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第1話 出会い
ガラス細工の鳥がネオンに反射してきらきらしていた。
これ、見たことある……。
水井春(みずいしゅん)はウインドウの前で立ち止まった。
「おばあちゃんちにあったやつだ……」
古びたたんすの上で埃を被っていた置物と同じものだと思った。
ライトアップされて飾られるとこんなにきれいになるんだ。
春の吐く息でウインドウが白く染まる。
扉が開き、中から女性が現れた。三十代くらいだろうか。きれいな人だった。
「よろしければ中でごゆっくりご覧になりますか?」
優しそうな微笑みに春も思わずにっこりとした。
「いえ、あの、また来ます」
「そうですか、いつでもお待ちしております」
女性店員の笑顔から目を逸らし、春は会釈だけをして立ち去った。
今の自分にはとても買えそうにないのに、店の中まで入ってしまうのは悪い気がした。
それに明日は転職先の初出勤日。
大学を出て七年間務めた前の会社は業績が悪化してあっさり解雇されてしまった。そこから必死に転職活動をして、自主的に引っ越すことを条件にやっと決まった先なのだ。
引っ越し代に費やした分、しばらくは慎ましい暮らしをしなくてはいけない。
縁もゆかりもない土地に一人、寂しくないと言えば嘘になる。
必要最低限のものだけをドラッグストアの特売で購入して、電車に乗って数駅向こうの自分のアパートに戻るところだった。
十二月に入ったばかりなのに寒波のせいで凍った風が春を打ち付けていく。
きれいなものや可愛いものを見つけるとつい嬉しくなってしまう。だからさっきも視界に入った煌めきに引き寄せられてしまったのだ。
自分が男性であることに違和感はなくても感覚が女性に近いことは思春期からなんとなく分かっていた。
必死に隠して生きているうちにもう二十代最後の年齢になっていた。
電車に乗って窓から外を見ると、都会の夜景に目を奪われる。ビルの窓の明かりがいろんな色をつくっていてさっきの置物みたいに煌めいていた。
駅に着くとたくさんの人がいっせいに降りる。朝のラッシュでもないのにこんなにたくさんの人がいるなんて春の地元では考えられなかった。家賃の相場に合わせて都心から離れた場所を選んだのに。これじゃなかなか気持ちが休まらなさそうだった。
こんなにたくさんの人間がいるのに、それでも春の恋愛の相手になってくれそうな人はなんでこんなに少ないのだろう。少数派な自分がつくづく哀しくなる。
改札でもたついてしまい、すぐ後ろの人に舌打ちをされた。
「すみません」
頭を下げたときにはもうその人は先を歩いていた。
「落としましたよ」
という声の方に顔を向けると、男性がハンカチを差し出していた。それは春がポケットに入れていたハンカチだった。
「あっ、ありがとうございます」
とまた頭を下げた。頭を上げると、親切にしてくれた人が気になったが、その人の広い背中がもう先を歩いていた。
改札を出て、大通りを避けて左に曲がった。少し暗い道だが近道だし、人数がここからは少なくなる。
ぽつんぽつんと並ぶ街灯の下を通るたびに、手の中に母親の温もりが蘇った。
幼稚園に通っているときに父親がある日を境に家に帰らなくなった。母一人子一人で何でも乗り越えてきたのに小学六年生のときに母親は病気でこの世を去った。
まだ母親が元気だった頃、寂しくて母親のパート先に出向いたことがあった。怒られるかと思ったのに、目に涙を浮かべて「おなかすいたよね、ごめんね」と言ってくれた。
夜道を手をつないで帰った。「春ももう八歳だね」と言って、街灯の下に来るたびに手を大きく振って笑い合った。そのときの手の温もりが今でも消えない。
誕生日には無理して丸いケーキを買ってくれた。
お母さん……。
母方の祖父母に預けられ、そこから十数年育ててもらった。二年前に祖父、昨年祖母を見送り、本当に一人になってしまった。
戻る場所も進む場所もなくなった。
一人で生きていかないといけないとずっと自分に言い聞かせていたのに、寂しさという気持ちがどんなものなのかに嫌でも気付かされてしまう。
