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第4幕

 撃ち抜かれたのは、夜明けを前にした深い瑠璃色だった。  腕を高く上げ、空を撃ったアルバ。静まり返った路地の中で、その佇まいは一層凛として見える。装填されていた銃弾は、これで最後だ。 「……何のつもりです」 「これがオレの答えだ。……もう、アンタの指図は受けない」  カルマが呆けた表情を浮かべていたのは一瞬だけ。アドバンテージが己にあると、信じて疑わない男の微笑は揺らがない。 「では、妹を見殺しにするということでよろしいので?」 「いいや。それよりも――」  言葉が途切れたその一瞬で、ナイフを手にしていたカルマの左手が、上腕部の中程から切断されて地面に落ちた。肉の叩きつけられる鈍い音。 「きゃあああぁっ!?」  至近距離でそれを目にしたステラの悲鳴が響く中、腕を切り落とした黒い影が、カルマの体を蹴り飛ばしながら彼女を抱き寄せるように攫う。片腕を失いバランスを崩したカルマは、勢いを殺せず石畳の上に転がる。 「――シノノメの方が早い」  刀を携え、塵芥でも見るかのような目でカルマを見下ろすシノノメ。ビルに置いてきたはずの彼女がここに居る理由はと言うと――。 「ああっ、ステラ!! 無事で良かった……!! 汚らしいものをお見せしてごめんなさい!! この愚物が貴女にべたべたと無遠慮に触れているのが、私にはどうしても我慢ならなかったのです……!!」 「い、痛いよぉ、シノノメ……」  ぎゅうぎゅうとステラを抱きしめ、頬ずりまでしているシノノメを前に、辟易した表情でクロエが口を開く。 「……で、あの子には何て言ってあったの」 「十五分経ったら追いかけて来て良い、って言った。どうせ大人しく待ってられるとも思わなかったからな」 「だったら教えといてくれても良かったんじゃない? 僕こんなに穴だらけにされたの初めてだよ……割と痛いし……」 「それじゃ意味が無いだろ」  腕の切り口を押さえながら、反対の肩で地を這うように逃げ出そうとしているカルマを、アルバは見逃さなかった。  つかつかと這いずる男の元へと歩み寄ると、厚底のブーツの踵で容赦無くその頭を踏みつけた。顔を石畳に打ちつけられ、蛙のような呻き声を上げたカルマは、そのままぱたりと動かなくなる。どうやら気を失ったようだ。 「……元よりオレ達は、機を見てコイツから逃げ出すつもりだった。この地区でアンタに会えたのは、偶然だけど好都合だったよ」  ――餌になってくれてありがとう。  屈託の無い笑みは、悔しいけれど美しかった。振り向いたアルバの輪郭が、少しずつ白み始めた街の中で照らされている。 「利用したのは事実だ。けど……」  アルバは座り込んでいるクロエの側まで戻ってくると、目の前に屈む。 「最後にアンタを撃たなかったのは、オレの意思。……死なせたくなかったんだよ。アンタ、優しいから、」  そう言って、甘えるようにクロエの肩に額を預ける。金糸が揺れる度に、微かにシャンプーの香りがした。  比較的自由になる左手でアルバの髪を梳いていると、視界の端に、倒れたカルマへと近寄りその首を落とさんと刀を振りかぶるシノノメが見え、クロエは大慌てで声を張る。 「わあああ!! ちょっと!! 勝手に殺さないで! そいつにはまだ聞かなきゃなんないことがあるんだから!!」 「そうだな。……お嬢さん。どうか刀を納めて、その男の処遇を我々にお任せ頂くことは出来ないだろうか」 「……!!」  石畳を叩く軽い靴音。空気に溶ける涼やかな声音。弾かれたように後ろを向いたクロエの目の前には、その身を案じていた主君――リナルドの姿があった。 「り、リナルド……! 良かった、無事だったんだ……」 「勿論。他の皆も無事だ。……お前は随分、手酷くやられたようだな」 「全く、貴様はまた余計な手間を掛けさせて……。その歳で迎えが無ければ帰って来られんのか?」 「……ヴェルデ……」  クロエの怪我を見て眉を寄せているリナルドの背後から、ヴェルデが現れ相変わらずの小言を浴びせる。普段なら食って掛かっているところだが、なんだか今はそれすらも安心を覚えた。この短時間で、色々な事があり過ぎた。 「とにかく、すぐに帰って処置をしよう。立てるか? ああ、それから……」  リナルドは、カルマの身を拘束し運び出そうとしている己の部下を、不機嫌さを隠そうともしない様子で見ているシノノメの方を見て、続ける。 