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第3話 偶然の始まり

 終業のチャイムが鳴っても、春は周りに気を使ってキーボードを打ち続けていた。 「水井さん、今日はもう帰っていいよ。気使って残らなくていいからね」  塩崎がそう言って微笑みかけてくれた。 「ありがとうございます。承知いたしました。では明日に備えてそうさせていただきます」  上司の優しさと初日を無事に終えた安堵感で春も自然と笑顔が出た。  会社が入っているビルを出たところで風呂用洗剤を買っていないことを思い出した。昨日立ち寄ったドラッグストアがこの辺りでは一番安いので会員になって正解、と同僚からも教えてもらった。  あそこなら、ちょうど、あのガラス細工の鳥も見れるしね。  ドラッグストアで買い物を済ませて数軒先の雑貨屋を目指した。遠くからでもガラス細工の鳥の置物の煌めきが届いていた。店員に気付かれると気まずいのでそろっと歩を進めた。  やっぱり、これ、おばあちゃんちにあったやつと同じだ……。  母親が亡くなってからは祖母の家で育ってきた。和室に置いてある色褪せたたんすの上に埃を被ったままずっと置かれていた置物があった。それがどうしてもこの置物と同じだと感じてしまう。  大量生産しているものであれば同じものがあっても不思議ではないけれど、何かが春を引き寄せた。  祖母を見送ってから借家も引き払った。そのとき、その置物も業者に引き取ってもらった。あれがもし、このウィンドウの中で光り輝いている置物と同じ種類のものだとすれば、なんだかもったいないことをしたような気持ちになった。  七色に光る透明な世界の中に、ふと幼い日の記憶が蘇った。  祖母の照子が購入し、それを今は亡き母の奈美が大切に飾っていた。そこまではちゃんと覚えている。でも母が亡くなってからは祖母も手入れをする気力も失い、たんすの上に放置されたままになった。  祖母がこの置物を購入しているときの姿も薄っすらと浮かんできた。  そう言えば自分も祖母と一緒にいたんだ。この置物を買うときは祖母と一緒だった。確かまだ自分は幼稚園生だったような。  でもこの雑貨屋ではない。もっと広い……、そうだ、屋外。市場みたいな場所。確かそこで自分は泣いていた記憶がある……。  なんで泣いていたんだっけ……あっ、迷子になってたんだ……でもそのとき、一人でちゃんと戻れたんだったっけ……。  そこまで記憶を辿ったところで視界に人影が映った。ディスプレイの隙間から店内が見えた。この間の女性の店員さんかと思った。  声をかけられると申し訳ないので帰ろうかとしたそのとき、奥のカフェコーナーのような場所の椅子にかけている人が目に入った。座っていても分かる大柄な体格に、スーツ姿、清潔感のある短さに整えられた髪型、そして鼻筋の通った横顔。  あれ……あの人、見たことある……確か、一階の、そう工藤さんだ。  とすぐにこの間の女性店員がスマートフォンを片手に工藤のすぐ横に立ち、親しげな雰囲気で画面を見せていた。女性店員はとても嬉しそうな顔をしていた。  工藤も愛しさを滲ませたような顔で画面を見つめ何やら話している。どう見ても親密な仲に見える。ただの客と店員の仲ではなさそうだ。  ただの集合住宅の住人同士の関係で、しかも今朝初めて言葉を交わしただけなのに、なぜか春の胸がちくりとした。  友達……兄妹……ううん、きっと恋人だ……。かっこいい人だし……。店員さんもきれいな人だし……。お似合いだな。  男性と女性の恋人が羨ましかった。どんな場所でも、誰の前でも、普通でいられる。職場でも友達の紹介でも同級生でも、どんな関係からでもその候補が出てくる。それに対して誰もおかしいなんて思わない。応援までしてくれる。  その姿を見るのは、この置物みたいにいつだって眩しい。光が当たっていて周囲にも守られている。