4 / 5

第4話 勘違い

 みんなの笑い声で春の気持ちは温かくなった。  入社早々のランチ会で歓迎を受けただけではなく、同じアパートに住んでいる工藤潤が転職先の上司だったこと、満員のエレベーターの中で潤が驚いて叫んだこと、そしてそのことに対して部署のみんなが明るく笑ってくれたことが春に驚きと熱をもたらした。  さっきからずっと自分の頬が熱くなっているのが分かる。  ふと潤の方を見ると、一人だけ強張った表情のまま汗をかいていた。 「漫画みたいな偶然にも程があるよねぇ、名前まで似てるし」  カップを手にした主任の鈴屋加奈子が笑いながら食後のコーヒーを口に運んだ。「確かに」「設定がすぎる」という言葉が飛び交い、レストランの一角の場が和んだ。  潤はさっきからというより、出勤時のエレベーターを降りてからずっとこの調子で、朝一の打ち合わせから何時間も落ち着かない様子だった。  なんでそこまで動揺するのか、春にはよく理解ができなかった。部下と同じ集合住宅に住んでいることがそんなに気まずいのだろうか。  確かに、菊谷悟志という共通の知り合いがいたこともあり、仕事とプライベートを切り分けられずに、部下に知られたくないこともあるのかもしれない。そういうことであればそこは春が一歩大人になるしかないんだろうなと思う。  でもこんなハンサムで背の高い男性が上司っていうのも悪くないな。毎日緊張しちゃうかな……あ、ダメだ、同性の自分がこんなこと思ったら……伝わったら迷惑でしかない。 「水井さん」 「っえ、あ、はい」  鈴屋の呼びかけに春は慌てて顔を上げる。 「なんか浮かない顔してましたけど、やっぱり上司と同じアパートって気まずいですよね」 「あ、いえそんなことは」  春の回答を聞いて微笑んだ鈴屋は潤の方を向いた。 「工藤さんさ、思いきって引っ越せばいいのに。水井さんが可哀想じゃないですか」  潤は目をきょろきょろさせ、手の甲で額を拭った。 「そ、それも考えたんすけど、あっの、ま、家賃も安いし助かってるっていうか、その」 「昇進したんだから、頑張ったらそこは」  潤が口をぱくぱくさせると、それを見かねた部長の塩崎健が口を開いた。 「鈴屋さん、いくら社歴は先輩でも今日から工藤さんは上司なんだから」 「あら、そうでしたね、ごめんなさい」  くすくすという笑い声が起こり、潤はコップの水をぐいっと飲み干した。  春は、潤が妙に焦ったり動揺したりする理由は分からなかったが、その姿に少しだけ胸がきゅっと締め付けられた。  転職先の上司がいい人そうなので安心したのもあったが、別の感情が芽生えそうで、そっと潤から視線を外した。  オフィスに戻っても潤はうろうろ歩き回り、なかなか席に着こうとしなかった。 「工藤課長、そろそろ報告書にサイン下さい」  鈴屋が、棚のファイルを出したり入れたりしている潤に声をかけた。 「っへ、ぇ? あぅ、あ、それっすね」  潤がそう言った途端に持っていたファイルを全部落としてしまい、大きな音が響いた。 「うわ、わわっ」 「何やってるんですか、もう」  鈴屋が駆け寄って行ったのを見て、春も立ち上がった。 「私もお手伝いいたしましょうか?」  すると潤は慌てた顔でこちらに手をかざした。 「いやっいい、いいです、水井さんはいいですっ」 「でも……」 「ああ、いや、こっちはいいので、あ、あの俺の机の上に置いている報告書を鈴屋主任の机に置いてあげて下さいっ」  そう言ってファイルを片付け始めた。 「あ、はい、承知いたしました」  春は、ふと隣の潤の机を見る。報告書と書かれた書類があったが、昨日気になっていたガラスの鳥の置物に似た文鎮がその書類の上に乗っていた。  そのガラスの向こうに昨夜見た光景が映る。  美人な女性店員と楽しそうに話していた潤の姿。少し緩めたネクタイと柔らかい表情。二人でスマートフォンの画面を見ながら談笑している姿が眩しく光った。  普段の工藤さんはあんな顔するんだよね……あれが素の工藤さん。  春は文鎮から目を逸らしながら文鎮を持ち上げて近くに置いた。