「君達も、負傷しているようならこちらへ。治療の用意がある。そちらの頭首とももう話を――」 「いいえ、結構です。その男が倒れたのならば、もうここに用はありませんから」  にべもなく言い放ち、シノノメは早々と背を向けると、ステラを伴いクロエ達の居る方とは反対側へと歩いていく。何度も振り向きながら歩くステラは、その度にクロエに頭を下げていた。 「……オレも、もう行く」  そう小さな声で告げ、立ち上がったアルバも遅れて二人の後を追った。遠ざかりながらも、時折何か言いたげにちらりとクロエへ目を向けていたが、結局それ以上の言葉は無かった。  自分も当然、彼に言うべきことなど無い。そのはずなのに、いつの間にか彼の揺れる金糸へと伸ばされるように浮いていた自らの手を見て、クロエは小さく舌打ちした。 「……すっかり夜が明けてしまったな。体調は平気か?」  リナルドに言われて初めて、クロエは朝焼けに染まる路地全体を見回した。夜闇を溶かしたような自身の装いは、朝日のぬくもりを良く吸い込む。  ゆっくり瞬きをすること数度。長く長く息を吐いて、クロエはようやく立ち上がった。 「平気だよ。……不思議だね、あんなに夜明けが怖くて、日の光が嫌だったのに」  眩しさに目を細める。そんな感覚も随分と久しぶりだった。 「その変化が、お前にとって良いものならいい。私が思うのはそれだけさ」 「……うん」  現場の後始末が済み、撤収を始めている仲間達を眺め、クロエは改めてリナルドへと向き直った。 「……帰ろうか」  終わったのだ。長いようで短かった、この数日の嵐が。また、これまで通りの日々が訪れる。クロエの中に明確な変化と少しの違和を残しながらも、全部全部、終わったのだ。    ***  裾の方から夜に塗りつぶされ始めた夕景を見つめながら、クロエは裏庭に佇んでいた。  プロチオーネ商會との衝突から数週間。クロエ達は現在、本拠地があった場所から程近くにある別邸に滞在していた。  襲撃を受けた本邸は、こんな事もあろうかと、と屋敷の地下全体に仕込まれていたという爆薬によって、乗り込んで来た商會の構成員諸共、爆破炎上したらしい。話を聞いた時にはさすがのクロエも言葉に出来なかった。側近であるヴェルデは、この事を知っていたようだったが。  カルマとの戦闘の際に負った怪我も、致命傷は避けられたのもあり、動き回れる程度には回復していた。リハビリも兼ねて、部下を相手に手合わせをしているくらいだ。  クロエは今まで、こうした肩慣らしが必要になる程の怪我を負った経験が無かったが、今回は休んでいた間に鈍った感覚を取り戻す他に、もうひとつ理由があった。 「(誰かを護りながらの立ち回りって、結構難しいんだよなあ)」  これまでは単独で任務に臨むのが大半だったのもあり、自身の安全にだけ配慮し敵を殲滅することに集中していれば良かった。けれど、此度の一件で考えた。  今は側近のヴェルデが居るが、こんな世界だ。自分も含めて、先のことは保障が無い。いざという時に主君を護れるだけの戦い方を身に着けておきたい、と思ったのだ。 「(それに……)」  自分がそういう立ち回り方を知っていたのなら、カルマとの戦闘の時だって、もっと上手く切り抜けることが出来たはずなのに、という後悔もある。 「(……あの子達、元気かな)」  今回の件で関わった三人――とりわけ、期せずして深い繋がりを持ってしまった少年、アルバのことを、クロエはこの数週間で度々思い出していた。  日中も外に出られるようになってからというもの、よく透き通った青空を見れば彼の瞳を、窓から差し込む午後の陽を感じれば風に揺らぐ金糸を、頭に浮かべては消していた。目を閉じれば、あの日触れた肌の感触さえ、掌に蘇る気のする異常事態。 「……もう、会うことも無いのにね、」  そう独りごち、邸内へと戻ろうとしたところで、クロエは裏庭に繋がる扉から姿を現したリナルドに呼ばれた。 「クロエ、お前に客が来てるぞ」 「客……?」    ***  自室に、居るはずもない人間が立っている。  小型の電気ケトルで湯を沸かし、二人分のインスタントコーヒーを入れながら、クロエは頭の中にある山程の疑問符をどう消化しようかと悩んでいた。 「……なんで君がここに居るの」  ひとまず、一番気になったことを聞くことにする。  視線をぶつけた相手は、入室した時と同じ、身の置き所が無さそうな顔で扉の近くに立っていた。変わらない、赤いケープの似合う金の髪に、青空色の瞳。アルバだった。  