凍てつく風のような言葉を投げつけられることもない。  埃を被ったままでも誰も気付かない春の存在とは違う。  春は二人に気付かれないうちにウィンドウを離れた。  工藤さんだって僕に見られたら気を使わないといけなくなるしね。  少し進んで足が止まった。そろっと振り返った。  入口の少し上のレトロな看板には『アジール・フジ』と書かれていた。そして、ウィンドウの一部が白くなっていることに気付いた。  あれくらいは残しててもいっか。拭きに行くのもおかしい。どうせ誰も気付かないよ。  帰宅して間もなくチャイムが鳴った。この部屋を訪れて来るのは大家の松野夫妻ぐらいだ。 「はい」  返事をしてドアを開けた。するとそこに立っていたのは、前の職場の人間だった。 「え……菊谷君……?」 「突然すみません……」  四つ年下の元後輩の菊谷悟志が暗い顔をして立っていた。春よりも背が高く雰囲気も爽やかだったのに俯いているせいか、以前の快活な印象を失っているように見えた。 「どうして、ここが……?」  菊谷は春の元上司に聞いたと話した。退職後の書類などを送る手続きの際にここの住所を知ったという。 「そうなんだ……それはそうとして、何かあったの?」  悟志の表情にみるみる悲壮感が漂い始めた。 「俺も会社辞めたんですよ……それで……ごめんなさいっ!」  悟志はそう言って腰を折り曲げた。 「菊谷君……っ、どうしたのっ?」 「本当にごめんなさい!」 「ちょ、ちょっと待って、何のこと? え……と、とりあえず入って」  顔を上げた悟志の目には涙が溜まっていた。玄関先で大きな声を出していると周囲に迷惑だと思い、悟志を中に招き入れた。  悟志は上司の指示でリストラ対象の社員の書類をまとめていたとき春の書類を見つけ、真面目に働いている人に対してもこういうことをするんですかと抗議したと言うのだ。すると「じゃあお前がリストラされるか?」と聞かれ何も言い返せなかったとのことだった。それに対して罪悪感をずっと抱いていたという。 「それは菊谷君のせいじゃないよ。僕の問題だよ」 「でもっ……俺がもっとちゃんと会社に抗議しとけば……」 「ううん、会社は、一人の社員が声を上げても決定したことを覆さないよ」 「……なんか申し訳なくて、俺が代わりに辞めとけば」 「それは違うよ、菊谷君。あくまでも戦力外だって評価されたのは僕なんだから」 「水井さん……俺もあのとき一緒に辞めておけば良かったって思うんです。こんな思いをするなら……なんか申し訳ないっていうか」 「僕も、確かにあれからいろいろ大変だったけど、こうやって転職先も決まったし、もう大丈夫だから。それで菊谷君は今はどうしてるの?」 「転職先がなかなか決まらなくてまだ失業手当もらってる最中です。水井さんの転職先って、もしかして同じ業界っすか?」 「うん、そうだよ。中途採用だったら異業種は難しいよ」 「まあ、そうっすね。俺も多分そうなるだろうな」 「菊谷君はまだ二十五だしどんな業界でも大丈夫じゃない?」 「いや俺も同じ業界がいいっす」 「そうなの?」 「はい……できれば、その」 「うん、なに?」 「いや、あの、水井さんの転職先って、その」 「え?」  とそのとき、悟志の腹が鳴った。 「何も食べてないの?」 「ふぁい」 「今からご飯作るけど、食べてく?」 「え、いいんですか、ありがとうございます!」 「急に元気になったね」 「はい! 水井さんが元気そうだったんで安心したのもあります!」 「ならお互いに良かったね」 「そうっすね! あ、俺今日は飲みたい気分なんでコンビニで酒買ってきます」 「ああ、うん、じゃ僕は食事の準備しとく」  悟志がそう言って飛び出した後、春は部屋着に着替えて、台所に立った。 ◇◇  上下ジャージにダウンジャケットを羽織って、潤はコンビニに行くためにアパートを出た。冷蔵庫に入っているものでは腹が満たされないと気付いたのが遅かった。  