあ……薬は抜けたのかな」  くたりと力の抜けたアルバの身体をひとまずベッド上に横たえ、クロエは自身を覆っていた避妊具を外すと、端を結んで離れた位置に置かれていた屑籠の中へと放った。 「さて……全然予定が変わっちゃったけど、どうしたもんかな……」  途中からは目的を忘れ、普通にセックスを楽しんでしまった。情報収集に行くと言って屋敷を出て来たのに、何の情報も引き出せてはいない。これで帰っては、またヴェルデに小言を言われるだけなのが目に見えている。  クロエはベッドから下りると、思い悩むように唸りつつ、シャワールームへと消えていった。    ***  夜明けにはまだ幾許か早い。月明かりと、緩やかな呼吸音だけで満たされた部屋の中で、クロエは隣で眠る少年の前髪を、そろりと梳いた。 「敵対組織の人間の前で、よくもまあこんなに無防備に寝てられるもんだよ……」  すやすやと眠るアルバの顔を見ているうちに眠気が伝染したのか、クロエは欠伸を噛み殺すように口元を動かす。 「んん……何やってんだろうなぁ、僕」  何の成果も無いまま帰れはしない。それだけが理由なら、こうして彼が目覚めるのを、ただ無為に待つ必要も無いというのに。何故だか、揃ってベッドに横たわり、幼い寝顔を眺めて時間を浪費している始末だ。  生ぬるい空気に後押しされ、クロエの瞼が落ちかけた時、その空気を裂くように端末の着信音が室内に響いた。弾かれたように身を起こしたクロエが、音の出処を見遣る。甲高く持ち主を呼ぶのは、ベッドの反対側に置かれたサイドボード上の端末だ。 「これ……あの子のだよね」  クロエの手の中で、応答を待つそれはまだ鳴り止まない。しかし、持ち主はその音が聞こえているのかいないのか、ベッド上でむずかるように身を捩っただけだった。 「ねぇ、ちょっと。電話鳴ってるってば」  眠るアルバの元へ端末を持って行き、肩を揺すったが、すっかり眠り込んでいる彼は目覚めない。クロエは暫し逡巡し、そうしている間も鳴り止むことのなかった端末の画面へ指を滑らせ、電話を取った。 「あー、もしもし? 悪いけど今、このスマホの持ち主寝てるんだけど……」 「……あぁ、まさか本当に一緒に居るとはね。……はじめまして、ロッソの『黒狗』くん」 「……誰」  名乗りもしないのに通り名を口にした相手に、クロエは瞬時に警戒を露にする。 「使えない駒共の言う事です。話半分に聞いていたというのに……いやはやこれは思わぬ収穫! お情けで生かしてやってる餓鬼ですが、偶には役に立ちますねぇ」  いやに芝居がかった口調で話す、耳障りなねっとりとした声。自身の問いにも答えず、身勝手に語り続けるその男に、クロエは苛立ちのあまり通話を切りたい衝動に駆られたが、既のところでそれを堪えた。  口振りから言って、プロチオーネ商會の上層の人間であることが窺える。随分と機嫌が良さそうな声音だ。上手くいけば、ファミリーにとって有益な情報を引き出せるかもしれない。頭の端の冷静な部分がクロエを促す。 「君、商會の人間でしょ? ……この子と僕が深い仲になってたら、情報が漏れてるかもとかさぁ、思わない?」  一拍遅れて、相手が鼻で笑う。 「まさか! その餓鬼に与えてある情報なんてありませんよ。妹の身代わりに、ウチの飢えた男共の慰み物になるくらいしか能の無い子供ですから。アナタ方の地区の廃ビルにでも放り込んで、ちょっとした陽動に見せかけるくらいしか、使い道が無い」 「……ふぅん、」  二言三言話しただけだというのに、こんなにも不快さが腹の底で渦巻くような人間は初めてだった。無意識のうちに手に力が籠もり、端末が軋む音を立てる。 「ですが……もしも本当にならば、これからお伝えする事で、アナタをワタシの意のままに出来る、という事になりますねぇ。喜ばしい事です」 「どういうこと」  纏わりつくようだった男の声音が、ぱきりと、鋭く冷えたものに変わる。 「その餓鬼に伝えなさい。「オマエの妹は預かりました。無事に返して欲しいのなら、今そこに居る『黒狗』を連れて来なさい」とね」  ――あぁ、場所はこの後きちんとメールしますから。