客用の洒落たソファーなんて無い部屋だ。仕事用の木製デスクに備え付けの椅子を引き摺って室内の真ん中に置き、座るように促す。アルバがおずおずと腰を下ろすのを見届けコーヒーを手渡すと、近くにあるベッドにクロエも腰掛けた。  ベッドサイドチェストの上に自身の分のカップを置き、視線だけで先程の問いの答えを要求すると、手の中のカップから立ち昇る湯気を見つめていたアルバが、ここに来て初めて口を開く。 「オレのとこのボスから、届け物があって」 「届け物?」 「こないだの一件の、借りを返すって言ってた。中身は聞いてないから知らないけど……。アンタ達のおかげで、うちの地区も戻って来たようなものだから」  話しながら、コーヒーカップに何度もふうふうと息を吹き掛けているアルバ。猫舌なのだろうか。それを見つめる目元が無意識に緩んでいることに、クロエは気づかない。 「ところで、怪我はもういいのか?」 「まあね。……元々、そんな重傷でもなかったし。体が鈍るから、部下相手に手合わせしてるくらいだよ」 「そうか、」  あからさまにほっとした表情を浮かべるアルバに、胸の奥にむず痒さのようなものを感じるクロエ。互いの言葉はそこで途切れる。  先に沈黙を破ったのは、アルバの方だった。 「……その、……ボスの使いがあったのもあるけど、オレ……アンタにもう一度、会わなきゃいけない気がして。……だから、ここに来た」  澄んだ薄青の瞳がクロエを映す。仄かに熱の籠もった意思を感じる瞳。無遠慮に自身の内側を引っ掻き回されるような気分になる、精神衛生に良くないものだ。 「……僕は、会いたくなかったよ。二度とね」  その言葉に見開かれたアルバの瞳が、次の瞬間には暗く沈み、表情が翳る。  それで良かった。傷ついてくれればいい。酷い奴だと、嫌って、幻滅してくれればいい。 「僕は早く君のことなんか、忘れちゃいたいんだ。この手から、感触を消してしまいたい」  晴れた空の青も、朝日の金色も、夕陽の赤も。すべてが彼を想起させるきっかけになっている現状を、投げ捨てたくて仕方なかった。 「いつ死ぬかわかんない世界だよ。持ち物は少ない方がいい。……おかしな情なんて、抱えたくない」  取り返しがつくと思っているうちに、全部全部、無かったことにしたかった。  再び、沈黙が部屋を満たす。「帰ってくれ」が言えずに喉に貼りついたままでいるうちに、アルバの方が動き出す。  徐に立ち上がった彼は、クロエの仕事用デスクに手の中のコーヒーカップをそっと置く。そのまま退室するのかと思いきや、アルバはそこから身を翻し、クロエが腰を下ろすベッドの前へと歩み寄って来た。  静かにクロエを見下ろす彼は、次の瞬間、脚を持ち上げ底の厚いブーツでその腹を蹴りつけた。突然の衝撃で、クロエはベッドに背中を沈める。 「いっ……た! ちょっ、いきなり何するのさ……!」 「同じだろ」 「は……?」  仰向けに倒れたクロエの腹へと跨り、アルバは低い声で呟く。 「忘れられなくなりたくないから忘れたい、って言うんなら、オレと同じだ」  伏せられた睫毛の影が、瞳の中で揺れる。 「……何度も、あの夜の夢を見るんだ。アンタに抱かれた、あの日の夢を」  アルバがケープのフードを脱いだ。ぱさりと散らばる金糸が、室内灯の下できらめく。  白く細い指の先が、クロエの頬へとゆっくり伸ばされる。そのまま、両の頬の上に這わせられる指。強い力で押さえつけられている訳でもないのに、視線が固定されて外せない。 「だったら、試してみればいい。この気持ちが一過性のものに過ぎないのか。モノ扱いされなかったことが初めてで、それに酔っただけなのか、」  少年の柔らかな腿が、自身の腰を挟む感触。 「……後悔するかもよ」 「やってみなきゃ、悔いるかどうかなんてわからない。けど……アンタが、決めてくれていい」 「……はは、」  思わず、といった調子でクロエが笑い声を漏らす。自身を見下ろすアルバが、それに対して首を傾げ、長い横髪の端がクロエの頬を擽った。 「この間とは逆だねぇ。……いいよ。君の誘いに、乗ってあげる」  クロエは、伸ばした指の先で赤いケープのリボンをほどいた。    ***  互いに早々と脱ぎ捨ててしまった衣服は、床にだらしなく散らばっている。  ベッドに寝そべったクロエの脚の間に、身体を縮こまらせているアルバ。竿を両手の指先でこわごわと撫でながら、先端から傘の括れにかけてに、ちろちろと舌を這わせている。  