報告書をさっと手にして向かいの机に回る。潤と鈴屋の二人はやっとファイルを片付けたようだった。  あの文鎮、やけに大事に使っているんだね……やっぱりあの店員さんから……。  何考えてんの……バカじゃないの……嫉妬なんて僕が抱いていい感情じゃない。  自分の机に戻っても視界に入るガラスの鳥の文鎮はその輝きを知らしめてくる。 「集中、集中……」  そう呟いてキーボードを叩き始めると、隣の社員から得意先の請求書リストを渡された。システムにしばらく打ち込んでいると春の目と指の動きが止まった。  請求先には『アジール・フジ』と書かれていた。住所の欄に視線を動かす。やはりあそこだ。もう二回も、ウィンドウに飾られたガラスの鳥の置物を見に行ったお店だった。  電車の窓の向こうに広がる夜の都会を見つめる。  ……っていうことは、あの文鎮はサンプルかな……って僕には関係ないじゃん……。  春の足は自然と『アジール・フジ』に向かっていた。  昼過ぎから終業までは隣のデスクには工藤潤の姿はなかった。ファイルを片付けた後、潤は取引先のメーカーに出向いて直帰すると言っていた。  ……確かめたいだなんて、おかしいって分かってるのに……。  クリスマスの装飾のいろんな色を吸収しているガラスの鳥の置物は今日もきれいだった。  やっぱり、きれいだな……これを見に来ただけでもよしとしよう。確かめるなんておかしいよ、工藤さんに失礼だ。上司であることも分かったのに、僕が間違ってる……。  もうすぐクリスマスか……。  店の明かりは点いているが、女性店員の姿は見えなかった。奥にいるのだろうか。また気を使わせるといけないので、引き返そうとしたとき背後から声がした。 「今日は中に入って下さいね」 「……ぇ……」  振り返ると、エコバッグを提げた店員の女性が穏やかに微笑んで立っていた。 「あ、いや、その」 「二回目ですよね、来て下さるの」  本当は三回目だが、春は視線を落として頷く。 「ちょうど良かったです、実は足りないものを買い出しに行ってて店は鍵かけてたんです」 「そうだったんですね」 「お客さん来ない時間帯だからいいかななんて、本当はダメですけど」  女性は微笑んでから店の鍵を開けた。 「では僕は、ここで」 「寒いなか二回も来て下さった方をここで帰すわけにはいきません、さあどうぞ」  女性はドアを開けて待つ素振りをした。 「でも、その」 「ご心配されなくても押し売りなんてしませんよ。少しだけでも温まって帰って下さい」 「そういう意味では……は、はい。ではお言葉に甘えて」  女性の笑顔に引っ張られるように店内に入った。暖房がつけられていたようで暖かい。冷えた体には正直有難い休憩だった。  売り場にはインテリア小物や可愛らしい雑貨が几帳面に陳列されていた。自分の勤務先のカタログやシステムの中に見覚えのある商品もいくつか見つけることができた。  ここがうちの会社の得意先なら余計に失礼のないようにしないと。もしそのことが話題に上っても商品の勉強のために来たと言えば大丈夫だろう。 「コーヒーと紅茶どちらが好きですか?」  雑貨を見つめていた春は、カウンター席の方を見る。 「いえ、そんな、申し訳ないので」 「遠慮なさらないで下さい。私も温まりたいのでぜひご一緒に」 「はい、すみません、僕はどちらでも大丈夫です」  女性店員は手を動かしながら口を開いた。 「インテリアお好きなんですか?」 「はい、まあ。昔から雑貨や小物に興味はありました。男なのにおかしいですよね」 「いえ、全然、どうしてですか?」 「周りから男らしくないって言われることが多かったものですから」 「ああそういうこと……そんな言葉は覚えておく価値もないと思いますよ私は」 「ありがとうございます」 「さあどうぞ、ミルクティーにしてみました」  促され、恐縮しながらティーカップの置かれたカウンター席に腰かける。  この席は、この前工藤さんが座っていた席だ……。  潤とこの女性店員が楽しそうに話していた光景がまた蘇りそうになったが、それを打ち消すように話しかけられる。 