と、他人事のように言い放つ男。 「ワタシの話を虚言と断ずるならそれも結構。……夜が明ける頃に、餓鬼の死体がひとつ出来上がるだけですから」  その言葉を最後に、通話は切れた。  ツー、ツー、という無機質な音が鼓膜を叩くのを、少しの間黙って聞いていたクロエだったが、突然手にしていた端末を勢い良く振りかぶった。暫しそのままで静止し、ややあって、その手を下ろした。 「……自分の端末だったら、遠慮なく投げてたところだよ」  吐き捨てるように呟き、クロエはベッド上に端末を放る。それから、再び眠るアルバの肩を揺すった。今度は先程よりも強めに。 「ねぇ、いい加減起きて。たぶん相当ろくでもない事態だ」 「……ん、んん……」 「君の妹が危ない。早く起き――」 「アルバ……!! ごめんなさい! 私が居ながら……っ! ステラが、ステラがあの男に――」  矢庭に部屋へと転がり込んできた、悲痛な女性の声。扉に背を向けていたクロエが、その声に気づき振り返った先には、昨夜、廃教会で対峙した女性――シノノメが、壁に身を預けるような姿勢で立っていた。よく見ると、身に纏う黒のスーツではわかりにくいものの、右の脇腹に傷を負っているらしく、そこだけ布地の色が濃い。 「君は……」 「貴方…………『黒狗』っ! あ、貴方のせいですよ!! 貴方が私達の前に現れなければ、こんなことには……あと少しで、全てが上手くいくはずだったのに……」  ずるずるとその場にしゃがみ込み、弱々しい声を漏らすシノノメ。 「……どういう意味? それにその怪我……」 「う、ん……?」  その時ようやく、アルバが目を覚ました。のろのろと身を起こすも、まだ覚醒しきってはいないのか、ぼんやりした様子で目を擦っている。  起き上がった拍子に被っていた掛け布団がずり落ち、露になる素肌を目にし、シノノメは瞠目した。 「やっ……!? ど、どうして裸なんですかアルバ!! 破廉恥です! ふ、不潔です!! 貴方達、この大変な時に一体何をしていたんですか!?」 「何って……この状況ならひとつでしょ。そりゃあ、ナ――ぶっ!」  顔を真っ赤に染めて捲し立てるシノノメに対し、クロエが事も無げに答えようとした瞬間、投げつけられた枕によって阻まれた。 「…………悪い。今、目が覚めた」  掛け布団を身体に巻きつけ肌を隠しながら、苦虫を噛み潰したような顔でアルバが言う。 「着替えながらで悪いが、事情を聞かせてくれないか? シノノメ」  シノノメが話し終えるのとほぼ同時に、アルバがガーターベルトの留め具をぱちんと留める。最後に赤いケープを羽織り、彼の身体に残る情事の気配も痕跡も、初めから無かったかのように布の下に消えた。 「……なるほどな」 「案外、冷静なんだね」 「……そうでもない。頭の中は正直ぐちゃぐちゃになってるし、どうやったらアンタをここに引き摺って行けるのかって、ずっと考えてる」  そう言って、アルバはクロエ達の方へ端末の画面を向けた。  先程の通話相手から、宣言通り届いたらしいメール。場所と時間だけがシンプルに記された文面。 「カンノーロ通り、って……」 「遠いのか?」 「いや、むしろ近い方だよ。この建物からなら、歩いて十分も掛からない」  そこは、クロエが一番最初に商會の人間と接触した場所だった。薬物の取引を未然に防いだものの、取り逃がしてしまった赤毛の男の存在を思い出す。 「……アンタは、ついて来る気はあるのか」 「問答の必要はありませんよ、アルバ。その男には、手足を切り落としてでも同行してもらわないと」 「……君、なんでかわからないけど僕のこと嫌いだよね……」  冷ややかな視線を向け、にべも無く言い放つシノノメに、クロエは嘆息する。 「悠長に構えている時間は無いんですよ!? もうすぐ夜が明けてしまいます! そうしたらステラは……!」  悲痛な面持ちでシノノメが叫ぶも、脇腹の傷が痛んだのか、すぐにその顔は苦悶に歪む。そんな彼女の様子を見ていたアルバが、目を伏せながら口を開いた。 