上手くない、とは言いつつも、クロエの屹立はしっかりと反応を見せていて、その砲身に血管を浮かび上がらせている。 「こんなこと、してくれなくたっていいのに」 「でも……っ、はぁ……アンタ、あんま乗り気ではないだろ?」 「この状態見て、そういうこと言う? 男ってほんと嫌な生き物だよ……体が欲に素直過ぎる」  自らの唾液に濡れ、傘を膨らませている屹立に目を落とし、アルバはむぅ、と唸る。いまいち納得はしていないようだ。 「……そんなことより、」  クロエは腹筋だけで半身を起こし、アルバの顎を掬って顔を上げさせる。彼の唇と自分の屹立とを粘性の糸がとろりと繋ぎ、やがてふつりと途切れる。それが果たして唾液なのか、そうではないのかについては、今は意識から外す。  腕を取りアルバの身体を引き寄せ、自分へと凭れ掛からせる。背中から腰、そして双丘へと掌を滑らせ、熱を上げ始めた素肌を愉しむ。 「君の方こそ、我慢出来ないんじゃないの?」  割れ目に指を沈ませつつ、反対の手でアルバ自身を握り込む。クロエの屹立への愛撫をしているだけで既に兆し始めていたそこへ、急な刺激を与えられてアルバの腰が跳ねる。 「ひあ、っ」  色づき膨れた少年の唇。そこに自身のそれを重ねようと顔を傾けたところで、クロエはアルバの掌に阻まれた。  戸惑いを滲ませ揺れる瞳に、視線だけで「何故」と問い掛ける。 「それは……駄目、だ。……戻れなくなる、」  そんなことは今更だ。  クロエはそう言葉にする代わりにアルバの細い手首を捕らえる。  自由になった唇を、触れ合わないギリギリの距離まで寄せ、肌を吐息で擽るように囁く。 「……戻れなくなりたくて、ここに来たんじゃないのかよ」  重なった視線が、じわじわと身の内を焼くようだった。アルバは自然と息を呑む。  否定の言葉が無いことを、そのまま肯定だと決めつけて。クロエはもう一度距離を埋めた。今度は、拒まれることはなかった。 「ん、っ……」  初めて交わした口づけは、身体を繋げるよりもずっとずっと、そこにあった見えない線を越えてしまったような気持ちにさせた。目を開けていられない。  唇を割って滑り込んでくる舌は、追いつかない気持ちに構わず、アルバを翻弄する。震える指の先が、自分の意思とは無関係にクロエを求めるように伸び、濡羽色の髪を絡ませながら彼の後頭部へと置かれる。 「ふ、あっ……、」  息苦しくなって口を開けば、クロエの舌がさらに奥へと入り込もうと蠢いた。吐息と喘ぎを混ぜ込んだ唾液が、口の端から顎へと伝う。  酸素不足で頭がくらくらする。耐えられないとばかりにクロエの肩を押す力は弱い。そこでようやく唇が解放された時には、アルバは肩で息をしていた。 「……っ、は……ぁ……す、こしは、加減しろ……」  すっかり蕩けた瞳に、強気な輝きは今は無い。言葉とは裏腹に、そこにはもっと苛烈な快楽を求めるような色が宿っていた。 「……ねぇ、引き返せそう?」  答えなど、わかりきっているだろうにそんな問いを寄越す。  ぼんやりとした頭の中に、それに対する少しの苛立ちを滲ませながらも、アルバは緩やかに首を横に振った。  ローションを纏った指は、既に二本がアルバの内側へと飲み込まれている。クロエの上にしなだれかかった身体は、そこから与えられる快感に時折揺らめく。 「あ、っ……な、んで、こんなの、持って……っ」 「んー? ローションのこと? まあ、男と寝る時も、あったし……」  互いに最初の相手ではない。知っていたことだ。なのに、何故か胸の奥に重たく沈むものを感じて、アルバは少しだけ不快になった。  なんとなく今の顔を見られたくなくて、クロエの胸元へと伏せる。そんな様子を見た彼は、アルバの後孔を暴いていない方の手で、金糸を梳くように頭を撫でた。 「えぇ……何、もしかして拗ねてるの……? かわいーね?」 「そ、んなんじゃ、ない……っ!」  言われた言葉に反射的に身を起こしたアルバの門渡りに、クロエの屹立の先端が当たる。自重で押し上げてしまったそこから、痺れるような快感が全身を走り、アルバの身体から力が抜ける。 「ひ、うぅ……」  再びクロエの上にべったりと身を預ける結果になってしまい、アルバは恨めしげな色をその瞳に浮かべた。  そんな彼の額や目元に軽いキスを降らせながら、クロエが囁く。 「ほら、集中して。もっと気持ちよくなりたいでしょ?」  甘やかすような声音で言いながら、後孔に指を追加する。さしたる抵抗も無く飲み込まれた三本目。腹の内を満たす質量の増加に、アルバが浅く呼吸を繰り返した。 