せめて友人がそばにいれば。でもみんな遠い場所で各々に忙しい毎日を送っている。同じ時間を過ごしたいと思ってもそれは現実的ではなかった。
アパートのすぐ前の街灯の下に立った。手の平を開いてみる。すると亡き母の潤んだ瞳が蘇った。
ふと前の方から別の足音が聞こえた。歩いているのは自分とその人くらいだ。
何の気なしに前を見た。電灯の届かない暗い位置で大柄な男性のシルエットが見えた。春と同じように立ち止まっているようだった。でも携帯電話を耳にあてているようで、うんうん、と言っている。
電話か……。さあ帰ろう。
春は、手をギュっと握ってアパートの階段に向かった。
◇◇
マジかよ……。
二階……の空き部屋だったあそこか……。
工藤潤は、扉が閉まるのを見届けてから耳にあてていただけのスマートフォンを外した。
電車の中で、外を見ている奴がいた。
瞳が潤んできらきらしていた。可愛い……。これが正直な感想。
でも男が男をそういう目で見ていると思われるのが嫌で、ちらちら見るに留めておいた。
自分のいつもの駅で降りたら、そいつも別の扉から降りていて胸が高鳴ったが、この駅はたくさんの人間が利用するのですぐに現実に戻った。
改札で誰かに頭を下げていたそいつのポケットからハンカチが落ちたのが見えてしまった。小柄でスリムなそいつが申し訳なさそうに謝罪している姿に胸が痛んだ。
見ていない振りもできたのに、なぜか放っておけず拾ってやった。恥ずかしいのとそいつを意識していた自分もあったのか、可愛い顔だけはちゃんと見ておいたが目が合う前にその場を去った。
いつもは時間をかけないのに、コンビニでわざと時間をかけた。
いつものように近道の左に曲がったら、そいつが前を歩いていて驚いた。帰る方向が一緒ってありえないよな、と緊張する自分がいた。
でももし、親切にした男があとをつけて来ているなんて思われたら嫌だったので、わざと途中から違う道に入った。
アパートの前の道を歩いていると、いつもは自分が歩いている向こう側からそいつが俯きながらこちらに歩いて来るのが見えた。
そいつはなぜか立ち止まって手の平を見つめていた。街灯があるとは言え暗い夜の中でそいつが何となく泣いているような気がして、目が釘付けになった。
そいつが顔を上げたので慌ててスマホで電話している振りをした。自分が立っていた場所は街灯が途切れていたので顔ははっきりとは見られていないはず。
まさか……とは思ったが、同じアパートの住人だったのだ……正確には、そいつが新しくここに引っ越して来たということになる。
「あら、工藤さん、ちょうど良かった」
「あ、大家さん」
大家の松野順子がゴミ袋を持って砂利の駐輪場の前に立っていた。
「お仕事帰りで申し訳ないんだけど、今大丈夫?」
「はい、大丈夫です、あっ、もしかして」
「そう、工藤さん、再来月の更新しないって主人から聞いて。書類渡さなきゃって思っててすっかり忘れててごめんなさいね」
「あ、いえ全然」
「昇進したんですって? 良かったじゃない。給料上がったらうちのアパートじゃ物足りないわよね。明日ポストに入れておくからよろしくお願いしますね」
「あっの、その件なんですけど……」
「はい」
「……やっぱり、もう少しお世話になろうかなーなんて」
「あら、そうなの? うちは助かるけど、本当にいいの、課長さんがこんなアパートで」
「いや、ま、課長に昇進したのは関係ないっていうか……大家さんが助かるなら俺は嬉しいですし」
「ふふふ、それはどうもです。ちょうどね、あの二階の空き部屋だったとこに新しい人が越して来てくれてね。正直ちょっと助かったんだけどね」
「あ、ああ、そう言えば電気点いて、ますね。気づかなかったなぁ」
「二、三日前に入ったばかりだから」
「……ど、どんな人なんですか、なんて、こんなこと聞いたらだめっすよね」
「学生時代からずっといてくれてる工藤さんだけ特別よ。一階では一番古株だしね」
「は、はい」