「そうだな。あの男ならやるだろう。カリスマと冷酷さで、商會のトップに立つ人間だ。オレの妹ひとり殺すくらい、なんでも……」  膝の上で握られたアルバの拳が震えている。 「待って。さっきの電話の奴が、商會の頭なの?」 「そうだ。アンタが話した相手が、カルマ・プロチオーネ。正真正銘、商會のトップだ」 「いけ好かない男ですよ。……悪知恵だけは働くので、あの目立つ赤毛でわざと前線に立って、自身を末端の人間に見せかけるんです。相手への印象操作が済めば、あとは巧みに身を隠しつつ戦況を裏で操る」 「そうやって翻弄されて、オレ達の住んでた第四地区もやられたんだ。アイツにとって、構成員は使い捨ての駒に過ぎないのに、どうしてかアイツの下には人が集まる」 「口が上手いんですよ……」  先程言葉を交わした鼻持ちならない態度の男がそれほどの重要人物であると、俄には信じ難かった。だがしかし、それ以上に引っ掛かったのが。 「今、赤毛って言ったよね? それって、もしかしてこいつのこと?」  床に落としたままだったコートを慌てて拾い上げ、クロエはポケットの中から取り出した自身の端末を操作する。画像を収めたフォルダを開き、一枚の写真を二人に見せた。防犯カメラの映像を拡大した物のため、幾らか解像度は落ちるが、そこにはクロエがあの日取り逃がした男の姿が写っている。 「……ええ。この男ですよ」  シノノメが苦々しげに首肯する。  クロエは暫し黙して端末の画面を見つめていたが、やがてそれをポケットへと仕舞うと、コートを着込み革手袋を嵌めた。 「……行こうか」  意外そうに目を見開いたのはアルバだった。 「…………良いのか? 行けば、アンタは……」 「あのさ、僕は別に死にに行く訳じゃないんだけど? 大体、まだ何もしてないのに勝敗なんて決まらないでしょ。君もさっさと腹括れよ。妹ちゃんが何より大切なんだろ?」  黒の革手袋に包まれた手が目の前に差し出され、アルバはその上に、ゆっくりと白い指先を重ねる。立ち上がり、部屋を出ようとした彼は、不意にその後ろをついて来ようとしていたシノノメへと向き直った。 「シノノメは、ここで待っていてくれ。その怪我じゃ危険だ」 「そんな! 私は貴方と違って戦闘に長けていますし、この程度は掠り傷です!」  クロエは二人のやり取りを横目に見ていたが、アルバがシノノメに何やら耳打ちし、それを聞いた彼女が渋々といった様子でベッドへと座るのを目にした辺りで背を向けた。ポケットの上から、中に仕舞った端末に触れる。  彼らを放って屋敷に戻るのは容易かったのに、何故だかそうしてはいけないような気がした。昨日今日会ったばかりの他人より、主君であるリナルドを優先したいと考えるのは当然のはず。けれど、その選択は主君にとって「不正解」になると思ったのだ。 「(……大丈夫。リナルドにはヴェルデがついてるし、他の仲間だって居る。僕が、居なくたって本当は、)」  自分が必要な人間ではないかもしれないと、考えることは怖い。  喉元に手を当て、そこにある「見えない首輪」を感じるかのように、指を這わせるクロエ。選択を肯定してほしいのも、「大丈夫」だと思いたいのも自分だと気づいていた。  迷いを払うために、わざとヒールを鳴らして足を進める。結い上げた黒髪が、狼の尾のように背中で揺れた。    *** 「ステラ、どこに居るんだ……!」  夜明けを控えたカンノーロ通りは、静寂に包まれていた。日暮れと共に目覚める歓楽区。ここに息づく者は、ちょうど眠りに就く時間帯だった。  自分達の足音や声が響く中、通りの路地を片っ端から覗きながら駆けるクロエとアルバ。 「全部見て回ってたら夜が明けちゃうな……」  送られてきたメールには、具体的な場所の指定は無かった。通りには、身を隠すのに最適な狭い路地が点在している。すべてを確認するには、時間が足りなすぎた。 「(……もしかして、だけど)」  ひとつの仮説を立てたクロエは、少し前を走っていたアルバの手を取り、走る速度を上げた。 