「……安心して、なんて言うのはおかしな気もするけどさ……。自分のベッドでセックスするのは、これが初めてだよ」  その言葉に、アルバの肩がぴくりと跳ねる。 「自分の領域に他人を入れて、ましてや、こんな無防備なコト。普通だったら、しようなんて思わない、し」  クロエの声が、気まずげに途切れる。  つまり、それは……。アルバはクロエにとっての「特例」であるという、ことで。 「……あ、締まった」  言われたことを理解した瞬間、アルバは身の内の指をきゅううっと締めつけてしまった。内壁の収縮に合わせて、指の腹が勝手に気持ちいい場所を擦っていく。 「あ、や、やだ、やっ……!」  自分の意思とは無関係にかくかくと揺れてしまう腰。上気した頬の上を、自然と滲んだ涙が伝う。どろり、とアルバの瞳の輪郭が曖昧になる。  官能に浮かされ、熱を上げるばかりの身体を前に、クロエの理性もすっかり削られ、今や吹けば飛ぶようなほどしか残ってはいない。  性急な手つきでベッドサイドチェストの抽斗を探り、中から取り出した避妊具の包みを口に銜える。生々しいビビッドピンクの外装を視界に捉えたアルバが、包みに向かって手を伸ばす。 「……なに?」  銜えた避妊具を奪い取られたクロエは、首を傾げてアルバを見遣る。  酸欠の金魚のように口をゆっくり開け閉めし、蕩けた瞳の半分を瞼の陰に隠しながら、アルバは自分でも理解が及んでいないとでも言いたげな声音で零した。 「……これ、は、いらない……、」  ぽとりと力無くベッド上に落とされた鮮やかなピンクの包み。そこから色が抜けて移っていくかのように、アルバの頬がじわじわとその色を濃くする。  クロエの胸の上に手を突き、緩やかに裸身を起こす彼。内側を暴いていた指が抜けていく。暖光の下では、淡く輝きを放っているようにも錯覚する、華奢な肢体。 「……過去はなくならない。けど、上書き、してほしいんだ……アンタに、」  口元が描くいびつな笑み。ともすれば泣き顔と変わらないだろう、そんな顔をしてアルバは続けた。 「この腹の中に、こびり付いてる嫌なもの全部、オレを汚してきた奴らの痕跡、全部……アンタが、塗りつぶしてくれよ?」  そう言って自身の腹の上に掌を置くアルバ。望まれたことを正しく理解したクロエの頭は、素直に下腹への血流を増やす。  双丘を撫で上げる屹立の感触に気がついたアルバは、居たたまれなさそうに身体を揺らした。そこに、逃がさないとでも言うように腕を伸ばし、クロエはアルバを掻き抱いた。 「あー……のさ、こんな、ガチガチになった状態でするような話じゃ全然ないんだけど……聞いてくれる?」  腕の中のアルバが小さく頷くのを肌で感じたクロエは、言葉をひとつひとつ探すようなテンポで話し始めた。 「君も見たから知ってると思うけど……僕は、陽の光が苦手なんだ。……怖かったんだ、」  心臓に直接絡みつくような、切ない声音は続く。 「はじめて人を殺した日も……太陽の眩しい日だったよ。それを、何度も思い出す。……夜毎に深くなる僕の罪が、浮き彫りにされるみたいで、太陽は、怖い」  きゅ、とアルバを抱きしめる腕に力が籠もる。重ね合わせた肌の、すこし熱いくらいの温度。 「君が前に、こうして抱きしめてくれた時……自分が肯定されたような気が、したんだ」  その時、青空色の濡れた目が丸く見開かれたことを、アルバの肩口に顔を埋めているクロエは知らない。 「強くなければ生き残れない。ここは、そういう街だから。持ち物は少なく、弱みは隠して。……それが、当たり前だって、思ってたから、」  クロエの吐息に耳の端を擽られ、アルバがふるりと肌を粟立たせる。いつの間にか、応えるようにクロエの背に回されている掌。体温の境目はとうにわからなくなっていた。 「だけど、君が――」  不意に、身体を半ば無理矢理引き剥がしてきたアルバが、クロエの唇を自身のそれで塞ぎ、彼の言葉を強制的に途切れさせる。 「……その、話は……また今度、聞かせてくれ。……あんまり、焦らすな、っ……」  抱きかかえられた姿勢のまま、太腿を擦り合わせながらアルバが言う。脚の隙間から覗く彼のモノは頭を持ち上げ、その全体をぐっしょりと濡らしていた。  やわらかな語り口は、思っていた以上にアルバの身に沁み込んで、甘い痺れを走らせた。まるで愛でも囁くみたいな声音を聴く心地良さを得るより、早くからだの奥まで熱の楔で埋めてほしい、と思うくらいには。 「……ん、む」  返事をする代わりに、クロエの唇がふわりとアルバのそこに重なる。