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第2話 初出勤日
初日からお弁当なんて作って行ったらおかしいかな。弁当男子とか言われて、またからかわれるかな。でも、いっか。
春は、冷凍ご飯を温め、もやしと魚肉ソーセージの炒め物、玉子焼き、ブロッコリーの塩ゆでを手早く弁当箱に詰めた。
ブロッコリーは大家さんからもらったものだ。買いすぎたからと言ってわざわざ持って来てくれた。ほんとラッキーだった。余った分はまた今晩と明日も使える。
自炊の方が安上がりなのもあるが、体にもいいし、やっぱり美味しい。お昼くらいはほっとできる時間にしたい。
スーツの上にコートを羽織ってマフラーを巻き、皮のトートバッグを肩にかけた。
アパートの階段を下りたところで、一〇一号室の住人だと思われる人がドアに鍵をかけてこちらに振り返った。春の部屋と対角線にある一番遠い部屋だ。
その人と目が合った。背が高くて整った顔立ちでネクタイ姿が似合っている人だった。
かっこいい人だな……なんか緊張しちゃうな。
するとその人は立ち止まって、固まったような驚いたような顔でこちらを見ていた。
そっか、見慣れない顔が二階から下りて来たから戸惑っているんだ。
「おはようございます」
春が明るく声をかけると、その男性の口がパクパクと動いた。
「あの……僕、二階の二〇四に新しく引っ越して来た水井と申します。驚かせてしまってすみません」
「あ……いや、あ、お、おはようございます。俺は工藤と言います」
「ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、これからよろしくお願いします」
春は頭を下げた。こういうときは最初の印象を良くしないと集合住宅ではやっていけない。
「あ、はい、こ、こちらこそ」
工藤と名乗ったその男性は足早にアパートの敷地を出て行った。
朝の通勤前に引き留めてしまって迷惑だったかな。隣とすぐ下の階の住人への挨拶は済ませていたが、それ以外の住人への挨拶はこれからというところだった。
方向的に見ても同じ駅だなと思った。工藤という人は速足の大股で歩いて行った。ロングコートをたなびかせながら広い背中があっという間に遠ざかって行った。
どこかで見たような気もするんだけど、あ、違う……またこんなこと考えて。
春は背の高い男性の背中に思わず見とれてしまういつもの自分をぐっと押し込んだ。
春も歩き始めた。太陽が出ていた。寒い朝にこの陽射しはありがたいな。
ちゃんと新しい職場に馴染めるかな。転職自体が初めてのことなのでなんだか新入社員の頃を思い出す。新卒で入社した会社は上司が恐くて嫌な思い出も多かった。
上司が優しい人なら助かるんだけどな……。
でもせっかく転職できたんだし、もう引っ越しちゃったし、頑張るしかない。
一次面接では人事部の責任者、二次面接では役員の面接で内定となった。だからまだ直属の上司がどんな人なのかは知らないままだった。
年収はなんとか前職を維持できそうだった。それを下回ってしまうと生活が余計に苦しくなることを意味していた。だからこそ自主的に引っ越すことも決意できたのだ。
目立ったこともせず大きな買い物もせず、育ててくれた祖父母を助けて生活をしていた。少しの貯金もできたが、職を失うとすぐに底をつくような金額しかない。
一人で生きていかないといけないんだから、お金は必要……。
中性的だね。思春期のときから言われ続けた言葉だった。自分は中性的という枠の中に入る人間なんだとずっと自覚させられてきた。
男性でも女性でもないその中間という意味なんだろうか。周りは、それを特殊で珍しく、ときには悪いもののような言い方をする人が多かった。
でも春は自分をそんな風には思いたくなかった。見た目のソフトさとは裏腹な芯の強さみたいなものに反感を持たれて心無い言葉で傷つけられたことも何度もあった。
体の内側は男か女かと聞かれると確かにはっきり答えられない自分もいる。男性という性別で生きていくことには何の不安もない。
でも自分という人間を明確に定義づけできずにいると、ふと一人で生きていかないといけないという選択肢が目の前に迫っていた。
春は本当は誰かと寄り添って生きていきたい。本当の意味で一人になってしまったからじゃない。単純に誰かの温もりを感じていたい。なのに、一人で生きていけ、と見えない口から言われているような気がして、その押し寄せる圧力に抵抗できずにいた。
できれば……優しい男性の、温かい腕で包まれてみたい……。
それを望んだ時点で、中性的だという枠の中に例え入れられるとしても、それでもいい、と思った。
だけど……そんな人、いないよね。分かってるんだ、本当は。だけど……。
……一人でなんて生きていけないよ……。
前の人に続いて改札をうまく通り階段を上った。ホームに立つと右からも左からも凍てついた風が吹いてくる。