「温かいうちにどうぞ」  一口飲むとミルクティーの香りが鼻を抜け、喉に心地のいい温度を感じさせる。 「おいしいですね、なんだかミルクがすごくミルキーというか」 「あ、分かります? 嬉しい、私牛乳にはちょっとこだわってるんです」  女性店員はそう言ってマグカップを口に運ぶ。  女性店員の微笑んだ顔を見ていると、春の視線は自然と落ちた。  やっぱりこの人は工藤さんの恋人なのかな……こんなに自然な笑顔が出るなんてきっと幸せなんだろうな……。美人だし、明るいし、優しくてよく気が付く……。  営業に来た工藤さんが、この人にひと目惚れでもして、話してみると性格も良くて、周りには秘密とか言いながら付き合い始めたのかな。  男性から愛されて満たされているからこんなにキラキラしているのかな……。羨ましい……工藤さんに愛されて幸せなこの人が羨ましい……。こんなに真っ直ぐに男性から愛される女性が羨ましい……。僕も女性に生まれたかった。 「あの、お客様?」 「え、あ、はい」 「大丈、夫ですか、なんか具合でも悪いとかですか?」 「いえっ、違いますっ、すみません考え事しちゃって」 「ならいいんですけど。そう言えば、あのウィンドウの鳥の置物、とても気に入って下さってるようですね。あ、違いますよ、純粋に聞いてるだけですので」 「ああいえ。はい、すごくきれいだなって。それと実は、昔うちの実家にもあれとよく似たものがあったなって思いまして」 「え、そうなんですか」 「はい、もう今はどうなったか分かりませんが、ちょうど大きさもあれくらいで、何の鳥かも分からなくて。うちのは埃にまみれてあんなに輝いてはなかったんですけどね」 「……そうなんですね、ちなみにそのご実家にあった置物はいつぐらいにご購入されたか覚えていらっしゃいますか?」 「ええっと、僕が小学校に入る前なのでもう二十数年前ですかね、なんでですか?」  女性店員は黒目を動かして考えるような顔をした。 「二十数年前……」 「それがどうかしましたか?」 「あ、いえ、実はうちの置物もいまだに何の鳥かも分かってなくて、なんだかもしかして同じものかなって思ってしまって」 「同じものってやっぱりあり得ますか?」  女性店員が答えようとしたそのとき、入口のドアが開いた。  春も何気なく入口の方を見ると、そこには驚いた顔をした工藤潤が立っていた。 ◇  姉の店で、しかもカウンター席で飲み物を飲みながら姉の紗江と話をしている水井春の姿を見て、いったい何がどうなっているのか分からなくなる自分がいた。  だが、驚いているのはやはり自分だけではなさそうだった。 「工藤課長……」 「水井さん、どうして、ここに……」  すると紗江も同じように表情を変えた。 「え? どういう、こと……潤の会社の方?」  潤は紗江の問いかけに頷いた。すると春は急に立ち上がり椅子を戻した。 「すみませんっ、あ、ごちそうさまでした、僕は中途採用で工藤課長の会社に昨日入社したばかりで」 「そうだったんですか、ならそう言って下さればいいのに」 「いや、こちらが得意先だってことはたまたま知ったというか、何ていうか、しょ、商品の勉強のためになるかなって」  潤は会社の誰かが何かを頼んだのかと気になった。 「もしかして営業部の誰かに納品頼まれました?」 「そういうわけではないんです、会社に入る前からこの店が気になっていて」  動揺している春に代わって紗江が口を開いた。 「そうよ、こちらの方は、一週間前くらいに一度来て下さってたのよ。前のウィンドウの鳥の置物を気にして下さってたの」 「そうだったんですか、それは奇遇ですね。あ、あの、じゃ俺も加えてもらおうかな」  潤は勇気を出して話をしようと持ち掛けたが、春は気まずくなったのかコートを手にし始めた。 「僕はここで失礼させていただきます」  春はそう言って一礼すると、潤の横を通り過ぎようとした。 「水井さん、ちょっと待って、そんな気を使わなくていいよ、この店は一応得意先ではあるけど、その」 「あ、いいんです、逆にお気を使わせてしまってすみません、失礼します。