抱き上げた身体を、壊れ物でも扱うみたいにシーツの上へと下ろす。白い波の合間に沈む肢体は全体が淡く桃色に染まって見え、確かに待ち侘びているようだった。  滑らかな腿の裏に手を掛け、クロエはアルバの脚を開かせる。ぴくぴくと頭を動かす自身の屹立に、嗜めるように指を添えつつ、濡れた後孔へとその先端を宛てがった。 「……っは、ぁ……」  隘路を開く熱の塊に、あえかな吐息を漏らすアルバ。隔たりなく繋がるそこは、かつての夜とは全く違う。  奥へ奥へと誘い込む内壁の動きに抗いながら、クロエはゆっくりと屹立を中に収めきった。  乱れた呼吸の合間、溶けた目をひたりとクロエに合わせたアルバが、指先でその頬に触れてくる。 「……なぁ、髪、ほどいてくれないか? ……好きなんだ、アンタの、」 「ん、いいよ」  短く答え、長い髪を結い上げている紐を解く。さらりと流れ落ちる濡羽色のそれは、カーテンのようにアルバを囲った。  室内灯の淡い光を遮るひと房を掬い、頬を寄せた彼の眦が柔らかく緩む。 「……ねえ、好きなのは、髪だけ?」  熱を孕む肉筒に抱かれた屹立を軽く揺すりつつ、クロエが問うた。まるで拗ねているような物言いになってしまったことに、少しだけばつの悪そうな顔をして。  粘膜を擦る感触に裸身を震わせながら、アルバは蠱惑的に色づいた唇を開く。 「それだけ、じゃ、ない。……夜と同じ色をした目が、好き。オレとキスをした、唇が好き。声が好き。指の先が――」  言葉を途切れさせたのは、今度はクロエの方だった。甘い囁きの続きは、互いの口の中で飴玉みたいに溶けて消える。 「……聞いたのは僕だけどさぁ、やっぱ、いい」  隠せないくらいにクロエの頬に色が乗っている。彼は不安そうで、泣きそうな、あるいは笑みを浮かべる直前のような、複雑な表情をしていた。 「なんだか、怖くなる。そんなに甘い言葉、ばっかり」  全部今更としか言えなくとも、戻れないことが恐ろしいのはクロエも同じだった。  これまで持たずに生きてきたものを手にして、自分がどう変化してしまうのかわからないのが怖い。そして、いずれそれを失うことがあったとして、自分が平気で居られるのか、というのも。 「……アンタは、言ってくれないのか?」  揺れる眼差しが心臓に絡みついて切なく痛む。  望まれている言葉がわかっていても、クロエはそれを音に出来ずにいた。ごまかすようにアルバの唇を再度塞いで、舌先の愛撫で代わりにしようとする。 「んぅっ……」  アルバの瞳に不満の色が宿るが、口づけも肌を撫でる掌の温度も、ともすれば言葉以上に雄弁だった。絆された身体がとろとろと溶けて、甘い反応だけを返し始める。  腰から脇腹にかけてを這っていた掌は胸元へと伸び、淡く染まり芯を持つ突起を指先で擽る。軽い痺れに似た快楽は、オイルタイマーが落ちるみたいに腹の底へと溜まっていく。 「あ、あぅっ、……っや、ん、」  最奥を優しくノックするような緩やかな突き上げ。押し込まれる度に吐息混じりの嬌声が零れる。  とうにひび割れていた頭の中の冷静だった部分は、端から砂に変わっていった。 「うあ、ぁ……っ、きもち、い」  そう、気持ちがいい。アルバの茹だった脳でもそれだけはわかった。  以前の行為では、互いに催淫剤を口にしていた。それが快楽の理由になり得た。しかし今は、なんの外的要因もありはしない。けれどこんなに、身体が歓喜している。もうそこに、何ひとつ差し挟める言い訳は無いのだ。 「っふ、あ、ああっ……! そこ、っあ、そこ、すき、」  一番感じる場所を、屹立の先端が抉る。考えるより先に、次々声が零れてしまう。 「んあっ、すき……くろえ、すきぃ……っ!」  他の感情はどこにも無い。 「〜〜っ……!」  息を詰め、ぎゅっと眉を寄せたクロエの屹立が、アルバの内側で質量を増す。圧迫感が強くなり、白い喉を反らせて彼は喘いだ。  兆し震えるアルバ自身から、律動の度に蜜が溢れる。 「っあ、中で、大、きく……っ!」 「……あんま、煽んないで、よっ……!」  抜き差しの都度に立つ濡れた音は、最早ローションのせいだけとは言えない。生々しく二人のあわいに響くそれが、余計に限界へと急き立てる。  不意に、クロエがアルバの両腿を捕らえ、大きく脚を開かせた。しとどになった腹も、その下の秘所も、惜しげもなく晒される。  灼けつくようなクロエの視線が、アルバの裸身をじりじりと焦がす。堪らず目をきつく瞑ったアルバが声を上げる。 