「っえ、あ、何、」 「居そうな場所に、心当たりがある……!」  纏わりつく焦燥を裂くように、ヒールの音が路地に響く。クロエが向かっていたのは、最初に赤毛の男――カルマを取り逃がした場所、薬物の取引が行われていた路地だった。 「お兄ちゃん……!」  当たりを付けた場所へと辿り着いた時、少女の悲鳴染みた声がクロエ達を迎える。薄闇に包まれた路地の奥に、商會のボス・カルマと、彼に両腕を背中で拘束された形のアルバの妹・ステラの姿があった。 「ステラ……!」 「おやおや、まさか本当に連れて来るとはね。……待っていましたよ、『黒狗』」 「……約束は果たした。早くその子を放してあげてよ」  クロエの言葉に、僅かに目を丸くしたカルマは、それから、呆れた様子で目を閉じ首を横に振る。次いで、徐に懐から拳銃を取り出すと、ステラのこめかみに突きつけた。彼女の息を呑む音が、しんとした路地の中ではより際立つ。 「テメエ……っ!」 「おっと。口の利き方には気をつけていただきたいですねえ……。大事な妹に穴が開きますよ?」  反射的に怒りを露にするアルバに対し、カルマは脅し文句と共に、ステラの肌へと銃身を当てる。硬い感触が食い込む感覚に、彼女は小刻みに身を震わせている。 「……安心なさい。ワタシの目的は、そこの『黒狗』を殺すことなんですよ。ロッソ・ファミリーの主力を亡き者に出来れば、この地区の制圧も目前です。そうすれば、妹もアナタも自由にして差し上げますよ……赤ずきん」  アルバの装いを揶揄するようなその言葉。かつてはクロエ自身も赤いケープを前に口にしたそれを、この男に言われるのは何故か気に食わなかった。 「……僕ひとり始末したところで、ロッソは何も揺らがないよ?」 「本当にそう思いますか?」  クロエの背後、路地に並び立つ家々の向こうへと視線を滑らせながら、カルマが言う。ステラの頭部に当てていた銃口を、視線と同じ方向を指し示すようにゆっくりと動かす。ここからは見えないが、そちらはロッソの屋敷がある方角だ。 「何が言いたいの――」  言い終えるよりも先に、クロエの背をドンッ、という轟音が襲う。反射的に振り向けば、今しがたカルマが示していた家の奥から、黒煙が立ち上るのが見えた。 「アナタが屋敷を空けている今なら、ワタシの駒共総出で叩けば落とせる、との判断ですよ。人海戦術というやつですね。……坊ちゃんのお守りをしながら戦わなければならない連中の力など、たかが知れているでしょう?」  ――まあ、思った以上に派手にやっているようですけれど。  カルマの耳障りな声を、どこか遠くに聞きながら、クロエは呆然と屋敷の方角から上がる煙を見ていた。  突如、渇いた銃声が路地に響く。  ホワイトアウトした思考の中でも、体はしっかり反応した。  革のキャリングバッグから抜いた刀で、自身に向けて放たれた銃弾を跳ね飛ばす。 「……さすが、化物染みていますねぇ。今のを避けますか」 「……リナルドは死なない。ヴェルデだって、他の仲間だって、」 「心配なさらずとも、すぐにアナタも同じ場所に送って差し上げますよ」  酷薄な笑みと共に、再びクロエへと照準を定めるカルマ。最早躊躇う理由など無いと、刀を握り直しクロエも構える。この距離ならば、銃弾を躱した上で相手の首を獲れる。  足を踏み出そうとしたところで、誰かがクロエのコートをぐっと引いた。 「待ってくれ……! 今突っ込んでも、アンタがアイツを殺すより、ステラが殺される方が早い! だから、もう少しだけ……っ」  コートの裾を強く握り締め、今にも泣き出しそうな顔でアルバが見上げてくる。クロエの挙動ひとつに、妹の命が掛かっているが故の、必死の表情。 「……その通りですよ。さあ、どうしますか?」 「そんなの――」  決まっている。優先すべきは、これまで共に過ごしてきた仲間達。返しきれない程の恩がある主君。そう、決まっている、はずなのに。  自身に縋る指先を振り払うことが出来ない。寝覚めの悪さだけ飲み込んで、見捨ててしまえばいいものを。頭の奥で誰かが言っても、体は少しも動かなかった。 