マフラーを鼻まで上げて、電車が来るのをじっと待った。
会社に着き、内線で人事部の担当者につないでもらい会議室に通された。
オフィスは洗練されているわけではないが古びた感じもしなかった。すれ違いざまに会釈をしてくれた女性社員も落ち着いた感じで印象は悪くなかった。
しばらくすると五十代くらいの男性と四十代くらいの女性が入って来た。春は立ち上がった。
「気使わなくてもいいですよ、どうぞおかけ下さい」
「ありがとうございます。失礼します」
「初めましてですね、私は部長の塩崎です」
男性に続いて女性も口を開いた。
「私は鈴屋と言います。主任をしております。よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。リラックスして」
「はい、ありがとうございます」
「水井さんの直属の上司の課長にあたる者が今日、日帰り出張でね、業務内容については私と鈴屋から説明させてもらいますんでね」
二人とも穏やかそうで優しそうな人で良かった、と春は心の中でつぶやいた。
「あ、そうそう、その課長にあたる者ですけどね、実は隣の部署からの異動と同時に課長に昇進したから、言ってしまえば水井さんと同じでうちの部署は初心者だから、力合わせて頑張って下さいね」
「あ、はい、いえ、とんでもありません」
「鈴屋さん、あいつは水井さんの履歴書見てるんだっけ?」
「あ、いえ、選考には携わってなかったので見てないと思います」
「じゃ、下の名前似てるから驚くんじゃない」
「かもしれません」
塩崎と鈴屋は少し笑った後、また春の方を見た。
「それで、引っ越しはうまくいきました?」
「はい、何とか」
「一人暮らしは初めて?」
「そうですね、初めてです」
「困ったことあったら言ってくれていいからね、今日からうちの仲間なんだから」
「あっ、ありがとうございますっ」
春は目元が熱くなり思わず頭を下げた。
それから春の使うデスクまで案内された。机の島の端は部長である塩崎が使っていて、春の向かいが主任の鈴屋で、どうやら右横が新しく課長になった人の席とのことだった。
ふと右横の机を見る。書類の上に置いてある文鎮に目が留まった。
あ、これ……。駅前の雑貨屋のウィンドウで見たガラス細工の……。
ウィンドウの中で飾られていた鳥の置物は花束を活けられる花瓶くらいの大きさがあったが、この文鎮は手の平サイズの小さいものだった。
あれ、課長さんって女性だったっけ、いや、あいつって呼ばれてたから男性だよね。でも女性でもそう呼ばれることもあるか。女性の課長ってなんかいいよね。
でも春の予想は次に見たもので大きく外れたことが分かった。デスクトップの画面の横に連なっているファイルの上に、ネクタイが無造作に置かれていた。
この文鎮、もしかしてあの店で買ったのかな。男性なら自分では買わないよね。誰かからもらったのかな。
課長さんと仲良くなるためにも会話の糸口にこの話してみよう。
オフィスの電話がさっきから立て続けに鳴っていた。会話を終えた一人の社員が塩崎に話しかけた。
「塩崎部長、新課長さんから、今日直帰するんですって」
「ああ分かった、ありがとう」
「新しい人来てますよって一応言っておきました」
「じゃ何て?」
「なんか申し訳ないなっておっしゃってましたよ」
「はは本当だよな、初日から。まあ、先方の都合に合わせて引継ぎもしてるから仕方ない」
まだ見ぬ課長さんだけど、みんなから愛されているような感じがして、春も何となく嬉しくなった。
◇◇
早朝から引継ぎがてら遠方の得意先に挨拶に回って戻るともうすっかり暗くなっていた。
朝のうちに直帰の連絡を会社に入れておいて正解だった。今日から中途採用で入社して来た人に会えなかったのは残念だった。潤は、後任者である後輩と別れて電車に乗った。
納品のついでに寄るところがもう一軒あった。途中下車をして繁華街に降り立つ。駅から歩いてすぐのところにその雑貨店はあった。
季節のディスプレイが施されたウィンドウの中で、相変わらずガラス細工の鳥の置物が輝いていた。
「あら、お疲れさま」
「持って来たよ」
「ありがと。助かる」
運送代をかける程でもない量の雑貨を納品書とともにレジ台に置いた。
「じゃ、次からは後任者にお願いね」
「分かった、あ、潤、もう帰るだけならコーヒーでも淹れよっか? もうお客さんほとんど来ないと思うし」
「そうだね、そうしてもらう」
潤は奥のカフェコーナーの椅子に掛けた。
「外回りから内勤になるんでしょ? 良かったじゃない」
「そっかなあ、体なまりそう」
「企画の仕事でも外出あるでしょ」
「まあね。あるっちゃあるけど」
「異動と同時に昇進ってすごいじゃん」
「給料面では助かるけど、分からないことだらけでいきなり部下抱えるのも気まずいよ」
「うん、まあ、大丈夫でしょ、あんたなら。はい、どうぞ」
一日歩き回った疲れが癒されるような香りが漂った。
「姉貴は大丈夫なの?」