「そんなに、見るな……っ」 「どうして? ここには、僕しか居ないのに」  間を置かず答えたクロエの声は、まるで愛玩動物に呼びかけるみたいに穏やかだ。獲物を前に舌なめずりをする捕食者の瞳。「いとおしい」と「傷つけたい」は同軸に並ぶのかもしれない。そんなことをアルバはぼんやりとした頭の端で思う。 「あ、う」  クロエの糸切り歯が喉元へと甘く突き立てられる。  被虐趣味がある訳でもないのに、こんな刺激にさえ感じてしまう。けれど、それは他の誰でもなく、クロエに与えられるものだからだと、アルバはその身で理解していた。彼から齎されるものなら何だって、という盲目的な感情。  首筋に顔を埋められているため、クロエの耳がふと目に入った。淡く色づいているそれを、アルバは誘われるように口に含む。 「ちょ、っ……!」  途端に、耳を押さえて身体を引いたクロエ。その表情には、性感を得ている様がありありと浮かんでいて。  離された身体の隙間に入り込む空気を、ひどく冷たいと感じる。逃げ出す熱を手放せない本能が働き、ほとんど無意識に近い状態でアルバはクロエの首へと腕を回す。 「もっと……もっと、おくまで、きて。ずっと、ナカまで、っ……ねぇ、くろえ、っ」  蕩けきった声と瞳が、矢のように容赦無くクロエの肌を突き刺した。背筋を急速に走った衝動の名は知らない。ただ、腹から迫り上がる何かを抑えつけるように身震いする。  クロエは、汗で湿り貼り付く髪を無造作に掻き上げた。少しだけ良好になった視界の先、自身の下で快楽に身を浸すアルバの姿。  律動は緩急をつけ、続いている。アルバが喘ぐのに合わせて蠢く内壁が、絶えず屹立をきゅうきゅうと食んでいた。 「っあ! や、あぁ、やめ……っ、そこ、おす、なぁ……っ!」  腰の動きは止めないまま、クロエは徐にアルバの薄い腹の上へと掌を乗せ、臍の下辺りをぐっと押す。往復する砲身の感触が伝わってくる。  そうされることで、より強く自身を暴く熱の塊を感じてしまうのはアルバも同じようで。屹立を締めつける内部の力が僅かに強くなった。 「じゃあ……こっちなら、いい?」  言いながら、クロエは蜜をとぷとぷと零し続けるアルバ自身へと手を移動させる。竿に長い指を絡ませ、先端を親指の腹で擦れば、わかりやすいくらいに少年のやわらかな太腿が跳ね上がった。 「ひッ、あ! そ、っちも、だめ、っ……らめだから、ぁ……っ!」  煮詰められた理性の前では「だめ」という言葉など都合良く作り変えられてしまう。  速度を上げる抽挿。室内は一気に様々な音で満たされていく。肌のぶつかり合う音、繋がった場所からの濡れた音。そして。 「んあぁッ! や、っあ、は、ああぁっ……!」  熟した果実で拵えたジャムのように甘い、嬌声。  熱はもう、とっくに上がりきっていた。あとは解放を待つだけ。  突き上げの度にアルバ自身の先端からは少量ずつ蜜が漏れ出す。何度も頭を振っても、もう快楽が逃がしきれない。クロエの首に引っ掛けていた腕は滑り落ち、シーツの上で泳いだ。 「っも、むり……いく、いくぅっ……!」 「いいよ、イッても。……だって、」  ――夜はまだ長いんだから。  そんな言葉と共に、クロエはアルバの最奥を思い切り突き上げた。 「ッあ、ぁ、っ……あああぁッ……!!」  熱を孕む空気を裂くような嬌声とともに、全身をぶるぶると震わせてアルバは達した。断続的に放たれる蜜が、互いの腹を濡らしていく。  絶頂に伴い、激しく収縮するナカの締めつけに抗わず、クロエも欲を放った。内壁をくまなく塗り潰すように熱の波が自身の体内に広がっていくのを感じ、アルバはふっと目を瞑る。  荒い呼吸を繰り返し、口の端からとろとろ唾液を零しているアルバを、同じく乱れた呼吸のクロエが見下ろしている。ややあって、甘美な蜜に誘われる蝶のように、クロエは舌先をアルバの口元へと伸ばして唾液を掬った。そのまま、深い口づけを交わす。 「ん、ん……っふ、んぅ、」  こんなのは、本当に恋人同士の睦み合いではないか。茹だった頭の隅でそんなことを考えた。  余韻に震える内壁が、まだ中に埋められたままの屹立を煽るように波打っている。再び血液がそこに集まる感覚。  絡み合っていた舌が離れ、そこを繋いでいた透明な糸が切れた際、不意に二人の視線が交わった。  湖面に映る快晴の空と同じ色をしているアルバの瞳。その奥には未だ情欲が沈み、熾火のようにちらちらと揺れていた。それは言葉以上に雄弁であったし、クロエもまた、腹の底に燻らせるものがあった。  