アパートの階段を誰かが下りて来る音がした。潤は胸が高鳴り階段の方を見た。一人の若い男が下りて来たが期待していた人間ではなかった。  顔を戻した。次の瞬間、はっとなってもう一度その男を見ると、向こうも同じようにこちらを見ていた。 「あれっ、工藤さん……っ」 「えっ、菊谷?」 「いやいやびっくりですね、もしかして工藤さんちってここだったんすか?」 「そうだけど、なんでお前ここにいるの?」 「ああ、前の職場の先輩がこの上に引っ越して来たんで遊びに」 「……え?」  潤はゆっくりと二階を見上げた。 「もしかして……」 「あの端の部屋っすけど」  と悟志は潤の視線の先にある部屋を指した。 「工藤さん? どうかしました?」 「は? いや別に何も」 「なんか今止まってましたけど」 「いいや」 「工藤さんももしかして知ってました?」 「何が?」 「水井さんのこと」 「はあ? 知らねえっ……あ、ああ水井さんなら挨拶はしたよ、もちろん知ってるさ、新しく引っ越して来た人だろ」 「そうじゃなくて、水井さんと俺、同じ会社だったんすよ」 「ええっ? ……ま、マジか?」 「はい、ああ、通りで」 「なんだよ通りでって」 「いえ別に」 「で、なんでお前こんな時間に?」 「いろいろあって。今日は泊めてもらおうかなって」 「どこに?」 「なので先輩ちに」 「俺んとこ?」 「いやいや、水井先輩んちにです」 「はあぁ?」 「なんなんすか」  そのとき、二階の部屋の扉が開いた。潤と悟志が見上げると、水井春が柵からこちらを見下ろしていた。水井春は瞬きを繰り返していた。 「水井さーん、超奇遇なことが起きました」  悟志が二階に向かって手を振った。春が階段を下りて来る。潤は自分の息が荒くなるのを感じた。  春はふんわりとしたオーバーサイズ感のある部屋着のような服装で、細くて白い首が目立ち、戸惑っている表情が余計にその姿に可愛らしさをまとわせた。潤は春に目が吸い寄せられた。  ヤバい……可愛い……鎖骨見えかけててヤバイ。 「こんばんは。あの……もしかしてお知り合いです、か」  春が丁寧な口調で潤に向かってそう聞いてきた。すると悟志が代わりに口を開いた。 「業界でチーム作って草野球とかフットサルとかしてたの知ってます?」 「ああ、なんとなく」 「そこで工藤さんと俺、ずっと同じチームだったんすよ。遠征のときとかいつも一緒で」 「ええ、そうだったの」 「水井さんスポーツ苦手だって言って参加してなかったですもんね」 「うん、まあ。じゃ、工藤さんも同じ業界なんですか?」  春が工藤に話しかけてきた。 「あ、は、はい、そうですね」 「そうなんですね」  わずかに微笑んだ春の瞳が薄暗い中で光を集めてきらきらしていた。それをずっと見続けていたら常識が保てなくなりそうで、潤はすぐに視線を外した。  春が何か聞きたげにしていたが、なぜか苛立つ自分が自分を素直にさせてくれなかった。 「あ、俺ちょっとコンビニ行くんで、じゃ失礼します」 「ちょうど俺もコンビニ行くところだったんで一緒に行きましょうよ」 「あ、おう。では」  潤が目線を合わせずに春にそう言うと、 「では、また」  春はそう言って会釈をした。本当は春と二人きりで話したかった。なのにそれができない状況を恨んだ。それができない自分を恨んだ。  コンビニまでの道すがら、横から悟志がいろいろ話しかけてきたが耳に入ってこなかった。楽しそうに話す悟志に無性に腹が立った。  どうしてこんな気持ちになってるんだろう。ヤバいな俺。でもどうしても譲れない。 「おい、菊谷、今晩、俺んとこに泊まれ」 「はい?」 「いいから」 「なんでっすか? 俺は水井さんちに泊めてもらおうと思ってるんすけど」 「それもう水井さんに言ったのか?」 「いやまだっす。酒飲みながらお願いしようかなぁって」 「お前なぁっ」 「へ? なんか、怒ってません?」 