「オレが何とかするから、だから……頼む、」  出来るはずもないのにそんなことを言う。交渉にすらなっていない。けれど、そんなふうに冷静だったのは頭だけのようだ。クロエは、気づけば刀を握った右手を下ろしてしまっていた。 「……好きにしなよ」  そうクロエが口にするのと、路地に再び銃声が響き、放たれた弾丸が左の太腿を貫いたのは、ほぼ同時だった。 「クロエ……っ!」  初めて彼に呼ばれた自身の名前。悲痛にも思えるほどの焦りを含んだその響きを聞きながら、クロエはその場に膝を突く。そこへ容赦無く襲い来る次弾。右肩を穿たれた衝撃で取り落とされた刀の刃先が、石畳を鳴らす。 「……っ、早漏な男はモテないよ?」 「生憎、主導権は譲りたくないタイプでして。さあ……次はどこを愛撫して欲しいのですか?」  軽口は、逸らされない銃口を前にした緊張感を少しも緩めてはくれない。  どうやって状況をひっくり返すか。懸命に考えを巡らせていたクロエの前を、ゆっくりと小さな影が覆った。 「……このっ、馬鹿!!」  アルバだった。両腕を広げ、クロエを庇うように、屈み込んだ彼の前へと立ちはだかっている。  それを見て、面白そうに口角を歪めたカルマの指が迷わず引き金に掛けられるのと、叫んだクロエが腕を伸ばし、アルバのシャツを引っ張って瘦躯を後ろに倒すのとは、ほとんど同時だった。 「……ガラ空きですよ」  撃ち抜かれたのは右の脇腹。ぐう、と呻いてクロエが押さえたそこからも、他に撃たれた箇所と同じように血が滲んで衣服を染める。濡れた革手袋から滴る赤が、石畳に落ちた。 「あの女とお揃いですねぇ」  その言葉がシノノメを示すことにはすぐ気づいた。泣く泣くステラを置いて、自分達の元へと状況を知らせるために走った彼女に手傷を負わせたのも、この男なのだろう。 「どうして、僕を庇おうとしたんだよ」  地を這うような声で言う。尻餅をついた姿勢のまま、俯いているアルバ。その唇が小さく震える。 「……ここでアンタが死んでも、オレ達が自由になれる保障なんて無い。もし、自由になれたとしても、アンタを犠牲に得た自由じゃ、ステラは喜ばない。……オレだって、嬉しくない」  緩やかに持ち上げられた顔。薄青の瞳は僅かに濡れているようにも見えた。そんな兄の目を見たステラもまた、何かを決意したように同じ色をした瞳に宿す光を強くした。 「お兄ちゃん……! わたしは、大丈夫だから……!」  目を合わせる二人。兄妹だからこそわかるものがあるのか、互いに小さく頷く。次の瞬間、拘束から逃れようと、ステラが激しく全身を捩って抵抗を始めた。  一瞬の隙を突かれ緩んだカルマの手元から、銃が滑り落ちて石畳の上を転がる。すかさず起き上がったアルバが、転がるようにそれを回収しカルマと距離を取る。 「……!」  体勢を整え顔を上げたアルバの目に最初に飛び込んできたのは、落とした銃の代わりに、懐から新たに取り出したナイフを首筋に突きつけられたステラの姿だった。 「……一度だけ、挽回のチャンスを差し上げましょう」  少しでも手を動かせば刃先が彼女の肌を裂くだろう。そんな緊迫した状況には不似合いな、どこか浮かれたような笑い声を漏らすカルマ。 「その銃で、アナタが『黒狗』を始末なさい。愛する妹を救う為です。その男の命ひとつ奪うくらい、安いものでしょう」  どこまでも酷薄な男の笑みと、冷たく光る黒の銃身とを交互に見つめ、やがてアルバは踵を返した。カルマが笑みを深くする。 「……それが、君の答え?」 「ああ」  未だ膝を突いたままのクロエの前に立ち、銃口を向けるアルバ。先程までは、その銃口からクロエを庇おうとする背中を見ていたというのに。  セイフティは既に解除されている。あとはトリガーを引くだけ。  自分を見下ろす空色の瞳はどこまでも澄んでいた。だから黙って両手を挙げた。 「……わかった。好きにしなよ」  乾いた音が、空高く路地へと響き渡った。

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