ならばこの先は決まっている。窓の向こうは静かで、互い以外の世界は眠りに就いている。クロエの語ったとおり、夜はまだ長かった。  重なっていた視線を遮ると、二人はどちらからともなく唇を合わせた。    ***  カーテン越しに差し込む陽の光が、目覚めて一番に視界に入ったものだった。その淡い明るさを目にしても「朝だな」としか思わなくなったことが、未だに少し慣れない。  ロッソの別邸に移って以来、前の部屋のように遮光カーテンではなくなった室内。けれど、もうそれは気にするべきことにすらならなかった。  呪いのように肌に染みついていた恐怖を、いつの間にか溶かし消し去ってしまった存在。 「…………」  クロエはのろのろと身を起こすと、寝乱れた髪を揺らしながら自身の周囲を見渡した。体温のほとんど残っていないシーツ。皺の寄ったそれには確かに痕跡があるのに、昨夜の出来事はすべて夢だったのかと錯覚しそうなほど穏やかな朝。  しかし、背中に走る微かな痛みが、残された爪の痕を確信させる。そこでようやく、奥に設置されたバスルームから水の音が聞こえることに気がついた。更に、部屋の隅のクローゼットが開いていることや、デスクの上に置きっぱなしのマグカップの存在にも。 「……、……おはよう」  窓から透き通った青空を眺めていたクロエは、背後から声を掛けられ緩慢な動作で振り返った。  濡れた髪をタオルで拭きながらバスルームから出て来た少年。その身には白いシャツを羽織っているが、オーバーサイズなのか袖を数回折り返している。それもそのはず、シャツはクローゼットから引っ張り出されたのであろうクロエの予備だ。  絨毯を踏む裸足の足音。朝の空気を僅かに揺らすそれの持ち主は、目覚めたクロエがずっと脳裏に浮かべていたその人で。 「……おはよう、アルバ」 「!!」  クロエのすぐ側にまで近づいていた彼の体が、自身の名を紡がれたことでぴくりと跳ねた。丸くなった空色の瞳が、おずおずとクロエを見上げる。 「名前……」  昨夜、ベッドの中だというのに終ぞ呼ばれることのなかったそれを、今になってあっさり口にされた。その理由を求めて自身を見つめ続けるアルバを前に、クロエは猫のようにゆっくりと瞬きする。 「……考えてたんだ、ずっと」  一歩、クロエがアルバとの距離を詰めた。 「目が覚めて、君が横に居なくて、もしかしたら夢だったのかもって思って。……シャワーの音が聞こえて、安心した」  真っ直ぐに、アルバの瞳を撃ち抜くクロエの視線。それを受けて心臓が跳ねる感覚に驚き、アルバは半歩退く。 「……ごめんね、もう、離してあげられないかもしれないんだ。……だって、名前、覚えちゃったから」  それは、自分の中に居場所を作るのと同義なのだとクロエは言う。  あまく緩んだ目元。やわらかな眼差しが羽のように肌を撫でる感覚に、アルバは身を震わせた。  縫い留められたみたいに動けなくなっているアルバの体を、そっと抱き寄せる。そうすることが自然であるかのような動作。クロエの裸の胸に頬が触れ、ひたりと重なる、同じではない体温。 「…………すきだよ、アルバ」  長身のクロエが、小柄な自分に縋っているような様が、たまらなく胸を締めつける。この温かい鳥籠の中から、ずっと抜け出せなくてもいいと思ってしまう。  折った袖の端から覗く指先が、そっとクロエの腕に触れた。それが答えの全部だった。  抱きしめる力がほんの少し緩んだタイミングで、アルバはクロエを見上げた。迷い子になったような気持ちで投げた視線。クロエも似たような顔をしていた。  互いに、なんだか慰めを求めたいような気分だった。だから、どちらからともなく唇を寄せ合った。触れる寸前に恋の言葉を零したのは、果たしてどちらだったか。 「……おや、」  時を同じくして、庭に一人分の影があった。  ロッソファミリーの長であり、この邸の主である、リナルドだった。朝食の前の僅かな余暇を使って、軽い散歩に出ていたのだ。  彼はちょうどクロエの私室の下に差し掛かった時、窓辺に動くものを捉えて、反射的に視線を上げてしまった。 「どうやら、野暮な真似をしてしまったようだ」  ふ、と微かに息を漏らして笑いながらそう呟くと、リナルドは気取られないようにそっとその場から離れていく。  窓の向こうで変わったひとつの関係。その存在はまだ、二人の他には彼しか知らない。

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