「……っいいから、お前は俺んちの泊まるの、そして酒も俺と飲め」 「酒はいいっすけど泊まるのいやっすよ。工藤さんと一緒て男くさくてしゃーなくなるじゃないですか」 「俺も同じ気持ちだよ。でもそうしろ、いいな」 「だからなんでなんすか? え、なんか水井さんとありました?」 「あるわけねーだろ、ただの住人同士だよ」 「水井さんの方が小綺麗だしな」 「俺んとこもそんな汚くねえよ」 「いや、部屋っていうか、空気っていうか、人っていうか?」 「うっせー。とにかく、同じ住人にお前が迷惑かけたりして俺が困るの嫌なの」 「え? 無茶苦茶な理由っすね。だって水井さんと俺は元々知り合いなんすよ?」 「いいから従え。お前、どんだけおごってやったか分かってんだろうな?」 「うわうわうわ、それ今言いますか」 「感謝は、ないってのか?」 「分かりましたよっ、先輩んとこに泊まりますよ、ってかなんなんすかこの会話。普通は俺んとこに泊まるな、うぜえんだよでしょ? 逆でしょ」 「それでよし」  潤は悔し紛れに悟志の頭をはたいた。 「いって! ってかマジで意味わかんないっす今の」  潤はその言葉は無視してポケットに手を戻した。  悟志を無理に自分の部屋に泊めさせ説教をして翌朝は一緒に部屋を出た。  駅で水井春とばったり会ってしまい、また落ち着かなくなってしまった。 「工藤さん、おはようございます。菊谷君、昨夜は大丈夫だった?」 「いやあ、ほんとは水井さんとこ泊まりたかったんすけどね。話したいこともいっぱいあったんすよね」 「うん、またいつでも来なよ」 「いいんすか? お邪魔じゃなければ来たいっす」 「全然大丈夫、この通り一人だから」  春が寂しそうに笑った。でも一人という言葉を聞いて潤は胸が温かくなった。 「実は俺も水井さんみたいに同じ業界に再就職したくて、水井さんの就職先って聞いてもいいっすか? そこも検討したいっていうか企業研究したいんで」 「ああ、じゃ後でラインしとくね」 「うぃっす!」  悟志と春が二人で会話を続けていたので潤は中に入ることもできす、ただ横を向きながら会話の内容に耳を澄ませていた。春はどうやら今日が転職先の二日目の出勤らしい。  そろそろ乗り換えの駅に着きそうになったので潤が降りようとすると、春も同じような動きになった。悟志は新幹線に乗るために今の路線に乗り続けることが分かったので、潤と春はホームに立って、寂しそうに手を振る悟志を見送った。 「では僕は三番線なので失礼します」 「あ、俺も三番線なんですよ」  じゃという呼吸で三番線まで一緒に行くことになった。三番線のホームでも、自然と同じ位置まで歩き、列に並んだ。  潤は緊張していることを隠していたが、春は落ち着いているように見えた。相槌も愛想笑いも他人行儀なものを感じた。それで当たり前なのに少し寂しいと思ってしまった。  春が降りる態勢になったので同じ駅だと分かった。  なんか偶然が多いな。ま、この駅はオフィス街だしこんなこともあるか。  春も目がきょろきょろし始めた。 「奇遇、ですね、俺もここなんすよ」 「ああそうなんですね」  階段を上ったときに道が分かれるだろうと思っていたのに二人で同じ出口を目指していることが分かった。だんだんお互いに無口になり始めた。  出口を出たらさすがに分かれるだろうと思っていると、やはり同じ道を進み始め、二人で同時に形式的に微笑み合った。  ビルがいくつも続くが、同じビルを通り過ぎ、同じ曲がり角で曲がった。そして同じビルに入った。 「え、工藤さん、ここのビル、なんですか……」 「は、はい、俺もここなんですよ。ち、ちなみに何階ですか?」 「僕は八階です」 「えぇっ? お、俺も……八階です……」 「っぇえ……八階って確か、一社しかない、です、よね……っ」  二人が驚きの声を上げたと同時にエレベーターの扉が開いた。

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