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名もない彼「うぐぐっ、ぐっすん」

聡と森でイチャついたあの日、名もない彼は自分の時代が戻って来たのを確信した。 葵が暴れ回っていた頃、彼は最初に殴り倒された。高校生の彼は強かった。誰からも恐れられ、媚びへつらわれていたのだ。それが中学生の葵に負けた。一瞬で、その地位を失墜したが、この春に葵がいなくなり、あの日に聡に誘われたことで、全てが元通りになったと、彼には思えた。 ことが終わったあと、聡に蹴飛ばされはしたが、愛するが故に耐えた。聡は癇癪持ちだ。それを受け留められる男と証明してみせたのだ。森の奥深くでの戯れは、二人の秘密、可愛い聡との愛の始まりだったと、彼はそう信じていた。 その癇癪が原因で、二人は引き裂かれることになった。聡の祖父の村長が、村に広がり出した噂を気にしたからだ。夏休みを目前にして、名もない彼の可愛い聡を、村長は葵がいる町の学校へと転校させてしまった。 〝上級生の子達も好青年ばかりでな、葵もちゃんと馴染んでいたぞ、あそこでなら、孫も落ち着いてくれるだろう〟 村長が村の者達に話していたことだが、名もない彼には、軟弱な学校の軟弱な奴らに染まり、あの葵も軟弱になったと、そう聞こえた。村長の話には続きがあった。軟弱になった葵が軟弱な奴らを引き連れて、夏休みに戻って来るというのだ。もちろん、可愛い聡も一緒にだ。 名もない彼は喜んだ。これで雪辱が果たせる。今回こそは葵を殴り倒して、この手に可愛い聡を取り戻す。自分が立てた計画に、彼は酔い痴れた。 そして待ちに待ったその日が来た。駅前の広場には、村長を中心に村民あげての歓迎式典まで用意されている。名もない彼はその騒ぎを尻目に、一人ホームに入り込み、片隅に隠れて、列車の到着を今か今かと待っていた。 列車の到着を知らせるベルが鳴った。ホームに列車が着いた。ドアが開く。最初に葵が降りて来た。 名もない彼「ったくよぉ、相変わらずダセぇカッコしてんなぁ」 続いて現れたのは、ちびっ子三人組だった。 名もない彼「やっぱ、思った通りだぜ、軟弱な学校の軟弱な奴らだな」 そのすぐあとで、見るからに金持ちの無表情な少年が降りて来た。 名もない彼「こいつもちびっ子だな、油断ならねぇ顔しやがって、イキってんじゃねぇぞ」 間を置かずに、村長の話にあった好青年らしき男達が降りて来た。 名もない彼「肌の色が違うあいつ、アホだな、一番のちびっ子にウザがられてやんの、にやけ面の二人も、大したことねぇぞ、余裕、余裕……」 と、その時、〝葵……〟と呼び掛ける物柔らかな声と共に降りて来た男の優美な容姿には、彼も言葉がなかった。葵も美人だが、昔から悪ガキだった上にオヤジ臭く、類稀なその美貌を馬鹿にはしても感銘を受けたことはない。その男は違った。艶やかで秀逸な美しさに、彼は驚嘆するばかりだった。恐れ多くて、ひれ伏したくなるくらいだった。 名もない彼「あ……あんなの、軟弱な学校の軟弱な奴らのリーダーってだけだろ、どうってことねぇぞ、ちょいと脅せば、泣き出すさ」 そこでようやく彼の可愛い聡が降りて来た。彼はすぐにでも駆け寄ろうとしたが、出来なかった。厳つい顔の割に品のある身ごなしの男が、聡の背後にいたからだ。男はその長身から聡の頭越しに周囲を見遣り、ホームの片隅に隠れる彼を、琥珀色した瞳に捉えた。彼にはそう見えた。思わず後ずさったが、その時には男の興味は他へと移っていた。 名もない彼「こいつは……こいつには……」 葵達の歓迎に沸き立つ陰で、名もない彼はむせび泣いた。

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