また明日からもよろしくお願いいたします」  潤の言葉を遮って、春は硬い動きのまま出て行ってしまった。潤は紗江の方を見る。紗江も軽く首をかしげて口角を下げた。  上司の俺がいたら無理もないか……お気に入りの店を見つけたのに、会社の上役がいたらリラックスもできないよな……なんだか申し訳なかったな。だけど、うちの店を気に入ってくれるなんて嬉しいな。やっぱり何かの縁があるのかもな、なんて。 「潤、何ニヤニヤしてるの?」 「ああ何でもない、ごめん」 「水井さん? 潤の部下にあたる人なの?」 「うん、そう、しかも住んでるアパートも同じで」 「ええ? うそ? ほんと?」 「ほんと」 「だったら一緒に帰れば良かったのに」 「まあね」  姉に言われるまでもなくさっきまでは潤もそう考えていた。しかし春の動揺や焦りを見ていると別の事情もありそうで、そこまでは言い出せなかったのだ。 「でもすごく誠実そうで良さそうな人ね。しかもアイドル並みのルックスでびっくりしちゃった」 「ふーん、そう」  潤は気付かない振りをしてコートを脱いだ。 「潤もそう思わない? 水井さん、かなりルックスのレベル高いよ。なんか可愛いっていうか」 「中身はすごくいい人だってのは感じたけど、外見はそこまで意識したことはないかな」 「同性から見たらそんなもんなんだね。女子からしたらもう王子様って感じ」 「ははは何それ」  もういいよ……それ以上言われると本音が出そうで苦しい……。 「目がキラキラしてて色白で小顔で鼻筋も良くて口も可愛くて」 「姉貴、俺にもなんか淹れてよ、あったかいやつ」 「え、あ、はいはい。その前にあっちだけ片付けさせて」  紗江はそう言うと潤の背中側に回って商品の整理を始めた。  春の外見への褒め言葉が止まると、潤の過剰なドキドキも止まった。温かい飲み物を飲まなくてももうすでに体が熱くなっていた。  目の前に春の飲みかけのカップが置かれていた。口を付けていたと思われるところにリップクリームの油分と薄茶色の液体が混ざって付いていた。  熱さが興奮に変わろうとする前兆を感じて、潤は慌てて目を逸らした。 「あれ、ハンカチ……」  紗江が潤のすぐ後ろで屈んで何かを拾い上げた。それは見たことのあるものだった。 「ああ、水井さんの落とし物じゃないかなこれ。慌てて帰ったから気付いてなかったんじゃない。ちょうどいいから、これアパートに帰ったら渡してあげてよ」 「お、おお、そうだな、落としたのがここで良かったな、いやほんとに」  潤は、困るような嬉しいような気持ちが泡立った。アパートの部屋を訪れるいい口実ができたけれど、妙な緊張も走って、息が荒くなりそうだった。  手にしたタオルハンカチは、やはり、駅で拾ってあげたときと同じものだった。  アパートの前まで来ると、自然と二階を見てしまう。まだ灯りは点いていた。  寝る時間には早いよな……。何してんのかな。同じアパートどころかまさか同じ会社で同じ部署で、しかもあの店を知っていたなんて……。これって絶対縁だよな。これって、もしかして、そういう方向も考えていいってことかな。  セクハラになるか、いや、でも純粋な恋愛ならそうはならない。って言っても周りが何て言うか……っていうか本人がそうじゃなかったら、俺はただのストーカー。上司兼同性ストーカーなんて最悪の最低じゃん……。パワハラもセクハラも全部じゃん。やっぱあり得ないよな。  うわぁ、道は遠いわ……。いやでも待て、今の俺にはこのハンカチがある。でもこれって今すぐ行くべき? なんか会いたい気持ちがバレそうだな。やっぱり一回自分の部屋に戻って部屋着に着替えてリラックスしている雰囲気で行った方がいっか、でもそれじゃ、人の落とし物そんなにゆったりしてから来るんかいって思われるな。  まあでも、一応上司なんだし、ここは親切な課長って感じで行くのがお互いのためだよな。ということはこの足で行こう。よし。  潤は、滅多に上らないアパートの外階段を静かに上って行った。

ともだちにシェアしよう!