「何が?」
「悠太のこともあるし」
姉の紗江は陳列の手直しを始めた。
「何とかなるよ、大丈夫。悠太はまだしばらくお母さんがみてくれるし、……せっかくお父さんが残してくれたお店だし、あんたが格安で納品してくれるし、なんちゃってね」
「俺が納品してたのなんて知れてるじゃん。それにその格安ってのはもうできないかもよ」
「そう言えばそうだった」
「俺はここ売ってもいいと思ってるよ。駅前だし、いい値段つくよ」
「だーめ。私は反対」
「ここまで通うのも大変でしょ毎日。交通費もかかるし。シングルマザーなんだから金いるでしょ?」
紗江は隣の県にある自分たちの実家で息子の悠太と母親と暮らしていて、この店に来るのに一時間以上かかっている。自営業である以上交通費も利益を削るものになることが潤は気がかりだった。
「いいの、いいの。何とかやってけてるから」
「悠太のこと思って言ってんだよ、俺は」
「悠太には少々の苦労はさせないと、立派な人間にならない」
「姉貴」
「とにかくいいの」
「坂下さんは悠太に会いに来るの?」
「来ないねっていうか、メール無視してるから」
「会わせてやれよ、悠太だって喜ぶだろ?」
「あんたが父親代わりしてくれてるんだからいいじゃん。悠太も潤おじちゃんがいいっていつも言うよ」
「俺だってたまにしか会わないじゃん」
潤はため息をついた。誰にでも朗らかに機嫌よく対応する姉は接客業には向いていると思うが、経営視点が抜けているところがいつも気になっていた。
父親が残したこの雑貨店を失うことに寂しさや名残惜しさを感じるのは理解できるが、姉の紗江が意地だけでそれを行おうとしているようで物悲しい気持ちになる。
「そんなことよりさ、悠太がこの間、保育園で頑張った姿見てやってくんない」
「え、ああ、いいよ見せて」
紗江は潤のすぐ横に立ってスマホを見せてきた。甥っ子の悠太が粘土で作った動物を前にしてピースサインをしていた。
「おお可愛い、頑張ったじゃん悠太、すげえうまくできてんじゃん」
「でしょ? これ何に見える?」
「うーん、何だろ、馬? 首がまあまあ長いし」
「ブー、これね、そこにあるやつ」
紗江はそう言って表に面しているウィンドウの方を指差した。
「え? もしかしてあのガラス細工の鳥?」
「そう。あの子がここ来るたびにこれ何の鳥っていつも聞くんだけど」
「なんかそう言えば言ってたなあいつ」
「お母さんも分からないから一緒に考えようねって言ってたら、いつの間にか粘土で作ってて、けっこう記憶力とかすごくない? こんな探求心とか私にはないわとか思って、なんか悠太できるかもって」
「そうだな」
悠太の話をする紗江はいつも楽しそうだった。親ばかだと言えばそうかもしれないが、悠太という存在が今の紗江にとっての一番の支えであり、前を向いて生きていく意味なのだろうと思ってしまう。
言われてみれば何の鳥なんだろう。潤はウィンドウの方を何気なく見た。
自分が小さい頃からあの置物はオブジェとして置かれているが、親父は何の鳥かなんてそんな話は一度もせずに死んでしまった。
白鳥にしては首が短く、シギやカモメにしては首が長いような。そんなことはまあいっか。あの置物をきれいだと言ってくれる人が多いのも事実で。
いつまで続くか分からないけれど、それまではあの置物にも頑張ってもらわないと。
「じゃ俺帰るわ」
「うん、気を付けてね。頑張ってよ、課長」
「もういいって」
店の外に出たら寒気が一気に押し寄せた。
「さっむ」
かばんを手首にひっかけたまま両手をポケットに突っ込んだ。ふとウィンドウの一部に水滴がついていることに気付いた。誰かがウィンドウを見ていたのかもしれない。もしお客さんで自分がいたことで入りにくい思いをさせてしまったなら、何だか申し訳なかったなと思った。
アパートの前まで来ると、無意識に二階の端の部屋に視線が走ってしまう自分がいた。
電気が点いていた。今何してんだろ。どんな晩飯食ってんだろ。どんな仕事してんだろ。ストーカーか……。
今朝会ったときマジでビビった。こんなに早いタイミングで顔見知りになるとは思ってなかった。しかもあっちから挨拶してきて、自分がちょっと情けなかった。
俺がうろたえているように見えたんだろうな、自覚もあったし。でも変に思われてないかな。
タイプの奴を前にしてどきどきして緊張していたって。まさかな。そんなことまで思うようなタイプにも見えなかったし。
そう言えば今朝コート着てたけど、どう見てもその下はスーツ姿だったな。あんまり様になってなくて可愛かったな。普段着の方が絶対に可愛い……ってマジでやめろって。
次会ったら絶対俺から声かけよう。じゃないと……可能性は永遠にゼロだし、それに、何のためにここに残ったんだよ。
潤はいつもより乱雑にドアを開けて部屋に入った。
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