「二十九歳の男性でね、会社員の人。優しそうでいい人だったよ。それに爽やかな人でね。思わず野菜あげちゃったの」
「そ、そうなんですね」
「どうかした? なんかそわそわしちゃって」
「いえ、大丈夫です。じゃ、更新ちゃんとしますんでよろしくお願いします」
「本当にいいの? 無理しないでね。若い人はいいマンションとかに行きたいでしょ」
「いや大丈夫です。せ、先方の契約内容にちょっと、納得、がいかなかったのもあって」
「そうだったの、それは仕方ないわね。うちは歓迎ですからね、今後もまたよろしくね」
「はい、こちらこそです、では失礼します」
潤は鍵を素早く開けた。
二十九か……俺の四つ下か……ちょうどいいじゃん、って何言ってんの俺。
でもあいつ二十四、五でも通用するかもな……。
こういう設定ってドラマでよくあるよな、ご近所で仲良くなってそんで恋愛に発展して……ベタだけど、近いっていいよな……って。
「だからありえないって」
潤はネクタイを解いた。
なんでいきなりこんな妄想ばっかりしてんだろ。ヤバい奴みたいじゃん。
男同士だっつうの。
潤はため息とともにシャツを洗濯機に投げ入れ、手を洗った。
「何回目だよ……」
一方的に男を好きになっても、しんどいだけだってわかってんのに。
ハンドソープの泡が鏡に飛んでしまった。
「ああもう」
と自分の顔を見る。
……なんで俺、こんな強張った顔してんの。
それに……思わずアパートの更新してしまったじゃん。
大学進学で上京して二度目の引っ越しでここのアパートに住み始めた。アパートの隣の一軒家に住んでいる大家さん夫婦がいい人で、居心地も良くて大きな不便もなかった。
新卒で入社した会社に勤めて十一年目の今年、課長に昇進した。女性にモテると思われているようで、独身でいることを揶揄されることもあったが、仕事の成果を出すたびにそんな声もいつの間にか消えていた。
女性からアプローチを受けることもあるが友達のように接することを心がけてお互いに傷つかないように振る舞ってきた。
高校のとき、同じクラスの男子に一目惚れをしてから本当の自分に気付いた。そいつが可愛い系の奴だったから自分は女子とでもちゃんと付き合えると思っていた。
女子から告白を受けて軽く付き合ったりしたこともあったが、彼女と手をつないで帰っているところをそいつに見られたとき思わず手を放した自分がいた。
そいつが自分のことを完全にクラスメイトとしか見てくれなくなるんじゃないかという恐怖心の方が勝ってしまった。そのとき、自分の指向に気付いた。
彼女も可愛い子だったのに、可愛い男に目が奪われる自分をどうしても消せなかった。
そこから大学でも社会人になっても、同じような外見の男に目がいってしまう。共通の友人がいたらなんとか友達までは辿り着く。向こうも機嫌良く接してくれる。
じゃれてる風に見せてそいつの肩に手を回したとき、低い位置の華奢で柔らかい感触に欲情してしまった。女の子の肩とたいして変わらないのに、男の肩だと思うとなぜか気持ちが熱くなる。
だからといって、その先に進むことはなかった。
潤は、子供のときから自分から何かを主張したり、友人を自分の都合に合わせて無理に遊びに誘ったりすることが苦手だった。まして恋愛感情をすぐに表に出すということは考えられなかった。
そいつたちに彼女ができたり結婚したりしている姿を見ると、同性に告白する勇気なんて空気が抜けた風船のように萎むだけだった。
男を好きになっちゃいけないって、何回も言い聞かせているのに。
「……なんで……学習しねえんだろ」
潤は手を拭き、引っ越す予定をしていたマンションの不動産会社に電話をした。
今回は賃貸契約を結ぶことを見送ると申し出た。しつこく理由を聞かれたが適当に答えた。残念がられ家賃の値引き交渉までされた。元々契約内容に不満なんてなかった。
それでも、ここを離れたくない自分に嘘をつくことができなかった。
スマホを置いて、ため息をついた。
「どうせ……自分から、声もかけられないくせに」
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